管理人 : 松浦明宏
新刊拙著『プラトン後期的ディアレクティケー -イデアの一性と多性について-』

近々、晃洋書房さんから新しい拙著を出します。タイトルは、『プラトン後期的ディアレクティケー -イデアの一性と多性について-』です。内容を簡単に紹介します。

イデアは一であるとともに多でもあるとプラトンは考えていた。総観と分割に通底する一性と多性が『パルメニデス』篇第二部のアンチノミーに反映され、「多でない一」と「多である一」が描かれている。特に「多である一」には対話篇第一部のイデア論批判に対応する鍵が隠されている。対話篇第一部に描かれているイデア論批判は、基本的に、イデアは多ではない、イデアは事物(他のもの(heteron))と関係を持たない、という仕方で、イデアの多性や事物との関係性を否定した形で成り立っている批判である。そうである以上、イデアは多でもあり、事物と関係を持つことを示せば、そうしたイデア論批判は効力を失う。

たとえば、第三人間論がその典型である。イデアは多でもある以上、無数のイデアの存在を示してイデア論に反論する第三人間論はイデア論批判として無効である。ギーチのようにポンド原器を例に出してイデアの一性に固執する必要はないし、ヴラストスのように暗黙の前提を補って第三人間論の論理的妥当性を示すことは、イデア論をサポートしていることになる。

プラトンが『ソピステス』篇で分割法を駆使できたのも、その基礎として、一なるイデアが多に分かれることを『パルメニデス』篇第二部で自ら示していたからである。ディアレクティケーの創始者とされるエレア派のゼノンは帰謬法的なディアレクティケーによって一を肯定して多を否定したのに対して、プラトンは分割と総観の方法という後期的ディアレクティケーによって一と多の両方を肯定した。

上の議論の序論として、中期対話篇に顕著な「仮定の方法」と後期対話篇に顕著な「分割と総観の方法」という二つのディアレクティケーの関連をさぐり、『国家』篇に見られる「仮定の方法」(最初の仮定を踏み台にしてつぎつぎと仮定を破棄(anairein)しながらさかのぼって無仮定の始原に触れ、その後、逆に、無仮定の始原からエイドスだけをたどってもとに戻ること)は、実質的に『ソピステス』篇に描かれているような「分割と総観の方法」を用いた定義活動であることを示すことで、プラトンの中期と後期との間にディアレクティケーという観点から一貫性を見いだす。

おおよそ、このような内容の本です(晃洋書房、3024円(税込)、2018年3月20日発行予定)。


正誤表(最終更新日 2018年3月20日)

p.21 後ろから3行目
誤:(Sph. 253b10-c3)
正:(Sph. 253b10-c3)。

p. 82 3行目
誤:・・・何ものでもある
正:・・・何ものでもある。

p.140 後ろから2行目
:第一章第三節
正:第一章第四節

p.151 後ろから4行目
誤:二五〇〇年
:二四〇〇年

p.159 後ろから3行目
誤:ousan
正:ousin
(書籍ではギリシア文字)

p.170 注(13) 1行目
誤:221c10
正:Sph. 221c10

p.172 注(23)1行目
誤:第二章第三節
正:第一章第三節

付記(2018年3月20日)
誤植がいくつか見つかり、どうもすみません。
気をつけてはいるのですが、自分の不注意に自分で気がつくのはなかなか難しいです。

ところで、本を書き終わったからというわけではありませんが、今、アテネにきています。今日は、古代アゴラ周辺をまわりました。

「アテナイ人の国制」というものすごい名前のカフェ(下の写真)を見つけたので、そのそばのテラスで昼食を取り、古代アゴラを回り、ストア・ポイキレーのそばの古本屋で資料収集したところで、疲れてホテルに帰ってきました。

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もうしばらくアテネに滞在する予定ですが、やはりギリシアは青空の下で歩くのがいいですね。街並み全体が一層カラフルに見え、建物の色彩が一層引き立つように思います。基本的に、綺麗なんですよね、ギリシアって。


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# by matsuura2005 | 2018-03-03 07:39 | 研究ノート | Comments(0)