管理人 : 松浦明宏
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新刊拙著についての発表、寄せられた御感想への回答
6月30日(土)と7月1日(日)の両日、北海道大学(古河講堂109室)で開催される書評会の中で、新刊拙著『プラトン後期的ディアレクティケー -イデアの一性と多性について-』(晃洋書房)も採り上げていただけることになりました(私の分は、7月1日(日)午後、1時間ほどという予定です 6月30日(土)13:00〜14:30頃です。当初の予定から変更になりました(この記事の冒頭も若干変更しました(2018年4月10日))。

発表タイトルは、

「イデア不可知論と「瞬間」 -プラトン『パルメニデス』篇における時間論-」

です。他の発表者の方々の御研究内容に関連した拙著部分という意味で、『パルメニデス』篇第二部の「瞬間」(to exaiphnes)を中心に、プラトンの時間論について発表することにしました。永遠と時間、イデアと事物、神と人間といった、超越者と内在者とのかかわりについて、イデア不可知論(懐疑論)へのプラトンの反論という形で論じたものです。

この内容は、新刊拙著の第四章として書いたものですが、もともとは、2014年秋の東北哲学会とその回の『東北哲学会年報』(2015年)に発表・掲載したものです。東北の皆さんの前では既に発表済みですが、今回、拙著を通じて北大の皆さんとも共有し、ご批判をいただければ幸いです。

ところで、新刊拙著について、メール等を通じて、これまでにさまざまな御意見・御感想をお寄せいただきました。御連絡くださった方々には、この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。

概ね共通していたのは「イデアは多でもあった」という結論への御意見・御感想でした。一なるイデアが多でもあると言われても、にわかには納得できない、プラトンのイデアが多でもあったというのは驚くほかない、という趣旨の御感想で、おそらくは、本書結論へのためらいを表現されたものと理解しました。これとも関連して、分割と総観の方法という後期的ディアレクティケーとイデア界との関連に疑問を投げかけるという趣旨の御感想が複数寄せられました。

著者としましては、書籍の中にも書きました通り(142頁)、これらの反応はおおよそ予想されたところであり、本来なら、書籍の記述によって説得できなければならないのに、説得できなかったということなのだろうと思います。読者を説得する責任は著者にあるので、読者が納得できなければ、それは著者の書き方が悪いということになるのでしょう。その点では、お詫びしなければならないと思います。そこで、後期的ディアレクティケーとイデア界との関連について、私の考えをあらためて簡潔に説明しておきたいと思います。

分割法とイデアの多性との関連については、おそらく次のような疑念があるのではないでしょうか。つまり、分割法というディアレクティケーによって分けられているのはイデアではなく概念だから、後期的ディアレクティケーによって分類が行われていても、そのことからただちにイデアに多性があるとは言えないのではないかという疑念です。

もしこの種の疑念をお持ちなら、その方々への私の回答は以下の通りです。つまり、もちろん、ディアレクティケーによって分類しているのは、人間の認識の中に現れたものを分類している以上、概念ですが、だからといってディアレクティケーがイデアの多性と無関係だということにはならないというのが私の考えです。まず、イデアと概念との区別について確認しておけば、『パルメニデス』篇第一部のイデア論批判に現れる表現で言えば、「観念」(Prm. 132b4 noema)と、観念の対象(観念がそれの観念であるところの「それ」)である「あるもの」(132c2)との区別が想定され、もちろん、「観念」(ノエーマ)が概念(人間の頭の中に思い浮かべられたもの)であり、観念の対象である「あるもの」がイデアです。この区別だけからでも、もしディアレクティケーが観念の分類を行っているのなら、それに対応した「ある」ものが多に分かれていなければならないということは言えるとは思いますが(各々の観念に各々の「あるもの」が対応しているはずだから)、もう少しはっきりとディアレクティケーとイデア界との関係について言及していると思えるのが、本書(及び、拙著(2006))に書きましたように、ディアレクティケーの成立根拠となる類(aitia)(Sph.253c3)です。

ディアレクティケーの成立根拠のうち、分割の成立根拠についての要点は、次のことです。つまり、人間が認識の上で行っている「分類」(classification)が正しく物事の理を反映していると言えるためには、観念(ノエーマ)の側ではなく存在(あるもの)の側で多が成立していなければならないということ、存在の側で多が成立していなければ、人間がいくらディアレクティケーを用いて概念を分類できても、その分類は人間の幻想にすぎず、物事の理を正しく表現しているとは言えなくなるということです。ディアレクティケーという人間の認識活動の正当性を裏付ける根拠の役割を果たしているのがディアレクティケーの成立根拠であると思われ、これは、総観、統合の成立根拠について拙著(2006)の133頁-135頁(総観)、169頁(統合)に書いたことと同趣旨です。統合の成立根拠については、新刊拙著の31頁-32頁にも一部言及されています(あまりはっきりとした形ではありませんが)。

したがって、もし『ソピステス』篇で行っている分割というディアレクティケーの過程が有意味であると言えるためには、プラトンは存在の側で多が成立していることを示さなければならないはずです。この「存在の側での多」が表現されているのが、『パルメニデス』篇第二部第二仮定の「多である一」であり、ここでそれを論理的に検討したことによって、プラトンは『ソピステス』篇で分割法を大々的に駆使できるようになったのだと私には思えます。実際、『パルメニデス』第二部第二仮定では、「〜と同じである」「〜と異なっている」等、種々の関係性が肯定的に論じられており、こうした関係性には、すべて「〜と〜」という形で、何かと何かとの「分割」、「多性」が表現されていると理解することができます。

さらにまた、『パルメニデス』篇第一部の帆布の比喩(Prm. 131b7-c8)の中でも、イデア界における多の存在が表現されていると考えるのが自然です。つまり、多くの人々(この世の事物)の「上」(epi) にある一なるイデア(一なる帆布)の多くの「部分」は、多くの人々の「上」にある以上、まだ多くの人々の「中」に内在しているわけではないので、現象世界にあるとは言えません。むしろ、イデア界にあるといった方がより適切です。テキスト上の対話では、帆布の比喩の後、ソクラテスが「部分のアポリア」に陥るため、帆布の比喩の意義を巡って議論が生じるところではありますが、新刊拙著では、その「部分のアポリア」も、対話篇第二部第二仮定の「一そのもの」が多に分かれる議論に現れる「数」を、識別子としての数(住所の番地やスポーツ選手の背番号のように、個々のものを他のものから識別するために用いられる数)と理解すれば、「部分のアポリア」は解消されることを指摘しましたので(拙著第五章後半(第五章の内容は『西洋古典学研究』(2017年)に掲載))、拙著内容による限り、帆布の比喩の有効性が損なわれたわけではなく、したがって、多くの人の「上」にある一なるイデア(帆布)の諸部分もまた、イデア界に存在している多であると言って構わないということになります。この点からも、一なるイデアが多に分かれることは、『パルメニデス』篇のテキスト内容を通じて示唆されており、それが「背理法的ディアレクティケーによって一を肯定して多を否定したエレア派」と「後期的ディアレクティケーによって一と多との両方を肯定したプラトン」との違いであるというのが、私の解釈です。

分割法とイデアの多性との関係についての疑念が、もし概念とイデアとの区別に起因する疑念であるとすれば、上記のことが、その種の疑義への私の回答ということになります。別の趣旨での疑念なら、上の説明は当てはまらないので、あらためて考えることにします。

なお、他にも「総括 三 これからのプラトン研究のあり方」(146頁)に書きました、哲学(プラトン哲学)の研究方法のあり方についても、関心を持つ方が多かったようです。こちらについても、時間があれば、あらためて説明させていただければと思います。

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(アテネ市にある Plato's Academy: Digital Museum (2018年3月 著者撮影))

プラトンのアカデメイア跡には公園しかないと聞いていたのですが、この3月に行ってみたところ、小規模ながらプラトンに関する博物館がありました(入場無料)。管理人の女性に聞いてみたところ、2015年12月にできたそうです。小劇場があって、『饗宴』『国家』『パイドロス』の三本立てミニ映画も上映されていたので、映画鑑賞してきました。観客は私一人だけでしたが、こういうマイナーの極みのような状況が私は大好きなので、とてもおもしろかったです。地下鉄の駅からテクテク歩いてアカデメイアに行った甲斐がありました。博物館にあった記念のノートには、私が訪問する二週間ほど前の日付で、日本人とおぼしき女性の名前が書かれていましたので、私もまねをしてそのノートに自分の名前を書いてきました。また行こうと思います。コアなプラトンファンにはおすすめの博物館です。



by matsuura2005 | 2018-04-08 15:15 | 研究ノート | Comments(0)
新刊拙著『プラトン後期的ディアレクティケー -イデアの一性と多性について-』

近々、晃洋書房さんから新しい拙著を出します。タイトルは、『プラトン後期的ディアレクティケー -イデアの一性と多性について-』です。内容を簡単に紹介します。

イデアは一であるとともに多でもあるとプラトンは考えていた。総観と分割に通底する一性と多性が『パルメニデス』篇第二部のアンチノミーに反映され、「多でない一」と「多である一」が描かれている。特に「多である一」には対話篇第一部のイデア論批判に対応する鍵が隠されている。対話篇第一部に描かれているイデア論批判は、基本的に、イデアは多ではない、イデアは事物(他のもの(heteron))と関係を持たない、という仕方で、イデアの多性や事物との関係性を否定した形で成り立っている批判である。そうである以上、イデアは多でもあり、事物と関係を持つことを示せば、そうしたイデア論批判は効力を失う。

たとえば、第三人間論がその典型である。イデアは多でもある以上、無数のイデアの存在を示してイデア論に反論する第三人間論はイデア論批判として無効である。ギーチのようにポンド原器を例に出してイデアの一性に固執する必要はないし、ヴラストスのように暗黙の前提を補って第三人間論の論理的妥当性を示すことは、イデア論をサポートしていることになる。

プラトンが『ソピステス』篇で分割法を駆使できたのも、その基礎として、一なるイデアが多に分かれることを『パルメニデス』篇第二部で自ら示していたからである。ディアレクティケーの創始者とされるエレア派のゼノンは帰謬法的なディアレクティケーによって一を肯定して多を否定したのに対して、プラトンは分割と総観の方法という後期的ディアレクティケーによって一と多の両方を肯定した。

上の議論の序論として、中期対話篇に顕著な「仮定の方法」と後期対話篇に顕著な「分割と総観の方法」という二つのディアレクティケーの関連をさぐり、『国家』篇に見られる「仮定の方法」(最初の仮定を踏み台にしてつぎつぎと仮定を破棄(anairein)しながらさかのぼって無仮定の始原に触れ、その後、逆に、無仮定の始原からエイドスだけをたどってもとに戻ること)は、実質的に『ソピステス』篇に描かれているような「分割と総観の方法」を用いた定義活動であることを示すことで、プラトンの中期と後期との間にディアレクティケーという観点から一貫性を見いだす。

おおよそ、このような内容の本です(晃洋書房、3024円(税込)、2018年3月20日発行予定)。


正誤表(最終更新日 2018年3月20日)

p.21 後ろから3行目
誤:(Sph. 253b10-c3)
正:(Sph. 253b10-c3)。

p. 82 3行目
誤:・・・何ものでもある
正:・・・何ものでもある。

p.140 後ろから2行目
:第一章第三節
正:第一章第四節

p.151 後ろから4行目
誤:二五〇〇年
:二四〇〇年

p.159 後ろから3行目
誤:ousan
正:ousin
(書籍ではギリシア文字)

p.170 注(13) 1行目
誤:221c10
正:Sph. 221c10

p.172 注(23)1行目
誤:第二章第三節
正:第一章第三節

付記(2018年3月20日)
誤植がいくつか見つかり、どうもすみません。
気をつけてはいるのですが、自分の不注意に自分で気がつくのはなかなか難しいです。

ところで、本を書き終わったからというわけではありませんが、今、アテネにきています。今日は、古代アゴラ周辺をまわりました。

「アテナイ人の国制」というものすごい名前のカフェ(下の写真)を見つけたので、そのそばのテラスで昼食を取り、古代アゴラを回り、ストア・ポイキレーのそばの古本屋で資料収集したところで、疲れてホテルに帰ってきました。

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もうしばらくアテネに滞在する予定ですが、やはりギリシアは青空の下で歩くのがいいですね。街並み全体が一層カラフルに見え、建物の色彩が一層引き立つように思います。基本的に、綺麗なんですよね、ギリシアって。


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by matsuura2005 | 2018-03-03 07:39 | 研究ノート | Comments(0)
日本西洋古典学会発表原稿の概要
日本西洋古典学会第67回大会(2016年6月4日 - 5日、於大阪大学)において、拙稿「『パルメニデス』篇における全体と部分のアポリア」を発表します。

原稿冒頭「はじめに」の一部を引用すれば、次のようになります。

「 はじめに
 プラトンは、後期初め頃の作とされる『パルメニデス』篇の第一部において、中期イデア論への様々な反論を描いており、その冒頭では、一なるイデアと多くのものとの分有(分取)関係への反論を、全体と部分の観点から描いている(131a4-e7)。すなわち、一なるイデアが多くのものに分有されるとすれば、その全体が分有されるか部分が分有されるかのいずれかだが、いずれが分有されるとしてもアポリアに陥る。それゆえ、イデアの分有を説明できない、という反論である。本発表では、このイデア論批判への応答が対話篇第二部に与えられていることを論じる。」


話の大枠は、『パルメニデス』篇第一部のイデア論批判の一つである全体と部分のアポリアへの解決が、第二部第二仮定冒頭の三つの全体部分論(存在する一、一そのもの、部分の中にはない全体)に示唆されているということです。より具体的に言えば、次のようになります。

第一に、第二部第二仮定の存在する一(hen on)の議論では全体と部分との同質関係が示され、これは第一部の全体のアポリアへの対応、つまり、一なる全体がどうして諸々の全体へと分離するのかという問題への対応と見られる。

第二に、第二部第二仮定の一そのものの議論では、諸部分の構成要素として数が導入されており、これを基数としてでなく識別子としての数と解釈すれば、第一部当該箇所における帆布の比喩に引き続いて現れる部分のアポリアは解消される。

第三に、上の二つの議論だけでは、一なるイデアと事物との分有関係は説明できず、それを説明するための示唆と考えられるのが、第二仮定の三つ目の全体部分論と第一部の日の比喩である。第二仮定の三つ目の全体部分論では、限定する全体としての一が無限定であると解釈される。無限定は何ものにも限定されないため、イデア界と事物の世界との境界によっても限定されず、その境界をも乗り越える。それゆえ、無限定である限定する全体としての一はこの世の事物と関わりを持つことができ、事物によるイデアの分有が可能になる。その様子は、あたかも日(hemera)が万有を照らすかのようである。

おおむね、以上の内容の発表を行います。

この発表内容は、2015年の『東北哲学会年報』No.13, 35頁-50頁に発表した拙稿「イデア不可知論と「瞬間」(to exaiphnes) -Plato Parmenides 156d2-3-」を、全体部分論の観点から発展させたものです。
by matsuura2005 | 2016-05-24 12:16 | 研究ノート | Comments(0)
Third Man Argument and Antinomies in Plato's Parmenides
Third Man Argument and Antinomies in Plato’s Parmenides
Akihiro Matsuura


In the second part of the Parmenides, Plato replies to the criticism of his Theory of Idea described in its first part. In the form of the Antinomies written in the second part from the viewpoint of his later dialectic, i.e., Division and Collection, Plato suggests his solution to the so-called Third Man Argument, one criticism of his Theory of Idea.

First, the Antinomies, in my interpretation, are configured to the aspects of Division and Collection. The former is the separative way of classification, which implies the relation of one thing to another among many to be classified. In contrast, the latter is the collective one, which does not have the same relative way of thinking but instead abstracts common features from all the elements. The abstraction does not concern the relation to those elements, at least, in the same sense as the one implied in the Division. Now, Plato expresses these two aspects, that is, the relative and the non-relative, in the form of the Antinomies in the second part of the dialogue. For instance, in the so-called first hypothesis, the One has relation neither to itself (pros heauto) nor to others (pros ta alla). We cannot apply any words to it because this application is a type of relation. It means we cannot speak anything at all about it. As a result, they say the first hypothesis is the origin of the negative theology. In contrast, at the end of the so-called second hypothesis, Plato concludes that we can speak anything of it including contradiction because the One has relation both to itself and to others. Thus, as mentioned above, the Antinomy reflects the two aspects concerned.

Then, what is the Third Man Argument? I think it is a criticism of the Theory of Idea that is formed from the confusion of the two aspects mentioned above. To be more precisely, the criticism is as follows. According to the Theory of Idea, we find the Idea of, e. g., Large from surveying many large things. But if so, then, as one who opposes this theory says, we must find one more Idea of Large from surveying many large things and the Idea of Large mentioned above. Then, the third Idea of Large appears in the same way, and the fourth, the fifth, and so on. Therefore, the Theory of Idea, according to this criticism, has an infinite number of Ideas while Plato insists that there is only one Idea. But, I think the opponent clearly muddles the abstract entity with the concrete entity. He confuses the aspect of Collection with that of Division. Division implies the relationship between one element and the other elements, in other words, the comparison of those elements with each other to a benchmark or type. In contrast, Collection is not the comparison of the elements but the discovery of the benchmark immanent in all of the elements. In this sense, Collection is a non-relative way of thinking. The Third Man Argument puts the benchmark into the many elements, which means it mixes up the non-relative way of thinking with the relative one.

Accordingly, we can conclude that Plato presents the Antinomies as his solution to the Third Man Argument because the infinite regress does not occur if we do not confuse the aspect of Division and that of Collection, that is, the aspect of relation and that of non-relation.
by matsuura2005 | 2016-03-18 21:28 | 研究ノート | Comments(0)