管理人 : 松浦明宏
岩田靖夫先生からのコメントへの応答
先週の土曜(6月4日)に開かれた日本西洋古典学会の懇親会の折に、岩田靖夫先生から、私のHPの内容についてコメントをいただきました。その際、特に、ギリシア的な幸福とヘブライ的な幸福 -岩田靖夫先生の最近の著作について、ご批判をいただきました。
その時のお話では、「何かができること」に価値を見出す考え方(「能力主義」、「アレテーの実現」)だけでなく、「何もできないこと」に価値を見出す考え方にも目を向ける必要がある、ということが岩田先生のお考えの趣旨であり、この趣旨を、ギリシア的幸福からヘブライ的幸福へのコペルニクス的転回ということで表現しておられる、と私は受け取りました。

能力主義しか眼中になければ、何もできない人には価値がないということになるけれども、何もできないというまさにこのことに価値があるのだという別の価値観(ヘブライ的な価値観)があるということに、われわれは気づくべきだということになるのでしょう。

もし以上の理解が正しいとすれば、私は岩田先生のおっしゃることに、一応は、納得することができます。上記のことと、ソクラテスのダイモニオンやソクラテスの無知の知の話とは、別の事柄であったのに、私はそれを混同していた、ということになりますから。

「善美なる事柄について、自分は知らないと自覚しており、だから、人間的な知は神の知にくらべれば無に等しいとわかっている」ということと、「善美なる事柄について知ることができないというこのことが善いことである」ということとは別のことでしょうし、ソクラテスの理性主義にダイモニオンからの制止がかかるということと、ソクラテスの理性主義に限界があるというこのことが善いことであるということとは別のことでしょうから。

しかし、今上に述べたことは、何か変だなぁ、とも思えます。どうも何かまだ私は勘違いしているような気がしてなりません。それがどういう勘違いなのか、これから考えていこうと思います。
by matsuura2005 | 2005-06-11 23:56 | Comments(2)
Commented by arche at 2006-04-27 06:16 x
 このダイモニオンによる制約は他律になるのではないか。
 この先生ご自身で実践してみたらいかがでしょう、と応答すべき。
 「善美」をどのくらい知らないのか、その程度による。全く知らないとしたら、何も知らないことになり、善美という言葉さえも知らないことになる。
 「人間的な知」「神の知」の比較の上にこの言葉が来る、この人はこれを理解しているはず。でなければ「無に等しい」と判断は下せない。
 『アリストテレスの倫理思想』の二三九頁に、「なぜなら、人間は自分のために多くを取り(pleon hautwi nemein)暴君となるからである」という引用があり、(EN, V, 6, 1134a 35-b1)、となっているが、この個所にpleon hautwi nemeinはない。一体どうなっているのか。”hoti heautoi touto poiei kai ginetai turannos.”というのはあるが。

Commented by matsuura2005 at 2006-04-27 06:56
コメントありがとうございます。『アリストテレスの倫理思想』p.239の当該箇所について、岩田先生の訳を私なりに説明すれば、次のようになります。
EN, V, 6, 1134a 35-b1にある heautoi touto poiei(自分自身のためにそのことをする)の内容を、その直前a33-34にあるpleon hautwi nemein(自分のために(より)多くを取ること)と解して、後者を訳文に反映させた。
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