管理人 : 松浦明宏
ソクラテスが論駁されない理由
Q1. 「ソクラテスは対話相手を論駁するだけで、ソクラテス自身が決して論駁されないのはなぜか。」
この問いに対して、
A1.「ソクラテスは議論の達人だから」
と答えて、それで納得してくれる人になら、そう答えておくのが一番簡単です。しかし、「猿も木から落ちる」とか「弘法も筆の誤り」とはちょっと違いますが、
Q2. 「議論の達人であっても一回くらい負けてもおかしくないではないか」
と、先の答えでは納得しない人たちもいます。この人たちに対しては、私はひとまず次のように答えることにしています。
A2.「ソクラテスは議論の中で産婆の役割を果たしているだけであり、ソクラテス自身の考えが吟味の対象になっているわけではない。だから、仮に、プラトンの対話篇の中で、ソクラテスが対話相手にやり込められるような場面が描かれていたとしても、それはソクラテス自身が「論駁された」ということではなく、対話相手の考えが「健全だった」ことが示されたにすぎない。」
ソクラテスが産婆術を駆使する以上、ソクラテス自身が論駁されることは原理的にありえない、ということです。しかし、この説明にも納得しない人がいて、次のように問い返されたことがあります。
Q3. 「ソクラテスの産婆術によって対話相手の考えが健全であることが示され、その意味でソクラテスが見かけ上であれ論駁されるシーンが描かれることだって、十分ありうるはずではないか。なぜ、ソクラテスの対話相手は健全な考えを語らないのか。」
そこで、このように問うてくる人に対しては、私は、「試し」解釈を持ち出して、次のように答えることにしています。
A3.「産婆術を駆使するソクラテスが見かけ上であれ論駁されるシーンを描くということは、プラトンにとっては、健全な考え(プラトン自身それを真だと考えている見解)を、対話篇の中で、比喩や謎掛けや示唆という仕方ではなく、あからさまに主張する仕方で書くということを意味する。だが、プラトンは自分の本音を対話篇の中であからさまには語らず、それを読者が読み解くことができるかどうかを試すために対話篇を書いている。だから、プラトンはソクラテスが論駁されるシーンを描かなかった。」
プラトンは自分自身それが真理だと考えていることをあからさまに主張するような仕方では対話篇の中には書かないということと、ソクラテスが対話劇の中で決して論駁されないということとは、ほとんど同義に近いということです。私の見るところでは、プラトンが対話形式をとって書く以上、吟味者が対話相手をやり込めることは最初っから決まっていることなのです。そうでないと、読者への「試し」になりませんから。
by matsuura2005 | 2007-04-30 03:30 | Comments(0)
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