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管理人 : 松浦明宏
哲学の論文を書くということ(1)-読書感想文とは異なる-
私のような浅学の者が「哲学の論文を書くということ」などというタイトルをつけた文章を書けば、たちまち諸先生・諸先輩方から、「10年早い。」と言われたり思われたりすることは明白で、気が引けるのですが、最近、各方面から、どうしたら哲学の論文を書くことができるのか、という質問を受けることが多くなってきましたので、
その方々へのお答えという意味で、私自身がどのような仕方で、また、どのようなつもりで論文を書いてきたか、
あるいは、少なくとも、どのような仕方・どのようなつもりで書くことを「目標」としてきたか、
ということを書いてみたいと思います。

どのような仕方で論文を書くのかと言っても、論文には、それこそ結果がよければそれでいいという側面もあるわけで、
一概にどういう書き方をしなければならないと言える性質の事柄ではありませんし、
卒業論文、修士論文、博士論文、学術誌投稿論文、等々、
さまざまな局面・段階の論文があって、それらを一括して扱うことができるわけでもないでしょう。
また、哲学の分野によっても、研究状況が違うので、私の述べることが必ずしもそのまま当てはまるというわけでもないのでしょう。その意味で、論文の書き方は、人それぞれであってよい、というか、むしろ人それぞれであらざるを得ないわけで、下記は、各自が自分流の論文のスタイルを身につけていくための「梯子」、「捨石」のようなものとお考えいただくのが
おそらく最も適切でしょう。
卒論生、修論生、学術誌に投稿する大学院生、博論生、といった人たちのうちの、
誰を対象に述べるかということも問題ですが、とりあえず、
どの人たちでも知っていなければならないであろうことを挙げておきますと、

(1)論文と感想文とは違うということ
(2)論文というものは、自分が読むために書くのではなく、他人に読んでもらうために書くものだということ。

というあたりが、とりあえず、最も基本的な確認事項ではないかと思います。
卒論生の場合は、特に(1)、
修論生や博士課程後期に進学したばかりの人々の場合は、特に(2)がネックになることが多いようです。
それ以上の段階の人たちについては、これら二点は既に了解済みのことと思いますが、それでも(2)をクリアするのは、
口で言うほど簡単なことではなく、たぶん、私自身をも含めて、論文を書く人間として、一生つきまとう問題ではないかとさえ思えます。
(2)について付言すれば、哲学の「大家」の書く文章と、哲学の初学者が書くことを要求されている各種の「論文」とは、
最終的には同じ地点を目指すにしても、さしあたりは、異なる種類の文章と考えておいた方がよいと思います。
他人(特に教官)が読んですぐわからないような文章を大学院生や学部生が書いた場合、
内容を吟味してもらう以前に、そもそも真面目に読んではもらえませんから。
或る程度評価の定まった「大家」なら、多少わかりにくい文章であっても、この先生の言うことなのだから、
きっと意味のあることを言っているのだろうという目で見られ、読んでもらえるけれども、
まだ評価の定まっていない立場の人間が大家のまねをしても、相手にされないということです。
ピカソのような大家でも、最初は基本的なデッサンから練習し始めたのと同じように、
哲学の大家になるためには、最初は、論文の基本的な書き方をマスターすることが必要であるという言い方もできるでしょう。

今回は、特に、(1)について、「オリジナリティー」との関連で、私が現在採っている考えを述べることにし、
もし機会があれば、(2)や、それ以外のもっと具体的な手順について述べることにします。
以下は、あくまで、論文書きの一つの要素についての説明です。


論文と感想文との違い・オリジナリティーについて
各々の研究分野には必ず何か或る「問題」があって、その「問題」に対して、誰か或る研究者が「意見」を述べている、
というのが普通であり、その「誰か或る研究者の意見」を「批判」して、その代わりに「自分の意見」を述べる、
というのが論文の基本的な構成だと私は考えています。
つまり、

    (A)「問題の提示」⇒「他者見解の紹介」⇒「他者見解の批判」⇒「自説の提示」

という流れ、もしくは、要素が、論文と言われるものの骨格・要素をなしているということです。

これら各要素のうち、「他者見解の紹介」と「他者見解の批判」を省略して、
「問題の提示」⇒「自説の提示」だけを行ったものは、論文とは言わず、「感想文」や「エッセイ」と言います。
ここで言う「問題」を「話題」と置き換えてみれば、そのことはわかりやすいかもしれません。
つまり、「何かある話題について、自分の考えを言う」という文章の書き方は、
文章の種類として、小学生が夏休みの宿題として課される「読書感想文」と同じものであり、
どれほど語彙が洗練されていようと、また、どれほど詳細な考察が行われていようと、
それを「論文」とは言いません。
大学受験などの際に課される「小論文」も、「論文」という名前はついていますが、
事実上は「感想文」を書いているわけです。
小論文の中で、他の研究者の説を紹介し、それを批判し、
その上で、自分の考えを述べる、ということを要求されているわけではなく、
単に、「次の文を読んで、あなたの意見を述べなさい」という類の設問になっている場合がほとんどですから、
大学入試において論文を書くことなど要求されてはいないのです。
その意味では、大学入試の小論文は、すべて感想文・エッセイの域を出ておらず、また、それで一向差し支えないわけです。
自分の考えを論理的・整合的に文章表現する能力があるかどうかを見ているだけですから。

また、上記(A)のうち、事実上、「他者見解の批判」を行わずに、
単に、「この問題について、この人はこう考えるけれども、私はこう考える」と言っただけでは、
そのように主張する人(その論文の著者)の考えをなぜ採らなければならないのか、他人には理解してもらえません。
「別に君の考えでなくてもいいのでは?」と言われたら、それ以上、何も言えなくなるということです。
自分の考えが正しいのだと人に説得するためには、
その前提として、他者の考えが間違っているということを自分の考えとは独立的に証明しなければなりません。
それが「批判」の役割であり、それなし自分の考えを他人に説得しようとしても、
まず無理だと考えておいた方がいいと思います。
その意味で、他者の見解を紹介して、それを「批判する」プロセスが必要なのです。

さらに、上記(A)のうち、「他者見解の紹介」とその「批判」を主に行い、「自説の提示」をほとんど行わない文章は、
本来の論文 -「研究論文」や「original article」-ではなく、「サーベイ論文」と呼ばれます。
その分野での或る問題についての「研究状況を報告する」という、「レポート」の大掛かりなものと考えておけばよいでしょう。
もちろん、研究状況を報告するだけでも、それをきちんと行うのは並大抵のことではなく、
それはそれで業績のひとつに数えられます。
しかし、それは、どこまでいっても、「他人の考えを紹介・批判した」というだけであって、
自分の考えはほとんど書かないわけですから、「オリジナル」な考えがその文章の中で展開されているわけではありません。
その意味で、サーベイ論文と研究論文とは質を異にするわけです。
卒論生の場合には、どちらかと言うと、この「サーベイ論文」を書くための訓練という色彩が強く、
修論生の場合には、「研究論文」になっているかどうかが主な基準になる、という見方もできるでしょう。
サーベイ論文を書くためには、外国語文献をかなりの分量読んで正確に紹介しなければならないので、語学力が必要になります。
他方、オリジナルな見解がないというのであれば、その人自身が「(研究)論文」を書く意味はなく、博士課程後期に進学した後、
学術誌に投稿しても採用されることは難しい(サーベイ論文の枠組みで採用されるということはあると思いますが)。

私の場合には、目標としているのが「オリジナルなものを作ること」なので、どちらかと言えば、研究論文を書くことに興味があります。
しかし、それは、サーベイを行わなくてよいという意味ではありません。
オリジナルを生み出すためには、なるべく他人の考えを知っていることが必要であり、
(そうでなければそれがオリジナルなのかどうかわかりませんから)、
その意味で、オリジナル論文を書くためには、たとえその論文の中で直接的に他の文献内容を紹介しない場合でも、
ある程度のサーベイを行うことは必須です。
ただし、私の場合は、サーベイを行うのは、どちらかというと、自分のアイデアが生まれた(と思えた)後の場合が多かったです。
以下、このことについて書いてみます。

私は、古代ギリシア哲学を専門にしていますので、それを例にして言います。
まず、ギリシア語のテキストを読みます。この段階ではまだ何について論文を書くかということは決まっていません。
いくつも面白そうなところが出てきますが、それはその段階では面白そうだなということを単に頭に入れるだけです。
一通りテキストを読み終わったら、そのテキストについてのコメンタリーや論文の中で、
自分が興味を持った箇所や事項を扱っている文献を探します。

探し方はいろいろで、人によって違うのでしょうが、私の場合には、とりあえず、比較的新しい文献で、
名の通った出版社(Oxford U.P., Cambridge U.P.等)から出ている「本」を手に入れ、
その巻末などにまとめられている文献表を見ることにしています。
その本に目を通す(この段階ではまだ熟読はしません)と共に、
その文献表から自分の興味を持ったタイトルの文献を手に入れます。
また、インターネットで、電子ジャーナルの検索を使ってキーワード検索を行い、文献のタイトル、著者などに、
どういったものがあるのかも調べます(JSTOR、Blackwell, Classical Quarterly, Phronesis 等)。
哲学の場合は、Philosopher's Indexが使える環境にあれば、論文タイトル、著者だけでなく、その要約も読むことができます。

どのくらいの数の文献を集めればいいのかということについては、ケースバイケースで、何とも言えません。
多ければいいと言うわけでもないでしょうし、あまり少なくても仕方がありません。
経験上、一つの研究論文を書き終わった時に、結果的に、30から40くらいの文献が手元あるということが私の場合には多いです。
全部読むというわけではなく、その中から必要なものを必要なだけ読んだというにすぎません。
或る文献に引用されている文献については、全文を読まなくても、引用された箇所を確認するために、持っていた方がいいと思います。
しかし、100も200も集めても、まず、読む時間はないし、必要なものを探すのが大変になります。
ただし、この点については、各自の趣味と能力によるところが大きいと思います。
文献整理・読解能力のすぐれた人は、キャパシティーがあるわけですから、たくさん集めることに問題はないでしょう。

いずれにせよ、論文を書く前には、
その段階で集めた文献の中から、「読む必要のある文献」とそうでない文献とを選別しなければならないことは確かです。
どの文献もすべて同じ集中力で読むということは、少なくとも私にはできないし、また、そうする必要もないと思います。
なぜなら、必要なのは、自分の論文の中で「論敵」として取り上げるに値するものを見つけ、それを熟読・研究することだと思うからです。
どれがその論敵に値するのかについての、一つの目安は「引用回数」でしょう。
引用回数が多ければ、その文献はその研究領域で重要視されている、
少なくとも、議論の対象になっているということが明らかだからです。
引用回数を調べるのには、医学系の論文では、インターネットが役に立ちますが、
私の知る限りでは、ギリシア哲学関係の論文について、引用回数を記した電子ジャーナルがあるのかどうかわからないので、
その点を補うために、集めた文献の中に記されている文献表に目を通して、よく出てくる論文等を調べることが必要になります。
また、引用回数と出版社・雑誌の知名度は、或る程度関連していると思いますので、
出版社や雑誌の知名度を基準にするというのも一つの考え方でしょう。
もっとも、引用回数が多いからといって、また、知名度の高い出版社・雑誌に取り上げられているからといって、
必ずしも論敵にするに値するとは限りません。中には「とんでもないもの」がありますので、要注意。

そのようにして、大まかに、これなどが重要そうだなとあたりをつけたものの中から、一つ選んで読んでみます。
私の場合は、まだこの段階でも、論文のポイント(「問題」)は絞られていません。
その文献の著者が問題にしていることと主張内容が「おおよそ」わかったところで、
私は、その論文を読むのをやめます。
論文によっては、最初の2−3ページ(導入部)と、結論だけを読んでおしまいにすることもあります。
テキストの中の何を問題にしており、その問題について、何を主張しているのか、このことだけを、私は知りたいからです。

そうして、その後では論文を読むのをやめ、問題と主張のみを念頭において、テキストを読んでその妥当性を検討します。
それでその著者の言うことに納得してしまえば、その問題では研究論文を書くことはできませんので、
別の問題をその文献の中に探すか、別の文献を読むということになりますが、
他方、その著者の主張に納得できなければ、その問題を自分で解くことへと向かいます(解くに値すると思える問題の場合ですが)。
その時には、自分で答えが出せるまで、少なくとも、その問題を解くという目的のためには、他人の論文はほとんど読みません。
その問題を解くために、他人の考えを参考にする(応用する)ということはありますけれども。

或る考えを或る問題に「応用する」というのは、
「その考えを書いた人自身は、その問題に対して、直接的にその考えを「関連づけて」はおらず、
そのように関連づけられてはいないもの同士を、私が関連づけることによって、
件の問題について、新しい解決の道を見出すということ」であると私は理解しています。
私に言わせれば、「オリジナリティーがある」というのは、用いている材料(考え・問題)そのものが全く新しいということでは必ずしもなく、
むしろ、既に存在している考えと問題とを結びつけるという、この「新たな結合」にあります。
もちろん、用いている材料そのものが新しいということもあるでしょうけれども、
それはおそらく、百年か二百年に一人現われるかどうかという、いわゆる「天才」のすることであって、
私はそうした種類の人間ではありません。言い換えれば、平凡な人間にでも、オリジナリティーのあることはできるということです。

ともあれ、自分なりに問題解決の方法が見つかったと思えたところで、
当該文献に示されている主張と私の主張とが異なることを吟味すると共に、
その問題について、多少でも論じている文献を見つけて、その解決法・主張を調べます。
この作業は、多くの場合、当該文献に引用されていた文献を孫引きしたり、あらたに検索したりしながら行います。
この段階が、私にとっての「サーベイ」であり、この段階で、私の解決法と全く同じ考えが見つかれば、
やはりそれは研究論文にすることはできないわけですが、
ただ、これまで、私と「完全に同じこと」を述べているという文献に出会ったことはありませんでした。

従って、私の場合には、

(1)テキストを読み、
(2)論敵となる論文を一つ(かせいぜい二つ)選んで、問題とその解法についての情報を得、
(3)その後しばらくは自分の頭とテキストだけで考え、
(4)その後で多くの論文をサーベイする、

という手順で論文を書いてきたわけです。
論敵となる論文を選ぶ段階で、とりあえず文献を集め、それらをパラパラと「眺める」わけですが、その段階では「熟読しない」。
自分で考える前に多くの論文を熟読してしまうと、
自分の思考の枠組みが、それら多くの論文が共通にとっている「土俵」に引きずりこまれてしまって、
その「土俵」が持っている根本的な欠陥に気がつかなくなってしまうように思えるのです。
多くの文献を読み込んだ後でも、その「土俵」に引きずり込まれない人は、
自分で考える前に多くの文献を読んで一向に構わないのですが、
私の場合には、そういうことはできないのです。
或る問題についての自分なりの考えが確立した後で、多くの人の考えを調べるということです。


ただ、以上は、私が研究論文を書く場合の文献調査等についての話であって、
いわゆる「サーベイ論文」を書こうとする場合には、私流の上記の「サーベイ」ではおそらく十分ではないでしょう。
サーベイ論文の場合には、もう少し網羅的に論点を紹介しなければならないでしょう。

以上、今回はここまでとし、残された点については、いずれまた、ということにします。
by matsuura2005 | 2004-06-19 18:55
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