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管理人 : 松浦明宏
ギリシア的な幸福とヘブライ的な幸福 -岩田靖夫先生の最近の著作
先日、岩田靖夫先生のご自宅に、小松恵一先生と篠澤和久先生のお供をして、古希のお祝いの品をお届けにうかがいました。
岩田先生の古希お祝いは、約二年前に、神崎繁先生ゆかりの箱根湯本福住旅館で開かれたのですが、その折にはご希望の品が見つからず、その後もひきつづき神崎先生がお探しになっていたところ、知人の方を通じて最近ようやくそれが見つかったというので、神崎先生から篠澤先生が受けとってこられたものをお届けにあがるときに、小生も同行させていただくことができたという次第です。

お茶をよばれながらお話をうかがっているとき、近刊予定の御著書のことが話題にのぼりました。その御著書では、仙台白百合女子大学での御講演内容などをもとにして、岩田先生のこれまでの人生観をまとめて述べる予定であるということでした。あくまでも想像ですが、これは最近岩田先生が次々と御発表なさっている一連の作品、私が拝読させていただいたものとしては、「孤独の突破」、「幸福とは何か」(以上、『仙台白百合短期大学カトリック研究所論集』第七号、二〇〇三年三月)、「人はいかに生きるべきか -驚く、頑張る、交わる-」、「霊性と祈り」、「イエスとサマリアの女」、「希望」(以上、『仙台白百合女子大学カトリック研究所論集』第九号、二〇〇五年三月)、「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(宮本・山脇編、『公共哲学の古典と将来』(公共哲学叢書8)、東京大学出版会、二〇〇五年一月、第一章(一頁—三十七頁))などをまとめて、あらたに書き下ろされたものなのかもしれません。御著書のタイトルについても、今、検討されているということで、『いかに生きるべきか』というタイトルがよいのではないかとお考えのようでした(未だ決まってはいないようです)。

さて、これら一連の御著作を一括して扱うことは必ずしも適切ではないのでしょうが、そこを強引に一括していいますと、少なくとも私には、これらには一つの共通の特徴があるように思われます。それは、「存在欲求(コナトゥス・エッセンディ)の充足」と「人と人との真の交わり」という対照、あるいは、「能力主義・理性主義・競争主義の世界における人間同士の表面的な関わり」と「能力主義や理性主義を超えた世界・存在根拠の世界における人間同士の真の関わり」いう対照であり、この対照が上記の「デモクラシーと幸福」では、アレテー(優秀さ)を発揮することによって自己実現することが幸福であるというギリシア起源の幸福概念から、他者のために自己を献げることが善であるというヘブライ起源の幸福概念へのコペルニクス的転回が必要である、という仕方で表現されているように思えます。

このコペルニクス的転回については、既に「講演会感想「デモクラシーと幸福 −自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元−」」の特に前半部に紹介しましたので、ここでは繰り返しません。以下では、この講演会感想で述べた私見とはまた別の角度から、ふたたびこのコペルニクス的転回について疑問点を述べることにしたいと思います。

ギリシア起源の幸福概念からヘブライ起源の幸福概念への転回という主張について最も疑問が残るのは、ソクラテスのダイモニオンの存在や、岩田先生御自身が共訳されているドッヅの『ギリシア人と非理性』(みすず書房)に見られるように、ギリシアにも理性主義を越えた非理性主義的な要素があるはずなのに、御論文「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(二〇〇五年一月)の中ではギリシャ人の持っていたこの非理性主義的な要素がほとんど念頭におかれていないように見受けられる、という点です。

岩田先生は、ギリシア的な理性主義からヘブライ的な他者との交流への転回の必要性を説くとき、まず、ギリシア的な理性主義について、特にアリストテレスを念頭において、次のように批判的に述べておられます。

「こうして、理性の弱い人々は、自然的な意味でも、倫理的な意味でも、アレテーを実現できず、幸福の圏外に生きなければならない。かれらは、ただ、理性に優れた人々を支えるためにだけ、存在の意味を持つ。アリストテレスは、はっきりそう言っているのである。
こういう考えに対しては、人は、あからさまに口に出しはしないが、抗いがたい説得力を密かに認めざるをえないと同時に、内攻する怒りをも感ずるであろう。だが、どうしたらこの考えに反論できるだろうか。もしも、幸福が「アレテーに即した魂の活動」であるならば、アレテーをどのような意味に理解しようとも、アレテーに乏しい人間に救いはないではないか。だが、人間の本質についてまったく異なった発想が可能なのだ。それによって、幸福のコペルニクス的転回が可能になる。」 (「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(二十一頁))

このコペルニクス的転回は、人間の本質を「理性的動物」から「他者と交わる存在」(「他者を求める存在」)へと再定義することによって果たされ、後者における「他者」とは何かを問う際に、レヴィナスの他者論が引き合いに出されて、次のように言われます。

「他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすり抜ける者、私の期待を裏切り得る者、私を否定しうる者である。この意味で、他者は無限なのである。・・・「無限」とは「けっして捉えられない」という意味である。限りのあるもの、有限なもの、形のあるものは、理性の把握の圏内に落ちるが、それを超えているから、無限なのである。この事態をレヴィナスは「超越(transcendance)」とも「絶対(absolu)」とも呼んでいる。・・・
こうして、他者は常に私の把握を超える者として、限りなく遠い絶対者であるが、同時に、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者でもある。・・・(他者の)顔は「私を孤独の中に置き去りにしないでくれ、死の中に見棄てないでくれ」、と叫んでいるのである。この叫びに出会うことが他者に出会うということなのである。その時、私は他者の苦しみに逃れようもなく関わりあう。それが、隣人になるということであり、他者の近さの経験の成立ということだ。こうして、他者は限りなく遠いと同時に、限りなく近い、という自己矛盾的構造をもっている。」(同論文、二十三頁 - 二十四頁)

このようにして、レヴィナス流の「他者」をいわば支点として、ギリシア的な理性主義からヘブライ的な隣人主義(?)へと転回され、自己実現から自己奉献へと話が展開する、と考えて構わないように思われます。

ところが、岩田先生の御著書の一つ『ソクラテス』には、ダイモニオンについて、次の記述が見られます。ソクラテスのダイモニオンは、ソクラテスが何か間違ったことを行なおうとするときに、つねに「・・・するな」という禁止・否定命令として現れ、「・・・を為せ」という肯定命令として現れることはなかったとされる何か神的な声であったと言われます。たとえば、ソクラテスが政治の世界に入ることをせず、一生、私人のままにとどまったのは、ダイモニオンの声が政治の世界に入ることを禁止したためであるとされます。

「具体的な行為の状況において、ソクラテスはつねに全き自由と自己責任のもとにおのが行為を発意し、その妥当性を理性的に考察し、それを実行に移したのであり、そこには外部から特定の行為の実行を迫る命令的(権威的)強制などは存在しなかった、ということだ。実際、ソクラテスほどの理性主義者、自由人が、いかにして「為すべきこと」について一々外部から命令を受け取るような他律的人間でありうるだろうか。だが、しかし、ソクラテスのこの自律には時折ダイモニオンからの否定的な制御がかかったのである。これは何を意味するか。それは、ソクラテスの自律が、その理性主義が、その反駁的対話による倫理の基礎付けが、無制限の内在的自立性をもたないこと、逆に言えば、どこまで進んでもソクラテスの理性的基礎付けが「ソクラテスの単なるドクサの限界内」を超越できないこと、それ故に、そのドクサが底の見えない深淵の上に宙吊りになっていること、を、思い知らされるということであろう。」(『ソクラテス』、勁草書房、百七十頁 - 百七十一頁)

それがどのような仕方で思い知らされるのかについては、ハイデガーの「良心の叫び声(Ruf des Gewissens)」を想起することがヒントになるとされます。ハイデガーの言う「呼びかけ」とは、

「「本来的自己」が己へと呼ぶことである。あるいは、「本来的自己」の背後にある「無」としての「存在」が呼ぶことである。それは、いわば、人間が人間であることを自覚する時、感情としてではなく自己の本性の自覚としてわれわれに襲いかかる「無性の意識」とでも言うべきものである。・・・しかし、実は、ハイデガーの語る意味では、ここに、普通人々の言う「良心」というようなものがあるわけでもない。かれの言う「良心」とは、本来的自己としての人間の事実のことなのであり、この事実が己自身を直視せよと言っているのである。」(『ソクラテス』、百七十二頁)

ここで言われる「己自身を直視せよ」とはつまり、デルフォイ神殿の格言「汝自身を知れ」ということであり、その意味で、ソクラテスはダイモニオンの声によって、人間である自分自身の知が、どこまで行っても「無に等しい」ということを思い知らされたということになるのでしょう。ソクラテスの無知の知は、何かこういうものとして捉えることができる、と岩田先生がお考えになっていると見ることができるように思われます。

さて、もし以上の私の理解が正しいとすれば、レヴィナスの他者論における「他者」が、常に私の把握を超える者、限りなく遠い絶対者、無限、超越、と言われているその限りにおいては、ソクラテスのダイモニオンとそれほど隔たったものであるようには、少なくとも私には思われません。ソクラテスのダイモニオンは、つねにソクラテスの理性的思考を否定する仕方で現れる以上、ソクラテスの把握を超える絶対者であり、ソクラテスにとっての「他者」であるということができるように思われるということです。実際、ダイモニオン(to daimonion)という言葉は、「ダイモン的な」(daimonios)という形容詞の中性形に冠詞を付して成立した言葉で、端的に「ダイモン」(daimon)という表現よりは、「なにかダイモンのようなもの」という「なにか不定の捉え難いもの」が表現されているとされています(『ソクラテス』(百七十頁))。その意味で、ソクラテスのダイモニオンは、ギリシア的な「他者」であると思えます。

他方、レヴィナスの「他者」が、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者、隣人といわれる時には、ギリシアというよりはヘブライ的な考え方が入ってくるという言い方もできなくはないとは思います。特に、「隣人」という表現についてはそうです。ダイモニオン・超越者・絶対者としての他者と、他人とは必ずしも同じものではなく、その「他人」のことをヘブライ思想の言葉を使って「隣人」と表現することもできる、ということです。実際、ソクラテスが政治の世界に入ることを抑止したのは、政治家の「顔」がソクラテスに「やめてくれ」と訴えかけたわけではなく、弱肉強食、名誉名声、金銭等々、自己の附属物の追求にあけくれ、「コナトゥス・エッセンディー」の権化と化している現実の政治に関わることをダイモニオンが抑止したため、ソクラテスは現実の政治に携わらなかった、と考えても、それほど見当違いではないように思え、だとすれば、隣人としての他者と、超越者・絶対者としての他者とは必ずしも同じではないということになりそうです。

したがってまた、私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者の顔を蹂躙することを抑止するのは、単に人間としての他者(他人)というよりはむしろ、限りなく遠い絶対者としての他者であり、そこでもやはりダイモニオンの否定的なはたらきが関与している、と考えた方が、少なくとも私には、自然であるように思えます。このように考えた場合には、ダイモニオン・絶対者が個々の人間の「顔」を通してその抑止力を発揮したものが「私に限りなく近い他者」であり「隣人」であるということになるのかもしれません(この考えは私の思いつきなので、キリスト教で言う隣人とは違うのでしょうけれども。むしろ、このことを岩田先生に質問したいくらいです)。

したがってまた、ハイデガーの「良心」についても、もしそれをダイモニオンとのつながりで理解しようとするならば、本来的自己の背後にある「無」としての「存在」をダイモニオンと捉え、これが、「コナトゥス・エッセンディー」の実現をはかる者としての自己、つまり、自己の附属物ばかり追求する者としての自己から、本来的自己(無知なる自己)へと立ち返るよう促し、それが汝自身を知れという格言に通じる、と考える、というのは無理でしょうか?

このように考えてくると、岩田先生がおっしゃりたいのは、ギリシア起源の幸福概念からヘブライ起源の幸福概念への転回、自己実現から自己奉献への転回というよりはむしろ、理性主義から非理性主義への転回、コナトゥス・エッセンディーの充足としての自己実現から本来的自己を知ることとしての自己実現への転回であり、この転回によって、他の人との本当の交わりが可能になるため、その場面で真の幸福が実現される、ということではないかと思えてきます。ここには、プラトン・ソクラテス流の「魂の目の転向」という要素も含まれていると見ることができ、とすればそれはかならずしもヘブライ思想に固有の考えではないということになりそうです。その意味で、この転回は、必ずしもギリシア的幸福概念からヘブライ的幸福概念への転回と考える必要はないように思えます。むしろ、存在者の世界から存在者の根拠の世界へと目を向け変えるというそのことが真のアレテーの実現であると考えることもでき、その真のアレテーが実現した時、人間同士の真の交わりが可能になり、真の幸福に到達すると考えた方がよいのではないかと思います。

実際、「霊性と祈り」(『カトリック研究所論集』第九号(二〇〇五年三月))においては、アナクシマンドロスの「無限定なもの」(ト・アペイロン)、神、仏、道、天、空、無、ブラフマン、ヤーヴェ、絶対者、存在は、すべて、存在者の根源、世界の根源、宇宙の根源として等置されており、こうした根源への帰依があらゆる宗教の根本にあるとされている以上、論点は、われわれの世界(競争の世界)から存在者の根拠の世界への転向という点にあるのであって、この転向にはギリシアやヘブライといった区別は関わっていないはずです。

(もっとも、プラトンにはソクラテスとは違って、貴族趣味があり、「優秀な魂」のみを念頭においていたということは言えるでしょうから、その分は割り引いて考えなければならないのかもしれません。また、魂の目の転向と言ってしまうと、それは中期イデア論の成立をまって初めて言えることで、ソクラテスのダイモニオンとは直接つながらないと言われることが予想されますが、ここでは、「大いなるもの」「神的なもの」との関わりを念頭においているとお考えください。さらにまた、岩田先生がギリシア的幸福概念からヘブライ的幸福概念へのコペルニクス的転回と明言なさっているのは、「デモクラシーと幸福」(『公共哲学の古典と将来』)のみであり、それ以外の上掲御論文には、私の見落としでなければ、この種の発言はなく、むしろ、ギリシアもヘブライも日本も中国もインドも一括して扱われているように見られることから、「デモクラシーと幸福」を書かれた後で、お考えを変えられたということなのかもしれません。もしそうであれば、私としては特に言うことはありませんが、いずれの作品もごく最近書かれたものなので、この点、どうなのか、今度お目にかかかった時に聞いてみようと思います。)

以上、最近の岩田先生のお考えについて、「ギリシアの復権」という視点から、感想を述べさせていただきました。
by matsuura2005 | 2005-04-10 18:42
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