管理人 : 松浦明宏
哲学倫理学研究の二つのあり方
「脱稿」と言ったきり、文章を書くモチベーションが消え、しばらく充電していました。2月10日に出版社から初校ゲラが送られてきたのに、宅急便の不在連絡票が大量のチラシ類にまぎれてしまっていて、送られてきたのに気がつかず、今頃初校の校正をしています。チラシがあると本当に重要な連絡がわからなくなってしまうので、チラシを入れるのはやめて欲しいと思うのですが、彼らも生活がかかっているのでしょうから、こちらで管理するしかないのでしょうね。ともあれ、とうの昔にゲラが来ているのにオリンピックのカーリング選手「マリリン」などを見ながらのんびりしてしまいましたが、校正を始めるといやがおうでも現実に引き戻され、仕事の再開ということになりました。

というわけで、本題ですが、初校ゲラを読み返していると、プラトン研究者、あるいは、より一般的に、哲学倫理学研究者は、どういう姿勢で何を研究しているのかと、ふと思いました。「プラトンは何を考えていたのか」を追求し、「プラトンの意図」を説明するのが、「プラトン研究者」の仕事だと私はこれまで思ってきました。しかし、欧米のプラトン研究者の書いた論文や著書を読むと、とてもそういうことをしているとは思えないものが多数を占めているように思えます。

どうして超一流の研究者たちが、次から次へと「奇妙なプラトン解釈」を提出するのか、不思議といえば不思議です。彼らの頭脳や古典研究者としての才能が超一流であることは誰が見ても明らかなのに、そういう明らかに有能な人たちがなぜ当たり前のようにプラトン以外の人々の考えを根拠にしてプラトンの対話篇を解釈しようとしたり、自分で自由に考えて構わないのだと(プラトンが考えていたと)考えたりするのかということです。ここには、「テキスト解釈」や「古典研究」というものと、「古くからある哲学上の問題を自分自身の問題として引き受け、現代的な視点から考える」という二つの哲学研究の態度が交錯しているのかもしれません。

応用倫理学という比較的新しい学問分野では、プラトンに限らず、カント、ハイデガー等、一般に、哲学倫理学の「古典」(一級品)と認められた哲学者の思想に基づいて、現代的な倫理問題を考えようとする試みがしばしば見られます。この場合に重要なのは、プラトンやカント自身が何を考えていたかということよりはむしろ、そうした哲学者たちの思想に着想を得るなどして、われわれが自分自身で目の前にある哲学倫理学上の問題を考えようとする姿勢だと思います。あるいはむしろ、これまで古典的な哲学研究の訓練を行なってきた者が、とりたてて特定の哲学思想を念頭に置かずに、単に自分自身で考えた時、自然に生まれてくる答えや考え方が最も重要であると言った方がよいのかもしれません。いずれにせよ、現代の哲学倫理学上の諸問題を考える上では、古典的な哲学者の「テキスト解釈」は、それ自体としては、それほど重要ではないと思えるのです。

先の「明らかに有能なプラトン研究者」たちは、ひょっとすると、この二つの場面を区別していないのかもしれません。そして、そのことが一つの原因となって、「奇妙なプラトン解釈」をすることになるのかもしれません。もしそうだとすれば、それはやはり区別しなければならないということになるのでしょう。つまり、テキスト解釈や古典研究として論文や著書を書くのならば、それなりに厳密なテキスト上の拘束を前提とした研究を行なわなければならないでしょうし、哲学倫理学上の諸問題をわれわれ自身が考えるという場面で哲学倫理学研究を行なうのであれば、むしろ、そうした厳密なテキスト上の拘束を排除はしないまでも前提せずに研究を行なうのがより適切であるということです。そして、後者の場合には、その「哲学研究」は、「プラトン研究」や「カント研究」等のカテゴリーとは別のカテゴリーの中で行なわれるべきであると思います。それは「プラトンは何を考えていたか」、「カントはどう考えたか」を説明するものではなく、「自分はどう考えるか」を説明するものだからです。

いずれにせよ、「哲学倫理学研究のあり方」としては二つのあり方があって、それらを区別することが重要であると思えます。そうしないと、無用の混乱や批判が起こるように思えるからです。というわけで、今回は、哲学倫理学研究のあり方について、少しだけ考えてみました。
by matsuura2005 | 2006-02-22 10:18 | Comments(4)
Commented by ecrits at 2006-02-25 05:19
身につまされるお話です。
僕も相当暴力的にテクストを読み替えることを生業としてきたようなところがあるので(笑)、カントをマルクス-フロイトに先駆するコミュニストのように書いてきました。ただ、一つの側面として、テクストの可能性というようなものがあるのならば、それは常に新たな視点から読み替えることによって発生するのではないか、と考える事があります。その意味で思想上の大家とか何とか、そういうことは関係ない。いってしまえば、その時代の文脈で大幅に間違ってても良い。解釈するのは後世の人間であり、心配しなくてもそんな事は勝手にやる(笑)。有用なテクストとはそういうことではないか…と考えています。
Commented by matsuura2005 at 2006-03-05 07:15
コメントありがとうございます。
現代の問題に何らかの解決策を見出そうとする場面においては、テキストを自分なりに再解釈しても一向に差し支えないと思うわけで、それに役立つテキストが、エクリさんのおっしゃる「有用なテクスト」なのでしょうね。ただ、そのことと、そのテクストを書いた人本人の意図を確かめようとすることとは、両立することだと思うんですね。
Commented by wanderer at 2006-04-24 04:11 x
はじめまして。

この問題は詰まるところ、「アカデミズムは新しいことをやらねければならない」という宿命から来ているのではないでしょうか。正統的な解釈は出尽くしてしまっていますので、今更プラトンをやる人間は、王道研究に入れないというか、入りにくい。ということで、恣意的な読みをしてしまう。

そもそもハイデガーその人にしても、ひどく暴力的な人で、ヘルダーリンやニーチェをハイデガー化してしまいました。ただし、本当に実力もセンスもある人は、オーソドクスな解釈の延長に新説を上乗せしてくると思います。非西洋圏の日本では、言語的な壁の制約が大きく、オーソドクスな方法で西洋圏の人々を上回ることは難しいのではないでしょうか。勢い、フランス現代思想的な、なんでもありっぽい言説に飛び付き、表面的になってしまうのだと思います。
Commented by matsuura2005 at 2006-04-24 12:39
コメントありがとうございます。「正統的な解釈は出尽くしてしまっている」ので「恣意的」になりがち、ですか。確かにそうですね。また、「本当に実力もセンスもある人は、オーソドックスな解釈の延長に新説を上乗せ」するという点もその通りですね。ただ、人によっては、それを「人の敷いたレールの上を走りながら、ゆるんだボルトを締めてまわること」と言う人もいるようですので、「オーソドックス」もしくは「オリジナリティー」ということの内実が問われるのでしょうね。その時その時に研究の主流となっている立場(正統1)が、たとえば、本来のプラトンからずれていた場合には、本来のオーソドックス(正統2)というのは、その時点での主流から源流に立ち戻った立場という意味になり、源流に立ち戻って「新説を上乗せする」人が「オリジナリティーのある人」ということになる。となると、ハイデガーというのも、ひょっとすると、「実力とセンスがある人」なのかもしれませんが、ハイデガーの場合には、おっしゃるとおり、暴力的な解釈者と見るのが、ハイデガー研究者以外にとっては、普通の考えでしょうね。結局、オリジナリティーの質にもいろいろあるということですか。
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