管理人 : 松浦明宏
プラトンとプロティノス
プラトンとプロティノスという大きなタイトルのもとで本格的なことを書くのは、私の身の丈に合わないことですが、
自分のサイトに「研究ノート」や「覚え書き」という形で書くことなら、私にもできるので、夏季休暇の間に少しだけ書いておくことにしました。

先日(6月30日)、北海道大学において他の方々との合同の書評会で拙著内容の一部を発表させていただきました。その節には、関係者の皆様には大変お世話になりました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。プラトンのイデアの意義やアリストテレスの神の存在証明など、普段、個人的に関心を持っていることについて、識者の方々との有益な質疑応答の機会が得られたことが記憶に残っています。

北大での発表の際に配布させていただいた資料の冒頭に、「議論のねらい」として次のことを書きました。

「プラトンの『パルメニデス』に見られる変化の「瞬間」等の考察を通じて、
イデア(永遠)と事物(時間)とのかかわりの原理を見いだし、
これにより、プラトン哲学におけるイデア界と現象世界とのかかわりだけでなく、
プロティノスの「善一者」からの「流出」、アリストテレスの報告する「不定の二」と
『パルメニデス』篇との影響関係をも吟味する材料を提供すること。」

この「ねらい」の前半は、『パルメニデス』篇第二部第二仮定にみられる「限定する全体としての一」が一によって限定されないことが、分有、臨在、共有その他の言葉で表現されるイデアと事物との関わりの原理になっているという趣旨です。このことを、これまではシュライアーマッハーのプラトン解釈の方針にしたがって、プラトンの対話篇のみから解釈してきました。その成果として拙著(2018年)を出版させていただいたわけですが、分有や臨在等、イデアと事物とのかかわりの原理の確認とはつまり、イデア界からのイデアの「流出」の原理の確認という意味を含みます(イデアの分割可能性の原理の確認も必要ですが)。したがって、プロティノスの「善一者」から「知性」や「魂」が流出してくることや、「知性」の流出に際して、アリストテレスの報告する「不定の二」によく似た事柄が説明されていることと、「限定する全体としての一」からイデアが流出してくることとの関連を次の研究課題として設定しようと思い、そのことを「ねらい」の後半に書いたわけです。

その後、特に目立った進展があったというわけではありませんし、そもそもプラトンとプロティノスとを比較するには、相当な学識が必要になるため、今後私が研究を進めても、なかなかそう簡単には両者を比較することはできそうもありません。比較するうちに、プラトン研究とプロティノス研究との区別があいまいになり、自分がどちらの研究をしているのか、わからなくなりそうでもあるので、少なくともプラトン研究者としては、プロティノスに立ち入ることはむしろしない方が無難ではないかという危惧の念を抱いたりもします。

しかし、そうは言っても、プラトンの対話篇だけを研究した結果として、プロティノスの流出説との類似性を認めざるを得ない解釈になった以上、ある程度は、プロティノスとプラトンとの影響関係について考えてみなければならないことも確かです。その意味で、ここでは『パルメニデス』篇第二部第一仮定の「無限定の一」と第二仮定の「限定する全体としての一」との関連について、プロティノスの解釈をも念頭に置きながら、あらためて考えてみたいと思います。

新プラトン主義的な『パルメニデス』篇解釈においては、一般に、第一仮定(137c-142a)にみられる「一」が善一者、第二仮定(142b-155e)にみられる「一」が知性、第二仮定後(155e-157b)にみられる「一」が魂と解釈され、善一者から知性が流出し、知性から魂が出てくるという説明が行われます。これに対して、拙著(2018年)では、第二仮定にみられる「限定する全体としての一」が一によって限定されないことが、イデア分有の原理であるとしました。第一仮定の無限定の一を善一者とすることの見かけ上の利点と思えるのは、『国家』篇の太陽の比喩(善のイデア)を踏まえた比喩であろう『パルメニデス』篇第一部の日の比喩において、日(太陽、善)が自分自身から離れることがないとされることについて、第一仮定にみられる一が「他のもの(生成・現象世界)の中にない」とされることを説明として用いることが容易に思えるということです。これに対して、第二仮定の限定する全体としての一は「他のものの中にある」と言われるため、日(太陽)が自分自身から離れないことの説明という点では、第一仮定の「一」の方がより適切であるようにも見えます。

しかし、私が『西洋古典学研究』での拙稿(2017年)や拙著(2018年)を書いた時に、第一仮定の「一」を日の比喩の説明に採り上げなかったのは、それが単に「無限定」とされているからです。つまり、一が自分自身から離れず他のものの中にないなら、一と他のもの(生成)との間に「境界」があるはずですが、一が単に無限定であるというだけなら、その「境界」(つまり「限定」(ペラス))はないということになり、どのようにしてそのような「境界のないもの」が生成の中にないという仕方で自分自身から離れないという条件を満たすことができるのか、その説明をさらに必要とすると思えたからです。その点、第二仮定の「限定する全体としての一」は、一によって限定されないという点では、無限定の要素を持つ一方で、その一自身、限定する全体である以上、その全体性によって一と生成との間に「境界」を確保することができ、日の比喩において、一(日)が自分自身を離れないと言われている点を説明することが、全体性のない第一仮定の一より容易であるように思えます。したがって、拙著や論文の中では、第二仮定の限定する全体としての一を日の比喩についての説明として採り上げ、第一仮定の一については採り上げませんでした。

ただし、だからといって、第一仮定の「無限定の一」が、第二仮定の「限定する全体としての一」と、全く何のつながりもないというわけでもないので、そのことをここであらためて確認しておきたいと思います。この点については、既に拙著(2018年)第三章(第三人間論とアンチノミー)で採り上げています。つまり、第一仮定と第二仮定との根本的な違いは、総観と分割という後期的ディアレクティケーの二つのアスペクトに反映されている自体性と関係性という二つのアスペクトの違いであり、第一仮定の「無限定の一」と第二仮定の「限定する全体としての一」との違いも、自体性と関係性という二つのアスペクトの違いに帰着するということです。ここでアスペクトと言っているのは、つまり、総観と分割が同時に成立するように、自体性と関係性は、事柄としては同じ一つの事柄(「一がある」(「万有は一である」)という事柄)についての、同時に成立する二つの側面であるということです。たとえば、多くのものから一なる大を総観した場合、その一なる大は自体的にみられた大であるのに対して、その一なる大を一なる小との関連で見た場合、つまり、大のイデアは小のイデアとは異なる等の仕方で、他のものとの差異・区別を念頭に置いて一なる大をみた場合、その一なる大は関係的にみられた大となります。しかし、それらは大のイデアであるという点では変わらないので、自体的な大のイデアと関係的な大のイデアとは、事柄としては同じ一つの事柄(大のイデアであること)についての、同時に成立する二つの側面ということになります。第二仮定の「限定する全体としての一」は、関係性のアスペクトにおいてみられた一なので、そこに無限定という要素がみられたとしても、それはあくまで関係のアスペクトからみられた無限定(無限定の二、おそらく「不定の二」)であるのに対して、第一仮定の「無限定の一」は、自体性のアスペクトにおいてみられた一なので、その無限定は、当然、自体的な無限定であって、不定の二のような関係的な無限定とは異なるということです。この自体的な無限定と関係的な無限定のうち、日の比喩にかかわるアポリア回避には、関係的な無限定の方が適しているため、拙著(2018年)等では、限定する全体としての一に定位した議論を行ったということです。

このように、今あらためて考えてみると、プロティノスのプラトン解釈と私のプラトン解釈との違いは、第一仮定と第二仮定との間に、総観と分割という後期的ディアレクティケーという要素を考慮に入れている否かという点、つまり、プロティノスは、すべてを善一者に帰着させ、一元的に説明するのに対して、私見は、アンチノミーの対性を重視して二元的(自体的、関係的)に説明するという点にあります。他方、両解釈の共通点は、いずれも、一なるものから多なるものが流出してくる原理的な事柄を考えているという点にあるということになるように思います。アンチノミーの成り立ちという観点から見ると、私見はプロティノスの解釈とは相容れませんが、上述の関係的な無限定をイデアと事物のかかわりの原理と考えているという点では、プロティノスの流出説に似た解釈を提示しているということになるのでしょう。

プロティノスの三つの原理的なもの(善一者、知性、魂)が、キリスト教における三位一体論(父、子、聖霊)に影響したとすれば、第二仮定にみられる限定する全体としての一の不定性によりイデアがイデア界から生成界へ流出してくるという、拙著に示した関係的な無限定の解釈は、プラトンの意図という点では懐疑論的なイデア論批判や全体と部分のアポリアへの解決策として理解するのが妥当であると思いますが、それを後の哲学史を踏まえてみた場合、(もちろん、多くの点で異なってはいますが)プロティノスの流出説やキリスト教における三位一体論とも一脈通じるところのある解釈なのではないかと考えるようになりました。

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(アテネ 古代アゴラ State Prison 2018年8月15日 著者撮影)




by matsuura2005 | 2018-08-20 05:07 | 研究ノート | Comments(0)
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