管理人 : 松浦明宏
哲学研究(プラトン哲学研究)の方法 -新刊拙著へ寄せられた感想(続き)-
新刊拙著へ寄せられた感想の中で、疑問が投げかけられたものとしては、前回の記事に書いた分割法とイデアの多性との関係がありますが、この点については、『パルメニデス』篇に見られる「観念」(noema)と「あるもの」との対応関係、帆布の比喩に描かれている多くの人の上にある帆布の諸部分、『ソピステス』篇に見られるディアレクティケーとディアレクティケーの成立根拠(aitia)との関係等のテキストをもとに説明させていただきました。他方、肯定的な感想をいただいたものとしては、総括の末に書いたプラトン哲学研究の方法論があります。簡単に内容を振り返ることから、話をはじめます。

私の見るところでは、プラトン研究者の大多数は、自分が行っている研究の方法をほとんど意識せずに解釈を行っています。自然科学系の研究論文には研究の目的だけでなく研究方法も書かれるのが普通なのに、哲学系の研究論文の冒頭に研究方法が書かれることはなく、たとえ研究方法という言葉の意味が自然科学と哲学との間で異なっているとしても、自然科学系の研究者に比べて哲学研究者が自分の研究方法に無頓着であることに変わりはありません。その結果、自分の行っている解釈がどのような方法により行われた解釈なのか、なぜその方法が適切なのか、他の人から聞かれた時に、きちんと説明できる人はあまりいないのではないかと思います。

たとえば、プラトンの対話篇を研究する時に、他人の著作を典拠に解釈を行う研究者がかなり多く見られますが、こうした方法を用いてプラトンの対話篇解釈を行うことは、解釈の枠組みがプラトン自身の枠組みから変質してしまうリスクが高く、なるべくプラトンの対話篇に書かれている言葉や概念を使って解釈を行う方法の方が、プラトン自身が何を考えていたのかを説明しようとする場合には、リスクのより低い研究方法・解釈方法であると思います。本書の本論で行ったことの一つの側面は、プラトン以外の著作に基づいて解釈を行うことのリスクを示すことと、プラトンの対話篇に基づいて解釈を行うことのメリットを示すことであるとも言えます。『ソピステス』篇に見られる自体的に語られる「ある」と別のものとの関係で語られる「ある」や『パルメニデス』篇第二部に見られるアンチノミーを、プラトン自身が提示している後期的ディアレクティケーの観点から解釈する方が、プラトン以外の著作に基づいて解釈するより、プラトン自身が何を考えていたのかを説明しようとする場合には、リスクがより低くなるのではないかということです。

詳しくは書籍の方をごらんいただければと思いますが、もともと方法論についての上の考え方は、19世紀のドイツの哲学者・神学者シュライアーマッハーのプラトン解釈の考え方に従っているので、私としては自分のオリジナルな方法論として提示したつもりはなく、シュライアーマッハーの方法論(「対話篇のみ」)を私なりにパラフレーズして書いたつもりです。

ただし、このように言うと、プラトンが対話篇を書いた外的要因(社会的、歴史的、学問的背景等)を考慮に入れなくてよいのかと問われることは必定です。もともとプラトンが政治家の道から哲学者の道へと転身した背景に、三十人政権の挫折やソクラテス裁判という歴史的事実があり、また、プラトンがパルメニデスの詩やピタゴラス派から影響を受けていなかったとは到底言えない以上、対話篇外の様々な事実や他の哲学者との影響関係をも踏まえて、プラトンの対話篇の解釈を行うべきではないのか、と問われるであろうということです。

対話篇外の諸事実と対話篇内容との関連をどのようにつけるべきかというこの問題に対しては、私は、「優先順位」の問題として捉えるという自分なりの回答をもって、解釈を行っているつもりです。つまり、たとえ様々な歴史的事実や思想的背景がプラトンの対話篇執筆に影響しているとしても、その影響の結果はすべて対話篇内の論理として表現されており、対話篇に内在的に読み解くことができるはずです。なぜなら、プラトンはその外的事象を対話篇に描いたような仕方で捉えたはずだからです。たとえ対話篇にプラトンの真意が書かれていないとしても、その真意を他人の発言に基づいて説明することは避けるべきであり、あくまでも対話篇に描かれた事柄から引き出すべきです。プラトン自身の枠組みを変えないためです。このように、対話篇に内在的にプラトンの論理を読み取ることが優先的に行われるべきであり、それが出来た後、種々の対話篇外の事柄との異同を吟味すればよいというのが私の立場です。その吟味の結果、対話篇外の事柄と解釈結果が異なっていたとしても、その違いを問題にするには及びません。プラトンの考えと他の人の考えとが同じでないからといって、そのプラトン解釈が間違っているということにはならないからです。むしろ、プラトンの対話篇内の論理的整合性の方が、プラトン解釈としての妥当性を問題にする場合には重要ではないでしょうか。

たとえば、本書総括第二項末に書きましたように、もし「一によって限定されないという不定性(自体的な一性)がまさに他のものとの関係性(多性)でもあり、自体性(一性)と関係性(多性)のこの同時成立によってイデアという超越者は内在者との境界を越え、イデアが事物と、永遠が時間とかかわることが可能になる」(144頁)とすれば、そこにはアリストテレスの不文の教説に見られる「不定の二」(aoristos duas)という言葉から受ける印象と似たところがないわけではなく(一性と多性の同時成立)、アリストテレスの言う「不定の二」を念頭に置きながら(しかし、依拠はせずに)解釈を行っていることは確かなのですが、だからといって、私がそこに書いた内容が、アリストテレスの言う「不定の二」であるというつもりはまったくなく、単に、プラトンの対話篇内容の論理を追いかけていくと、上記のような分有可能性の根拠と言えるような事態に遭遇するということだけです。

もちろん、たとえば、「識別子」(diaphola)としての数という解釈(123頁、128頁)のように、『パルメニデス』篇に見られるイデアの「部分」と『ソピステス』篇に見られるイデア・エイドスの「部分」とを整合的に説明できるだけでなく、アリストテレスの「種差」との影響関係を指摘することも可能な解釈は、対話篇内在的解釈が対話篇外の事柄と整合的につながる解釈の例であり、なるべくなら、このような形で、対話篇と対話篇外とを関係づけることができれば、それがもっともよいということにはなるのでしょう。しかし、そのことは、解釈の根拠を対話篇の外部(この例の場合には、アリストテレスにおける「種差」)に求めることと同じことではありません。「識別子」としての数という解釈は、アリストテレスにおける「種差」がなくても、プラトンの対話篇だけから導くことができるというところが重要なところです(『パルメニデス』篇第二部、『テアイテトス』篇、『ソピステス』篇)。解釈の「根拠」を対話篇外の事柄に求めることは避け、あくまでも、対話篇内部の事柄に解釈の「根拠」を求めるべきであり、その解釈の結果が対話篇外の事柄と一致するか否かは二義的な問題である、というのが、私の立場です。それが、アリストテレスやディオゲネス・ラエルティオス等、他人の枠組みに影響されずにプラトン対話篇の解釈を行う最も適切な方法であるように思いますが、いかがでしょうか。


なお、いずれかの折りに、プラトン研究の方法論について議論する場があってもよいかもしれません。


by matsuura2005 | 2018-05-06 00:51 | 研究ノート | Comments(0)
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