管理人 : 松浦明宏
哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス -
今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。


「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。

体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。

全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。

美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。

アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。


エロスは、ギリシア神話においてはアフロディテーという美の神の子と言われることが多く、ローマ神話ではキューピッド、精神分析の分野ではリビドー(生の本能)と言われます。一般には官能の愛とか性愛、渇望、といわれることが多いようです。

エロスについて、プラトンは、『饗宴』において、いろいろな話を述べています。ここでは、特に、ソクラテスがディオティマという女性から聞いた話という形で述べられる箇所を中心に、エロスについてのプラトンの考えを見ていきます。

エロスとは美しいものであるという考えがありますが、ソクラテスによれば、エロスとは「自分に欠けている美への欲求」のことであり、自らに美を欠いている以上、エロスそのものは美しいものではありません。つまり、欲求とは、現に自分が持っているものを求めるのではなくて、現に自分自身の持っていないものを求めることであり、その欲求の対象が美であり善である以上、エロスそのものには美や善が欠けており、美しいものでも善いものでもないということです。

ただし、それが美しくないからといって醜いものというわけではなく、美しいものと醜いものとの中間のものです。つまり、神は美や善を所有していて、幸福なものであるのに対して、エロスは神ではなく、ダイモン(神霊)であり、神と死すべきものとの中間にあるものであるということです。

ディオティマによれば、エロスは次のようにして生まれました。美の女神アフロディテ誕生の祝宴の夜、それに列席していたポロス(策略、豊富)が神酒に酔いつぶれて眠っているところへ、
ペニア(欠乏、困窮)が添い寝して、エロスを身ごもった。このように、エロスは、美の女神誕生の祝宴のときに生を受けたので、生まれつき美しいものを恋するものなのです。エロスは、ポロスとペニアの子どもですから、第一に、母ペニアの性を受け継いで、いつも貧しく困窮しており、他方、父ポロスの性を受け継いで、美しいもの善きものを策略によって狙う者、という定めにあります。より正確にいえば、エロスは、決して困窮しつくすといことも富みつくすこともなく、いつも困窮と豊富の中間にあって、美しいもの善いものを求めているということになるでしょう。

ここで重要なのは、「美しいもの」「善いもの」が何かということです。つまり、それが身体の場面で美しいものという意味である場合には、エロスは、美男美女を求めて身体的に交わろうとすることを意味し、それは通俗的な意味でのエロスに近くなります。他方、「美しいもの」が精神の場面での美しいものという意味である場合には、精神の場面で最も美しいものとは「知」に他なりませんから、エロスは、「知」を求めることを意味し、したがって、エロスとは、「知を愛し求めること」、すなわち、「フィロソフィア」(哲学)を意味することになります。繰り返せば、プラトンにとって「エロス」とは「哲学」のことなのです。

ディオティマによれば、すべての人は、或る年齢に達すると、肉体的にも精神的にも妊娠し生むことを欲します。生むことは、醜いものの中ではできず、美しいものの中でなければできません。美しいものの中での出産・分娩を目指すのです。

人間という死すべきものは、身体的な出産により、かつての自分と同じような別の新しいものを後に残していくという仕方で、不死なるものに与ります。他方、魂の場面で身ごもっている人は、美しく高貴で素質のよい魂を相手に知や徳を生み出そうとし、この相手に対して、徳に関する話などをして教育にあたります。

そのようにするためには、人は、若いうちに、まず、美しい身体に向かう必要があります。最初は一つの身体に向かってこれを恋い求め、次に、すべての肉体における美を同じ一つのものであると考え、次に、魂の中にある美を、肉体の中にある美よりも貴重なものと考え、こうして徐々に、肉体の美を見ることから精神の美を見ることへと高まっていき、その究極として、驚嘆すべき美(美のイデア)を観ることが必要である。

この美のイデアは、
(1)常に存在し、生成消滅せず、増大も減少もしない。
(2)ある面では美しいが他の面では醜いということがない。
(3)ある時には美しいが他の時には醜いといういうことがない。
(4)あるものとの関係では美しいが別のあるものとの関係では美しくないということがない。
(5)ある人々にとっては美しいが別のある人々にとっては醜いということがない。
(6)身体に属するいかなる部分の形をとっても現れるということがない。
(7)言論や知識の形で現れることがない。
(8)動物、大地、天空などの中にあるものとして現れることがない。
(9)それ自身だけで、それ自身とともに、単一な形相を持つものとして、永遠にある。

と言われています(『饗宴』(210e以下))。

ただし、『パイドロス』においては、思慮その他の徳の場合には、それを視覚によって捉えることはできないけれども、美の場合には、これを視覚を通じて捉える、とも言われています。

「美は、他のもろもろの真実在とともに、イデア界にあるとき、燦然と輝いていたし、また、われわれがこの世界にやって来てからも、われわれは、美をわれわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて、最も鮮明に輝いている姿のままに、とらえることになった。」(『パイドロス』(250d)藤沢訳に基づく)

どのような仕方で、この世界において美が顕現するのか、何とも言いがたいところです。誰が見てもそれを美しいと考える姿形において真実在がその形を現しており、そのようにして現われた真実在の持つ輝きのようなものなのでしょうか。

最後に、アンドレ・コント=スポンヴィルの『幸福は絶望のうえに』(紀伊國屋書店)に見られる誤解について、一言付け加えておきましょう。スポンヴィルは、『ささやかながら、徳について』というベストセラーの著者であり、『幸福は絶望のうえに』は、この著者の日本での四冊目の翻訳書になります。この書の中でスポンヴィルは、プラトンのエロスについて、こう述べています。

「愛とは何か? 要約して言えば、ソクラテスの与える定義は次のようなものです。つまり、愛とは欲望であり、欲望とは欠如である。さらにプラトンは楔を打ちこみます。「自分の所有していないものや自分がそれではないもの、自分に欠けているもの、それこそが欲望と愛の対象である。」」(p.32)

プラトンのエロスや欲望をこのようにまとめること自体に問題があるわけではないのですが、スポンヴィルの場合、そのようにまとめたうえで、次のように話を展開します。自分の所有していないものや、自分に欠けたものを追求している限りは、決して幸福にはなれない。というのは、まず、自分に欠けている限りそれは自分のものになっておらず、逆に、自分のものになっているときには、既にそれは自分には欠けていない。この意味で、自分に欠けたものが自分のものになることは原理的に不可能である。不可能なことを追求していても幸福になることはできず、
むしろ、自分に可能なこと、自分に左右できることを追及することによって幸福に到達できる。
したがって、幸福になるためには欲望を絶つことが必要であり、その意味で、「絶望」のうえに幸福がある。

この考えにおいて、スポンヴィルは、プラトンにとってエロスが「知の愛求」すなわち「哲学」のメタファーであるということを念頭においていません。欲求(欲望)の対象として、知ではなくて、
肉体や金銭など「自分自身にとって外的なもの」と前提した上で話をしているように思えます。
その意味で、スポンヴィルは、エロスや欲求についての通俗的な理解にとどまったうえで、プラトンを非難しているようです。

そして、そのようにしてプラトンを非難した上でスポンヴィルが提案している「自分に左右できること」等の考えは、「自分の本性に従うこと」という正義の徳、節制の徳、「汝自身を知れ」というデルフォイの箴言という形で、プラトン自身の著作の中にも含まれているように思われるのです。自分の本性を、われわれは「所有している」のでしょうし、その本性に従って振舞うことは、自分自身を知ろうとすることによって可能になるのでしょうから、その意味でそれは、われわれ自身に「左右できること」なのでしょうから。

もっとも、スポンヴィルはストア派の賢者を念頭においているようですので、必ずしもすべてがプラトンの著作の中に見出されるというものでもないのでしょうけれども。いずれにせよ、スポンヴィルがプラトンのエロスについて「知の愛求」という論点を考慮していないのは、ほとんど致命的な誤りであると思えます。
# by matsuura2005 | 2016-03-26 20:07