管理人 : 松浦明宏
哲学講義1 - 哲学のはじまり -
この講義の目的は、哲学を専門に学ぶのではない学生さんたちに、なぜ哲学が必要なのかをわかってもらうことにあります。

たとえば、理学療法、作業療法、看護といった各分野で学び、将来医療従事者になろうとしている皆さんが、なぜ哲学を勉強する必要があるのでしょうか。そこのところからまず考え始めないと、哲学という科目を勉強しようという気にはならないでしょう。

皆さんは、いわゆる「文科系」と「理科系」という区別の中では
「理科系」の科目を専門に勉強しています。
私も実は昔、理科系の科目を専門に勉強していました。
中学・高校と数学や物理が得意で、古文や漢文は苦手でした。
どういうわけか「石拾い」の好きな「変なやつ」だったので、
理学部に入って鉱物学を勉強しました。
ではどうしてそういう理科系の人間が、
いわゆる「文科系」に入っている哲学を勉強するようになったのでしょうか。
理科系人間だった私にとっての哲学の始まりを述べることで、
理科系の大学で学ぶ皆さんにとっての哲学の始まりの参考になるかも知れません。

哲学を専門に学ぶ人たちの間では、「哲学の始まり」というと、
まずは哲学という言葉の語源やイオニア自然学派の話から教えられるのが普通です。
しかし、このことについては、次回以降でおいおい述べることにして、
ここでは私にとっての哲学の始まりを述べることにします。
その内容は、哲学の専門家たちが論じている哲学の始まりと
あながちまったく無関係とも思えないので、
いわば、文科系と理科系との両方の分野に多少なりとも関わってきた私が、
両分野の「橋渡し」をするという意味で、
まず自分自身の哲学の始まりを述べるのだとお考え下さい。
私が哲学をはじめることになった理由というのは、多分、一義的には決められないのでしょう。
しかし、こういうことだけは言えると思います。
科学を勉強しているとき、私は私自身を無用の人間であると思っていた、
ということです。(実は今でもそうなのですが。)
たとえば、鉱物学を勉強して、鉱物学に関するなんらかの客観的真理を発見したとします。
しかし、それは、原理的に言って、別に私でなくても見つけられるはずの真理です。
「客観的真理」というからには、
それは原理的には誰にでも手に入れることができるはずであり、
私が見つけなくてもそのうち誰かが見つけるはずです。
それが誰かはわからないが、別に私でなくても一向に構わない。
私の代わりなどいくらでもいる、ということですね。
この「誰にでも手に入れることができる」という性質、
あるいは、もう少し別の観点から言えば
「誰でもそれを利用することができる」という性質は、
必ずしも悪いものではありません。
むしろ、これらの性質ゆえに、わたしたちは、たとえば、
文明の利器を用いて誰でも他の人と同じことができるようになるのですから。
電車に乗れば、仙台から山形まで、誰でも同じ時間に到着することができる、
といったようなことですね。
私は自分の足で100メートルを10秒で走ることはできませんが、
車に乗ればそのくらいなんでもないですし、きっと皆さんもそうでしょう。
車に乗れば100メートルを10秒で走ることくらい「誰でもできる」。

しかし、この「誰でも皆同じことができる」ということには、
「平等の獲得」・「共同性の獲得」というよい側面と同時に、
「個性の損失」という悪い側面が含まれています。
先にも述べましたように、
誰にでもできるのなら、特に私がする必要はない、ということですね。
100メートルを10秒で走る必要が生じた場合、
車を運転できる人でありさえすれば、運転手は誰でもいい。
別に私でなくてもぜんぜん構わない。
何かxという物質にYという物質を混ぜればZという物質ができるということがわかっていて、
そのzという物質を今必要としている場合、
そのzという物質を作ることは、それなりの訓練をつんだ人なら誰にでもできるし、
場合によってはそれほどの訓練を必要とせず、マニュアルさえあれば素人でもできる。
もっと言えば、人間でなくても機械にでもできる、
それどころか、人間より機械の方が間違いが少なくてよい、というわけですね。
もちろん、物質zの作り方を知っていれば役には立つでしょう。
また、未知の物質Aを作ることは、実際には誰にでもできるというようなことではない。
しかし、それは原理的には誰にでもできることなのであって、代わりはいくらでもいる。
あなたでなければそれを見つけたり作ったりできないような性質のものではない。
そういう物質zの作り方を覚えたり、未知の物質Aの作り方を発見したりして、
それで何の疑問も持たないでいられるのなら、
それはそれで構わないのでしょうが、私に言わせれば、
それは「別にあなたでなくても構わないことをしているだけのこと」なのです。

こういうひねくれた考えを持つようになった結果、
科学の中に自分の居場所を失った気持ちがしたわけですね、私は。

これをもう少し「哲学的に」というか「大げさに」というか、とにかく、言い換えて言えば、
次のようになるでしょう。

科学を学ぶうちに、その客観性のもつ暗い側面に気がつき、
その分野での自分に存在根拠が無いことに気がついた。
そしてそれをきっかけとして、
自分がそもそもこの世に存在していることにあまり意味がないのではないか、
自分の存在根拠がないとすれば、私は何のために生きているのか、
私が生きている理由などないのではないか、と思うようになった、ということです。
「存在根拠」を「生きる理由」と言い換えたのは、
人間にとっては存在するとは生きることだからです。
このような疑問を持つようになった私は、いろいろと危ない考えをめぐらすようになり、
最終的には哲学の分野で生きていこうと思うようになったのですが、
このあたりの事情については、いずれまた、ということにして、
以上の話のポイントを振り返っておきましょう。

1.客観的真理の持つ二面性
2.存在根拠のなさ

という二点に集約できるかと思います。
これらがなぜ医療従事者にとって大切なのかといえば、
自分が生きている理由を疑うということを知らない人間には、
本当の意味で患者さんに「共感」することなどできないと思えるからです。
患者さんの中には、もちろん、軽症の人もいて、
それほど大げさな仕方でケアする必要のない場合もあります。
しかし、同じく患者さんの中には、自分の存在理由を疑っている人もいるはずです。
そういう人たちの気持ちを、多少なりともわかろうとするなら、
まずケアする人自身が自分の存在理由を疑ったことがなければならない。
それがいわゆる「共感」の本当の基盤になる。

だから、私には、こう思えるのです。
哲学の始まりとは、自分の存在理由を疑い始めることであり、
自分はなぜ生きているのか、自分は何のために生きているのか、
と自問自答を始めることである。
こうした自問自答なしに、単に哲学史上の知識を頭に詰め込んだところで、
哲学の好事家にとってはともかく、医療従事者にとってはほとんど何の意味もない。
逆に言えば、本当の意味で患者さんをケアできるようになるための一つの重要な基礎として、
医療従事者は哲学することを始める必要がある。

こういう理由から、皆さんは哲学することを始める必要があるのです。
# by matsuura2005 | 2004-02-01 16:15