管理人 : 松浦明宏
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哲学講義-ナルキッソスの自己愛-
前期の間に授業の中で話題にしたこととして、ナルキッソス(Narkivsso")とエコーのギリシア神話があります。ナルキッソスという言葉は、ナルシスト(正しくは、ナルシシスト)やナルシシズム、あるいは、水仙を意味する英語narcissusの語源となった言葉です。水仙には鎮静作用があるために、「麻痺」や「死」を意味するギリシア語ナルケー( narkhv) と関連づけて考えられています。麻薬(narcotic drug)もこのギリシア語(ナルケー)に由来しています。

ナルキッソスにまつわるエコーの悲恋話は有名です。エコーとはあの「こだま」のエコー(echo)のことです。ヘラ女神が夫ゼウスの不倫現場をもう少しで取り押さえようというところで、エコーがヘラにおしゃべりをして邪魔したために、夫と不倫相手が逃げてしまった。そのおしゃべりの罰として、エコーは相手の話す言葉の最後の言葉しか声にだせなくなってしまった。エコーが美少年ナルキッソスに恋をしても、自分からは話しかけることができず、陰から見守るしかない。運良く、ナルキッソスが自分の気配に気づいて話しかけてくれれば、その最後の言葉を繰り返すことだけはできる。「会おうよ」と言われれば「会おうよ」と答えることだけはできる。そうして実際に会って、ナルキッソスに抱きつこうとすると、ナルキッソスはエコーを退け、エコーは振られてしまう。その後、エコーはやつれ、今ではその声のひびきだけが残っている。

ただし、エコーについてはこれとは別系統の話も伝えられています。それによると、エコーは、音楽が上手なニンフの一人であり、人間にしろ神にしろ、誰でも男にあうと逃げ出してしまい、言い寄ったパーンからも逃げ出した。パーンは腹を立て、羊飼いや山羊飼いの気を触れさせてしまった。この狂った羊飼いたちがエコーを食いさき、エコーが歌っていた歌の節々を方々へまき散らした。その節々が大地に隠されていて、それが人の歌や声を真似して返す(呉茂一『ギリシア神話』、新潮社、325-326頁を参照)。

ナルキッソスに振られた話とはまたずいぶん違った雰囲気を持つ話で、これはこれで興味深い話です。

それはともかく、ナルキッソスは、多くの人々につれなくしたので、自分のものにできないものを恋するように、との祈りが復讐の女神によって聞き届けられ、泉に映った自分に恋することになります。少し長くなりますが、そのくだりを引用(抜粋)します。

「狩猟と暑さで疲れきった少年は、ここに身を投げ出した。あたりのたたずまいと、泉とにひかれてやって来たのだ。渇きを静めようとしていると、別の渇きが頭をもたげた。水を飲んでいるうちに、泉に映った自分の姿に魅せられて、実体のないあこがれを恋した。影でしかないものを、実体と思いこんだ。・・・不覚にも、彼はみずからに恋い焦がれる。相手をたたえているつもりで、そのじつ、たたえられているのはみずからだ。求めていながら、求められ、たきつけていながら、同時に燃えている。
 
ああ、いくたび、偽りの泉にむなしい口づけを送ったことだろう! 水にうつった頸に抱きつこうとして、そんなことができるわけもないのに、いくたび、水のなかへ腕を沈めたことか! 自分が何を見ているのか、それを知ってはいない。が、自分が見ているものによって、炎と燃えている。彼の目を欺いているのも迷妄なら、その目をあおりたてているのも、同じ迷妄だ。浅はかな少年よ、なぜ、いたずらに、はかない虚像をつかまえようとするのか? お前が求めているものは、どこにもありはしない。・・・

わかった! それはわたしだったのだ。やっと今になって、わかった! わたし自身の姿に、もうだまされはしないぞ! みずからに恋い焦がれて、燃えていたのだ。・・・どうしたらよいのか? 求められるべきか、求めるべきか? 何を、いまさら、求めようというのか? わたしが望んでいるものは、わたしのなかにある。豊かすぎるわたしの美貌が、そのわたしに、貧しい身であるかのようにそれを求めさせた。ああ、このわたしのからだから抜け出せたなら! 愛する者としては奇妙な願いだが、わたしの愛するものがわたしから離れていたら!

悲しみのあまりに、もう、力は尽きて行く。余命は、いくばくもない。・・・愛するあの若者には、できることなら、もっと長生きをしてほしい。だが、今は、ふたりが仲よく、同時に死を迎えるのだ。」(オウィディウス『変身物語』(上)、中村善也訳、岩波文庫、116頁-120頁(413-473)より抜粋(名訳です))


こうしてナルキッソスは狂乱状態に陥り、死を迎えます。それを見ていたエコーはとても悲しみます。その死体はいつのまにか消え、あとには、黄色い水仙の花が見つかった、ということです。

ちなみに、この話をモチーフにした絵画が、「きままにARTSダイアリー  神話の中の花たち  ナルキッソスの物語(1)〜(4)」に紹介されています。

さて、この話を読んでみなさんはどう思いますか? いろいろな読み方ができそうですね。自己満足に陥った文明は衰弱して死に向かうという、文明批判として読む見方もあります。水仙に鎮静(セデーション)の効果があり、人の感覚を麻痺させるというあたりが、解釈の一つのポイントになるのでしょうね。他を一切寄せ付けず、自己満足に浸っている者は、人間であれ文明であれ、正常な感覚が麻痺して衰弱していくという方向で読むことができそうです。

「相手をたたえているつもりで、そのじつ、たたえられているのはみずからだ。」自己中心的な人、自分以外のものに反応しなくなった人って、こういうことになりがちですよね。これは自戒の念も込めて言うことですが、「こいつはいいやつだ」と他の人を評価する場合でも、なぜそのような評価を下すことになるのかとよくよく考えてみれば、自分にとって都合がいいから、自分に利益をもたらしてくれるからであって、結局、評価されているのはその他人ではなくて、自分だった、ということは、よくある話のような気がします。これなどは、人を評価する際の尺度が自己利益ということで固まってしまって、評価している本人にそのことが見えなくなり、それが正常な感覚を麻痺させているという例になるのかもしれません。そういう場合には、その人は、自分に利益のないことには、何の関心も示さないか、何かともっともらしい理由をつけて、避けるだけのような気がします。

しかし、それ以外にもいろいろ読み方は考えられるように思います。自分の虚像を愛するということについて、「お前が求めているものは、どこにもありはしない」と言われ、自分の実体を愛し求めるということについて、「わたしが望んでいるものは、わたしのなかにある」とも言われているように思えます。自分が望んでいるものは既に自分の中にあるにもかかわらずそれを求めたくなる。自分が望んでいるものを手に入れるには、それが自分から離れていなければならないが、自分が自分から離れているということは不可能である。だから、自分が望んでいるものを手に入れることはできない。このあたりに、この話の面白さがあるようにわたしには思えます。

麻痺ということに目を向けて考えれば、次のように考える事もできるかもしれません。これは一つの思考実験であり、誰かの学説というわけではありません。

自己愛というよりはむしろ自己認識の文脈では、認識の主体と認識の対象とが一致しているということは、思考と対象との一致という真理概念に基づいて、むしろ、よいことと考えられています。自己認識においては、思考主体(自分)とその対象(自分)とが必然的に一致するため、それは必然的に真である、といった具合にです。しかし、上記のナルキッソスのような場合、これは単なる自己認識というよりはむしろ自己愛、つまり、認識主体と認識対象との一致というよりはむしろ愛求の主体と愛求の対象とが一致している場合のことですが、この場合には、その「一致」が「麻痺」につながり「狂乱」へとつながる。理由は以下の通りです。

自分が自分と既に一致している以上、自分が自分と一体に「なる」ことは原理的にありえない。自分と一体になりたくても決して一体になることができないのだから、この意味における「自分の思うようにならない」という点で、その人は精神的・身体的に麻痺していると言える。自分との一体感など得られるはずが無いのだから、それを求める人には、それが身体的なものであれ精神的なものであれ、或る種の欠如の感覚がつねにともなうといってよく、したがってまた、それを麻痺と言っても構わないように思えるということである。となると、その人に出来ることはといえば、高々、泉に映った虚像に触れようと試みることぐらいしかない。それでも無理矢理自分と一体になろうとすれば、現実の自分が現実の自分から離れなければならなくなる。それがつまり、自己分裂、狂乱、死である。

愛の矛先を自分に向ければ死ぬしかなくなるということ、他者を愛するのが健全な愛であるということになりましょうか。自己満足の状態を表すのに、「大地で自分の足を支えるのではなく、自分の手で自分の足を支える」という滑稽な状態を想定している論者もいましたが、これをわたしなりに言い換えたのが上の話であると御考えいただいてもかまいません。トーマス・マンではありませんが、滑稽と悲惨は紙一重なのですからね。
by matsuura2005 | 2005-07-24 20:55
論文要旨・補遺「コンピュータ技術者の責任 --賠償責任なしの所有権」
論文要旨
ソフトウェアの使用許諾契約においては、著作権や特許権などの所有権が主張される一方で、その使用から生じた一切の責任は負わない旨の免責条項が付されるのが一般である。もちろん、この種の免責条項には「法が許す範囲において」等の限定が付けられることもあるが、ソフトウェアそのものを製造物責任法の対象と見なさない場合には、こうした限定句は、少なくとも人命や財産等の重大な損害については、実質的には意味を持たない。こうした状況について、ベンダー側の非常識を難じることはたやすいが、それを難じているだけではあまり意味がない。むしろそうした問題を生み出すことになった根本的な原因を明らかにすることの方がより重要である。

私がこの論文の中で行っているのは、そうした原因探求の試みであり、コンピュータ・エシックスの歴史、ソフトウェアの所有権問題、種々の責任概念や製造物責任法等を踏まえた上で、以下のように考えれば、有償のソフトウェアが欠陥を持つ場合にはそのソフトウェア自体を製造物責任法の対象とすることができることを論じた。そして、コンピュータ技術者はこの見方を受け入れることで社会に対する責任を担うべきであると主張した。

まず、各国の現行法において、ソフトウェアそのものが製造物責任法の対象からはずされている一つの重要な根拠は、それが有体物ではなく無体物であるという点にある。日本の場合にも、製造物責任法の対象とされる「製造物」は、民法適用により有体物と法解釈される「動産」であり、ソフトウェアは無体物である以上、ソフトウェアそのものを製造物責任法の対象とすることはできないとされている。ここで注意すべきは、(日本の)製造物責任法そのものには「動産」を有体物に限定する条文はなく、民法に基づいてそれを有体物に限ると解釈されている点である(製造物責任法第二条第一項 「この法律において「製造物」とは、製造または加工された動産をいう。」)。

なぜこのことを強調するのかと言えば、Johnsonによると、エネルギーといった無体物(より厳密には、無体のエネルギー)は製造物(product)として扱われるからである。実際、高圧ガスという無体のエネルギーは、日本の法律においても、製造物と見なされている。また、高圧ガスはもちろん不動産ではなく動産であろう。とすれば、「製造または加工された動産」を対象とする日本の製造物責任法の条文そのものにおいても、高圧ガスは当該法の対象となるはずである。となると、ソフトウェアそのものが無体物であるということを根拠に当該法の対象外とすることはできないことになる。実際、もしそれを根拠に対象外とすれば、高圧ガスもまた製造物責任法の対象外となるだろう。したがって、ソフトウェアが製造物責任法の対象となるかどうかのポイントは、これもJohnsonが正しく指摘するように、ソフトウェアが有体物か無体物かの区別にあるのではなく、それが「サービス」(service)であるか「製品(製造物)」(product)であるかという点にあることになる。

ここで、サービスとは、一般に、直接的に物質的財貨を生み出す労働以外の労働、と考えられており、このこと自体を本稿では問題にしない。むしろこの一般的な考え方を踏まえて、その考えにおける「労働」の意味を問題にする。

すなわち、教育、医療、観光等、サービスと言われるものの事例を見ればあきらかなように、この種の「労働」はあくまでも「人間が行う知的労働」である。その場合、第一に、ソフトウェアの使用を許可するなどの人間の知的労働をサービスと呼ぶことはできるが、それはソフトウェアそのものが製品ではなくサービスであるということを意味しない。たとえば、遊園地の各種の乗り物の使用許可などを考えればわかるように、何らかの製品の使用を許可することとソフトウェアの使用を許可することとの間に、人間の知的労働の一種であるサービスという点で何か重要な違いがあるわけではない。また、Johnson等のように、一般の市場で量販されているソフトウェアを製品、顧客の注文にあわせてカスタマイズされたソフトウェアをサービスに分類しても、Therac25などの医療機器や、航空機、銀行のオンラインシステム等の基幹産業に用いられる特殊なソフトウェアを大量販売されているソフトウェアとみなすことは難しく、これらについては依然として製造物責任法の対象外となるであろう。従って、もしソフトウェアの欠陥について製造物責任法の適用を念頭に置く場合には、ソフトウェアがサービスであるとされる場合の「サービス」を次のように考えたほうが、ソフトウェアを製品に分類することは容易である。

つまり、過去に、医療の初診を人間に代って行うプログラムELIZAが人間と機械とを同一視する風潮を引き起こしたことを踏まえて、ソフトウェアの「知的なはたらき」が人間の知的労働と混同されていると考えるのである。医療がサービスであるとされるそのサービスの少なくとも一部をソフトウェアプログラムで代用させるという考えの基盤には、制御と通信が動物と機械に共通の原理であるとするサイバネティクスの発想が潜んでいる。この発想のひとつのバリエーションがELIZAであり、ソフトウェアをサービスとして分類せしめている、と考えるのである。

このような考え自体が実際に正しいかどうかは別として、仮にこの考えが正しいとすれば、ソフトウェアの知的はたらきと人間の知的労働とは、次の点で明らかに異なるので、ソフトウェアをサービスに分類することは間違っていて、むしろ製品に分類するほうがより適切であるという結論を引き出すことができる。どういう点でソフトウェアと人間とは異なっているのかといえば、ソフトウェアは、何か不測の事態が起こった時に、予め組み込まれているアイデア以外のアイデアを自ら生み出すことはできないのに対して、人間にはそれができる。不測の事態への対応能力や判断力という点で、ソフトウェアと人間とは明確にことなっているということである。

こうして、ソフトウェアプログラムの行う知的なはたらきを人間の知的労働と同一視することは適切ではく、むしろ、それはあくまでも人間の知的労働の「所産」(product)として、製品に分類するのが適切である。この考えに基づけば、従来の考え方とは異なり、ソフトウェアの組み込まれた製品や量販されたソフトウェアだけでなく、そもそもソフトウェアそのものを製品と見ることができるため、それを製造物責任法の対象とすることが可能になる。サービス概念を私なりに見直すことにより、ソフトウェアそのものを製品とする見方を提出したということである。



補遺
ソフトウェアを製造物責任法の対象とするか否かが論じられる際には、しばしば、次のような議論がおこなわれる。すなわち、ソフトウェアがフロッピーディスクに記録された場合には当該法の対象外となるが、CD-ROMに記録された場合には当該法の対象になる、あるいは、フロッピーやCD-ROMに記録されたものは対象にならないが、マイクロチップとして組み込まれた製品なら対象になる等々の議論である。

だが、こうした基準設定の仕方はあきらかに恣意的である。このような基準の決め方が不毛であることを理解するために、次の例を考えてみよう。

まず、一円を小銭であるとしよう。一円が小銭なら、それに一円加えた二円も小銭である。すると、三円も小銭、四円も小銭、・・・百万円も小銭、一億円も小銭、世の中のお金はすべて小銭で、大金などない。

これは、いわゆる「質量転化の誤謬」という、有名な誤謬の例である。 つまり、「一円」、「二円」という「量」の問題を、「小銭」、「大金」という「質」の問題と取り違えた、いわば「カテゴリー・ミステイク」を犯したことに起因して、上述のようなパラドキシカルな結論が導かれるということである。この例で言わんとしているのは、大金か小銭かという「質」の問題は、一円、二円という金額(量)を見る人によって変わる、その意味で恣意的な問題であるということである。この恣意性が、以下のように、ソフトウェアの議論に現れているように思われるのである。

まず、上の例では「質」と「量」というカテゴリーが扱われているが、ソフトウェアの議論の場合には、これが「サービス」と「製品」というカテゴリーとして現れていると見ることができる。すなわち、フロッピーなら製造物責任法の対象にはならないがCD-ROMなら対象になるという場合には、「ソフトウェアが記録されたフロッピー」は、「製品(製造物)ではない」という意味で、ソフトウェアそのものと同様「サービス」に分類されたと見ることができる。これはつまり、100円なら小銭だが101円なら大金である(フロッピーなら製造物ではないがCD-ROMなら製造物だ)というに等しい。以下同様に、CD-ROMは対象外だがマイクロチップ製品なら対象になるという判断においては、101円なら小銭だが102円なら大金である、という判断に相当する判断が行われている。

このように、どのような媒体に記録されるかによって製造物責任法の対象を決めるという判断の仕方は、「質量転嫁の誤謬」同様、「サービス製品転嫁の誤謬」以外の何ものでもない。その意味で、この種の議論は、不健全な議論であると私には思える。

要約や論文の中で述べたように、私に言わせればそもそもソフトウェア自体が製品なのだから、この考えに基づけば、こうした「サービス製品転嫁の誤謬」は起こりようがない。言い換えれば、ソフトウェアそのものをサービスと見る誤謬によって、このような転嫁の誤謬があらたに生じ、その誤謬に基づいて、製造物責任法の適用対象が議論されているというのが、ソフトウェアに関する製造物責任法適用対象を巡る議論の現状であるという言い方もできよう。
by matsuura2005 | 2005-07-14 08:40
リンク集
essay
哲学倫理学電子ジャーナルリンク集
医療倫理系電子ジャーナルリンク集
(以上、旧HP (essayは、一部、新ホームページ内容と重複しています))

文献検索、ギリシア語フォント、テキストetc.リンク集(旧HPからの更新(05/08/12))
by matsuura2005 | 2005-07-14 08:00 | リンク集
その他
学術系ブログ
試験前
ブログのオリジナルスキン
古代ギリシア語で読むハリー・ポッター
医療学セミナー
拙著の出版
哲学授業の「レポート」評
ちょっと一息
携帯からの閲覧
匿名掲示板
「4月20日拙著出版」と「多摩哲学会発表」
「プラトン形而上学の探求」刊行
Platon PLUS とステファヌス版
サッカーとポストモダン?
売れはじめた?
The Play of Character in Plato's Dialogues
多摩哲学会と東北哲学会
韓国で『プラトン全集』出版
ほっと一息: 今頃 synergy
by matsuura2005 | 2005-07-14 07:17 | その他
生命倫理学講義

 1. 導入(工事中)
 2. バイオエシックスの誕生と展開
 3. パーソン論
 4. 義務論と功利主義
by matsuura2005 | 2005-07-14 05:40 | 生命倫理学講義
学術系ブログ
「学術系ブログの情報サイト」の開設

学術系ブログというカテゴライズの仕方があったということを、私は知らなかったので、このサイトの開設に何か勇気づけられた気がしました(管理人さん、リンクを貼っていただいて、どうもありがとうございました)。
上記ブログの「このサイトの目的」でも一部触れられていますように、ブログというのは、情報の保存、発信、双方向型議論の可能性、簡単に投稿できる(特別なソフトや知識は不要)、といった側面に目を向ければ、研究や教育等、学術目的の活動のツールとして、かなりの可能性を秘めていると思います。しかし、確かに、まだ、「市民権」を得ているとは言えないようです。「ブログであるという理由だけで軽視されかね」ない状況がないとは言えないでしょうから。

ちなみに、少し話はズレますが、ブログに関して最近読んでいる本の中に、ブログにも大別して「ダイアリー型ウェブログ」と「データベース型ウェブログ」という二種類あるという話がありました(山下、川浦、川上、三浦『ウェブログの心理学』、NTT出版、2005年3月、67ページ、117ページ等)。

ダイアリー型の方は、「日付け単位で個人的な事実を記録することに重点を置く」、「自己開示とそれにもとづく相互交流サイクルを重視する」等の特徴があるとされ、他方、データベース型の方は、「トピック重視で、より社会的事実の記録に重点を置く」、「情報提供とそれにもとづくコミュニティーでの知識共有サイクルを重視する」等の仕方で特徴づけられています。ただし、もちろん、「この二つのタイプに明瞭に区別されるものではなく連続的な総体としてとらえられる」とあります(68ページ)。

私が自分のブログ(ウェブログ)を見てみると、どちらかというとデータベース型なのかなと思いますが、それでも、やはり、そう単純に割り切れるものではなさそうです。自分が日付単位ではなく書いている(かなり間隔を置いて書いている)こと、特に研究ノートやエッセイなどは、「社会的事実」というよりはむしろ「個人の意見」に近いものを書いていることになるのでしょうから、その意味では、「日付単位ではなく個人的事実を記録している」ということになるのでしょう。しかし、そうする中で、ある特定の専門分野の中での共通の話題について触れているとすれば、その意味では、同時にまた一種の「社会的事実」を記録しているということにもなるのでしょう。

ブログというものがどういうものなのか、私にはまだよくわからないわけですが、何であるかがわからなければ使えないというものでもありませんし(それが「ツール」というものでしょう)、一般的なネチケットを守りさえすれば、こういうふうに使わなければならないというルールがあるわけでもないのでしょうから、当分は、このブログを使っていきたいと考えています。もちろん、このツールをより効果的に使うために、ブログの持つさまざまな性質についても考えていきたいと思っています。
by matsuura2005 | 2005-07-13 07:42
試験前
定期試験の季節になりましたね。

More
by matsuura2005 | 2005-07-10 22:30
ブログのオリジナルスキン
最近、論文や研究ネタがほとんどで、少し疲れたので、ブログのスキンをいじってみた感想を書きます。
そもそも純粋なHPからブログにHPを移したのは、家にいようと研究室にいようと、外出先であろうと、どのパソコンからでもまったく簡単に自分のHPの内容を更新することができるからということでした。FetchやCyberduckその他のFTP転送ソフトを使って自分のレンタルサーバ(?)にアップする場合には、環境的に、どのパソコンからでもというわけにはいきにくいですから。もっとも、そうは言っても、結局、書くのは家にいる時なんですけどね。

ともかく、このブログを借りてHPを作っているうちに、exciteの提供しているデフォルトのスキンをそのまま使うより、多少でも自分なりにアレンジしたいと思うようになりました。当分はmatsuura2005というオリジナルスキンを使うことになるでしょうね。

ブログの利点の一つに、スキンを変えれば、それまでにアップした記事すべてにそれが適用されるため、一度にすべての記事の体裁を変えることができるということがあります。単に私がHP作成にうといだけで、通常のHPでもそういうことができるのかもしれませんが、ともかく、自分でHPのレイアウト等を(無料テンプレートを拝借しながら)作っていたときには、そのHP全体のレイアウトを変えようとすると、それまで書いたページのすべてをいちいち手作業で新しいレイアウトにしなければならなかったのです。そのことを考えると、スキンというのは一回変更すれば、後は全部機械任せにできるので、そういう意味で、便利だと思いました。
by matsuura2005 | 2005-07-01 02:21