管理人 : 松浦明宏
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業績表
業績一覧(含近刊予定)

(1)著書・論文

古代ギリシア哲学関係

著書
『プラトン形而上学の探求  - 『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教 -』
 東北大学出版会、2006 年 4 月 20 日
概要
プラトンの著作内容に関する有名問題の一つに次のことがある。すなわち、プラトンは、著作のほとんどを対話篇という一種の戯曲形式で書き、その中でソクラテスをはじめとする登場人物たちの口を通して、イデア論という、一般にプラトンの主要学説とされるものを語らせているが、プラトン自身はイデア論が自分の主要学説であることを著作のいかなる箇所でも保証してはいないということである。それどころか、プラトンは、一般に真作と見なされている書簡や対話篇の中で、「書かれた文字」に対する不信を表明しており、他方また、プラトンのもとで長く学んだアリストテレスの講義ノートの中には、プラトンの対話篇には見られずに、プラトンが口頭でのみ教えられたと想定される学説(不文の教説)が報告されている。これらを考慮するとき、プラトンは自分の思想の核心を対話篇の中には書かなかったとみるのが妥当であると考える研究者たちが現れるのも不思議ではない。私も或る意味ではその立場に立つ者として、本書において、その「書かれなかったこと」をめぐって、『ソフィステス』におけるディアレクティケー(哲学的問答法)の秘教的要素を考察した。本書の最大の特徴は、『ソフィステス』において従来その具体的な内容が不明であった「ある」、異、同、静、動という五つの「最重要類」(メギスタ・ゲネー)を、ディアレクティケーという真理探求法の成立根拠(253c3 aitia)として明らかにしたことである。これは、P.M.シュルの言う「試し」解釈、すなわち、プラトンは、対話篇の中で謎をかけたり示唆を与えたりすることによって、読者がプラトンの真意を読みとることができるかどうかを試しているという解釈を、『ソフィステス』におけるディアレクティケーの成立根拠について具体化したことを意味する。これにより、アリストテレスの報告「不文の教説」に見られる「不定の二」やプロティノスの「質料」のより具体的な内容が、分割の成立根拠と解される「異」ならびに「あらぬもの」(to me on)として、プラトンの対話篇の中に見いだされたことになる。


学位論文
 「プラトン『ソフィステース』篇における問答法とその原因に関する一考察」
   博士(文学)、東北大学、1999 (平成 11 )年 3 月 25 日
概要
従来、プラトンのイデア論は、真理探究法である問答法(ディアレクティケー)と別々に考察される傾向が強かった。本稿では、イデアの中でも最高位に位置づけられる五つの諸類(「ある」、「異なり」、「同一」、「静止」、「動き」)が、ディアレクティケーの成立根拠(原因)であることを指摘し、イデア論とディアレクティケーとの間に具体的なつながりを見出すことを試みる。


学術論文
「「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-」
    『パレーシア』第2号、多摩哲学会、
    2008(平成 20 )年 3 月、57 頁 - 86 頁
概要
プラトンの『ソフィステス』においては、「あらぬものがある」等の仕方で「ある」と「あらぬ」との結合を前提する虚偽や像の成立が示されている。これは対話篇主人公のエレアの客人がソフィストを像づくり術者としてする際に、ソフィストの側から「ある」と「あらぬ」との結合を許さないパルメニデスの教説が引き合いに出されたことをきっかけとして、エレアの客人がその結合を立証して見せることによって、ソフィスト定義に成功するとともに、そのことを通じて、著者プラトンがパルメニデス流の絶対静止の哲学から現象世界を救うという意味も含まれていると考えられる。こうした「ある」と「あらぬ」の対について、エレアの客人は次のように述べている。
「『ある』と『あらぬ』とが共に等しくアポリアに与っている以上、今や期待できるのは、それらのうちの一方が、比較的曖昧にであれ比較的明瞭にであれ、姿を現すのに応じて、他方もまたそのように姿を現すということである。他方また、われわれがそのどちらをも見ることができない場合でも、われわれにできる限りの立派な仕方で、両者の間を通って同時に議論を進めることになるだろう。」(Sph.250e6-251a3)
本稿では、この発言に見られる「ある」と「あらぬ」との対を対話篇中核部の「形相相互の結合」と「異の部門」の議論に定位して解釈し、「異の部門」末の「あらぬ」のエイドスを像の成立基盤として見いだす。


「思考の中の感覚 −Plato Theaetetus 152-186−」
    『フィロソフィア・イワテ』第35号、岩手哲学会、
    2003(平成 15 )年 11 月 15 日、12頁-24頁
概要
プラトンの『テアイテトス』篇においては、「知識とは何か」という問題をソクラテスが吟味する。ソクラテスがこの問題を登場人物のテアイテトスに問いかけると、テアイテトスは、まず、「知識とは感覚(と同じ)である」と答える。テアイテトスのこの答えは、テアイテトス自身が「感覚」という言葉を「身体的感覚」の意味に理解していたため破綻するが、破綻する直前にはそれを「知性的感覚」(物事の本質を見極める感覚)として読み取るよう、プラトンが単純な推論の形で示唆を与えている。すなわち、ソクラテスの口を通して「或る人」(おそらくプラトン自身)の感覚知識論が語られ、その中で「比較考量の中に知識がある」とされる。そして、この見解にテアイテトスも同意する。ところが、テアイテトス自身の立てた定義は「知識は感覚と同じである」であった。したがって、先の同意事項と自身の定義とから推論すれば、当然の帰結として、「比較考量の中に感覚がある」が導かれなければならない。そして、この知性的感覚を知識と置けば、知識とは感覚であるという定義は保持されることになる。なぜなら、定義破綻が決定したのは、テアイテトスが「見る、聴く、嗅ぐ、冷たがる、熱がる」という身体的感覚のみを感覚と呼ぶとソクラテスに答えたためだからである。そのように答えずに、比較考量といった思考の中にも感覚はあると答えていれば、思考においては、「ある」をとらえ「真」に触れるというその箇所で示される知識の二条件を満たす以上、その種の感覚も知識の二条件を満たす可能性が残されたはずである。しかし、テアイテトスはそうしなかった。これが定義破綻の真の理由である。私の知る限り、従来のすべての研究者は、感覚という言葉の意味を、テアイテトス同様、身体的感覚の意味に解してきたため、不適切な解釈に終始してきた。しかし、本稿によって、知性的感覚を読み取るための推論がテキストの中に見出された。この点に本稿の独創性がある。


「大ヒッピアス篇における『視覚と聴覚を通じての快』について」 
    『倫理学年報』第五十集、日本倫理学会、
    2001(平成 13)年 3 月 30 日、3 頁〜18 頁
概要
プラトンの対話篇においては、主題となる事柄についての定義が試みられることがよくあるが、提出された定義が反駁されたまま対話篇が終わることが多い。『大ヒッピアス』においては美の定義が試みられ、やはり反駁されたまま終わっている。本稿では、「視覚と聴覚を通じての快が美である」という第七定義が破綻するアポリアについて、これを視覚と聴覚という言葉の二義性に着目して解消することを試みた。この定義が破綻した経緯は次の通りである。まず、探求されているのは、あらゆる美しいものに備わる普遍的な「美の基準」である。ところが、「視覚と聴覚の両方」という共通性は美の基準たりえない。というのも、この共通性は、例えば「視覚を通じての快」には備わっておらず、普遍的ではないからである。視覚対象(色)と聴覚対象(音)とが異なる以上、「視覚を通じての快」が「聴覚を通じての快」を含意するわけではない。それゆえ、「視覚を通じての快」に「視覚と聴覚との両方」という性質は備わっておらず、普遍的ではない。だが、私見によれば、テキストの示唆に従って視覚と聴覚を思考の働きと解した場合、「視覚を通じての快」はイデアを見ることを通じての快となり、「聴覚を通じての快」は理を聴くことを通じての快となる。そして、イデアを見ることと理を聴くこととはプラトンにとって同義であり、この場合、「視覚を通じての快」は「聴覚を通じての快」を含意する。すると、「視覚と聴覚の両方」という性質が「視覚を通じての快」に備わっていることになり、第七定義は成立する。要するに、定義が破綻した真の理由は、視覚と聴覚という言葉の意味を身体機能と解したことであり、これを思考機能と解すれば定義は破綻しないわけである。私の見るところでは、プラトンは、第七定義破綻によって、思考の働きとしての視覚や聴覚に読者が自分で気づくよう示唆しているのであり、その意味で、プラトンの対話篇に見られるアポリアはプラトン哲学へ入門するための試験の一種であると解するP.M.シュルの「試し」解釈には一理ある。。


「「美とは何か」と「何が美であるか」-『大ヒッピアス』287d-e-」 
    『東北哲学会年報』No.16、東北哲学会、 
    2000(平成 12)年 5 月 31 日、1頁〜14 頁
概要
プラトンの『大ヒッピアス』篇においては「美とは何か」が主題となる。ソクラテスのこの問いかけに対して、登場人物のヒッピアスはまず「美しい乙女が美である」と答え、これがこの対話篇における美の第一定義とされる。在来解釈はこの問答について、ソクラテスは、すべての美しいものを美しくあらしめている共通普遍の原理を答えるよう要求したのにヒッピアスは美の個別事例を答えた、と理解している。しかし、私の見るところでは、この在来解釈は論点先取の誤りを犯しており、ソクラテスとヒッピアスとの理解の違いは、真実在(アレーテイア)と思惑(ドクサ)の違いに還元されると考えられる。


「『ソフィステース』篇における二つの「ある」-Plato Sophist 255c-d-」
    『哲學』第50号、日本哲學会、 
    1999(平成 11 )年 4 月1日、185頁〜194頁
概要
本対話篇中央部で言及される「自体的に語られるある」と「他のものとの関連で語られるある」については、従来、「存在」と「コプラ」の区別等、多くの解釈が提出されてきたが、プラトン以外の典拠に依存し文脈を説明できない等の難点を抱えている。そこで本稿では、対話篇両端部に見られる「分割と総合の方法」に着目し、総合の過程に現れる「ある」を「自体的に語られるある」、分割の過程に現れる「ある」を「他のものとの関連で語られるある」と解した。総合とは、多くの事物を見渡してそれらに共通する一つの特徴を見出す過程であるが、見方を変えれば、これは分割の過程でもある。たとえば、「多くの人々」に共通する「男性」という特徴を把握するためには、既にその「多くの人々」が「それ以外の人々」から区別されていなければならず、逆に、その「多くの人々」を「それ以外の人々」から区別するためには、既に男性という特徴が把握されていなければならない。この意味で、総合と分割は事柄としては同じ一つの活動であり、むしろその一つの活動の二つのアスペクトと解されるべきである。では、総合と分割の違いはどこにあるのかと言えば、次の意味での「関係」が想定されているか否かという点にある。すなわち、分割は、例えば、A は、男性であるという点で、Bと同類であり Cと同類ではない、という仕方で行われ、ここには、或る集団の個々の構成員同士の関係が想定されている。他方、総合は、A にも B にも「男性」という特徴が「内在」している、という仕方で、個々の構成員に同じ一つの特徴が内在していることを把握する活動であり、この時には個々の構成員同士の関係は想定されていない。従って、もし分割に現れる「同類である」という意味での関係性の「ある」を件の「他のものとの関連で語られるある」と解すれば、これを当該箇所付近で言及される「(DはEと)異なっている」と関連づけることができ、他方、総合に現れる「ある」(内在)は、分割における関係性の「ある」ではないという意味で、「自体的に語られるある」と解されるため、文脈整合的に当該の二つの「ある」を解釈できることになる。


「プラトン『ソフィステース』篇における問答法について -253d-e 再考-」
    『西洋古典学研究』XLVI、日本西洋古典学会、
    1998(平成 10)年 3 月 23 日、33頁〜43頁
概要
本対話篇においては、その両端部でソフィストを定義するために「分割と総合の方法」と呼ばれるディアレクティケー(哲学的問答法)が実践されている。総合とは、例えば、多くの美しい事物を見渡すことによって、美のイデアという、それら美しい事物を美しい事物たらしめる一つの原理的存在を見出すプロセスのことである。他方、分割とは、例えば、人間を男性と女性とに分けるという仕方で、或る一つの類を自然本来の分節に従って二つ以上に区分することである。これら二つの方法を用いて、ソフィストを他の類から次々と選り分けていき、ソフィストの真の姿を見極めようというのが、この対話篇の基本テーマである。ところが、その探求活動の途中でソフィストを像づくり術に分類しようとした時、ソフィストから次の反論が現れる。すなわち、像というものは、「本当は〜ではないものが〜である」という仕方で、「ない」が「ある」と結合することを前提しているが、これは「ないものはない、あるものはある」というパルメニデスの説に反する。それゆえ、ソフィストを像づくり術に分類したければ、まず「ない」が「ある」と結合することを立証しなければならない、という反論である。こうして、対話篇中央部ではその種の結合を確認するための議論へと移っていくが、この移行を一つの理由として、研究者の間では、対話篇の両端部と中央部とを別々に解釈することが慣例となっていた。だが、私見によれば、この慣例は不適切である。というのは、ソフィスト定義という真理探求が意味を持つためには、探求対象であるソフィストの固有の本性が同一性を保って成立していなければならないはずであり、プラトンはその同一性を念頭において他の類からの識別を行っているはずである。他方、対話篇中央部において上記結合関係が論じられる際にも、各々の類の同一性と差異性による識別に立脚して議論が進められている。従って、プラトンは対話篇の中央部においても両端部においても同一性と差異性に基づく識別を行っており、この点で両端部と中央部とを関連づけることができる、というのが本稿の主旨である。


 「イデアは動くのか?」
    『思索』第二十九号、東北大学哲学研究会、
    1996(平成8)年 9 月 30 日、21頁〜42頁
概要
プラトンのイデアの存在性格の一つに恒常不変性がある。だが、プラトンの対話篇の中には、プラトン自身がイデアに動きを認めていると思われる箇所がある。その箇所を典拠にして、プラトンはイデア論を放棄したのだと考える解釈者もいる。だが、プラトンは、イデアに恒常不変性を保持しつつ、しかもなお、それに動きを認めるという、パラドキシカルな仕方で、イデア論を保持・展開していると見られる。プラトンにとって真実在は、思考の対象としては静止という側面を持っていなければならず、しかもなお、それには魂という動の原理が備わっていなければならないという意味で、「静止と動きの両方とも」でなければならなかったのである。このことを論理的に示すことを試みるのが本稿のねらいである。



応用倫理学関係

学術論文
「コンピュータ技術者の責任 ー賠償責任なしの所有権ー」
  『モラリア』第 11 号、東北大学倫理学研究会、
  2004(平成 16 )年 10 月 15 日、99 頁 - 130 頁
概要
本稿は、コンピュータ・ソフトウェアにまつわる「賠償責任なしの所有権」の問題を検討する。ソフトウェアの使用許諾契約においては、著作権や特許などの形で所有権が主張される一方で、ソフトウェアの使用・購入により生じた損害等については一切の責任を負わない旨、免責条項が付される。こうした形で所有権と免責とを同時に主張することに非難のまなざしを向けることは容易だが、単にそうした非難を向けるだけでは、何も解決することはできない。そこでまず、上記の問題の背景をさぐるために、コンピュータ・エシックスの歴史を振り返り、ソフトウェア所有権の問題を瞥見する。そして、コンピュータ・エシックスに関わりの深い責任概念、製造物責任法等の法律や在来研究者の指摘を踏まえた上で、次のように結論する。すなわち、当該問題の根には、「サービス」と「製品」という概念区分の問題やコンピュータ技術の特異性の問題があり、これらを考慮すると、ソフトウェアをサービスと見るよりはむしろ製品と見ることがより適切である。そうした見方を受け入れて、ある種のソフトウェアについては厳格責任(strict responsibility)を負うことで、社会的な責任を担うことが、これからのコンピュータ技術者に求められる積極的責任である。


「医学教育における「隠れたカリキュラム」」
 『臨床倫理学』No.3、臨床倫理検討システム開発プロジェクト、 
  2004 (平成 16 )年 3 月 31 日、90 頁ー100 頁
概要
医学教育における「隠れたカリキュラム」(hidden curriculum)の問題は、現行の医学教育制度の中で倫理教育が依然として十分な機能を果たし得ていないことの根幹に位置づけられる。この「隠れたカリキュラム」がまず医療従事者間の望ましいあり方を損ない、それが医療者−患者関係の望ましいあり方を損なうことにつながり、医療の質を低下させる主な要因の一つになっている。従って、もしわれわれが、医療の質の改善を目指すならば、この「隠れたカリキュラム」の問題を検討する必要がある。そこで、本稿では、ハフェルティー ( 1998 )とスターン ( 2000 ) 等の考えを踏まえた上で、当該問題の解決に向かうには、第三者機関の介入をも視野に入れることが有効なのではないかと論じる。


 「医療者と患者との信頼関係 −哲学者の役割とは何か」
   『モラリア』第九号、東北大学倫理学研究会、
  2002(平成14)年 10 月 15 日、74頁〜104頁
概要
医療という専門技術者の集団に哲学・倫理学者が関わることはどのような意義を持っているのか。哲学・倫理学者は、医療者たちにとっては、口であれこれ指示するだけで自分では実際には何もできない「バックシート・ドライバー(後部座席に座って実際の運転手にあれこれ指示を出す人)」なのではないか。あるいはバックシート・ドライバーの存在にも何がしかの意味はあるのか。この問題を根本モチーフとして、本稿では特に、医療者と患者の信頼関係構築に哲学者がどのような役割を果たしうるのかを考察した。そのためにまず、欧米の看護分野における研究者たちの信頼概念調査を踏まえた上で、哲学者アネット・ベイアーの信頼概念規定や道徳的信頼関係の「試金石」を概観し、そうした規定や試金石が、どの程度まで実際の医療現場に影響しうるかを、私自身が患者であったときの実体験に基づいて吟味した。


「ピーター・シンガーの医療過誤論と隠れたカリキュラム 
 -原理に基づく倫理学と性格倫理学-」
  『臨床倫理学』No.2、臨床倫理検討システム開発プロジェクト、
   2002(平成 14 年)8 月 31 日、70頁〜78頁
   (『モラリア』第八号(2001)掲載論文の増補版)
概要
下記論文の出版時期にタヴィストック原理が改訂されたため、その改訂版の概要紹介を補論として加えるなどの増補を行った論文。


「ピーター・シンガーの医療過誤論と隠れたカリキュラム
 -原理に基づく倫理学と性格倫理学-」
   『モラリア』第八号、東北大学倫理学研究会、
   2001(平成13)年 10 月 15 日、59頁〜74頁
概要
ピーター・シンガーは、医療過誤の問題を解決するにあたって、近年提案されたタヴィストック原理 - 英国医師会会報編集者等が中心となって各国要人をロンドンのタヴィストック地区に集めて提案した間職業な倫理原則- を適用すればよいというやや単純な仕方で考えているように見受けられる。しかし、医学教育においては、教師の教え方やその教育機関の習慣・雰囲気など、医学教育の文化によって、学生の性格形成に不適切な影響を与えることが指摘されている(医学教育における隠れたカリキュラム)。したがって、医療過誤問題に適切に対応するには、原則適用型の教育だけでなく、学生の人格形成に注目した教育をも行っていく必要があると思われる。



地質学関係

学術論文
  A new method for quantitative representation of zircon morphology,
  Neues Jahrbuch für Mineralogie, Monatshefte, 1989, H.7,
  Schweizerbart, Stuttgart, Juli 1989, 309-319
       AOKI Yoshikazu (青木義和)との共著
       九州大学地質学科卒論に基づく縮約版英語論文



(2)翻訳

  Jos V. ウェリー著 『苦しみを目の前にして』 (近刊予定)
   (Jos V. Welie, In the Face of Suffering, Creighton U.P., 1998) 


(3)書評・文献紹介

  「臨床倫理をさらに学ぶために」〔文献紹介〕
    『緩和ケア』 Vol.15 No.2、青海社、2005 年 3 月 15 日、122頁 - 124頁
概要
『緩和ケア』誌当該号の特集「緩和ケアにおける臨床倫理 –身近なルールを考える」の一部として企画された文献紹介。本特集等により臨床倫理をさらに学びたいと考える人たちの手引きとして好適な近年の邦語文献を紹介した。


  Noburu Notomi, The Unity of Plato's 'Sophist'
  BETWEEN THE SOPHIST AND THE PHILOSOPHER,
  Cambridge U.P.,1999)
    第36回ギリシア哲学研究会、2000(平成 12 )年 7 月 22 日、
    於都立大学
概要
納富信留慶応義塾大学助教授(合評会当時は九州大学助教授)の英書書評会における発表原稿。納富氏はケンブリッジ大学古典学部でPh.D.を取得し、そのPh.D.論文をもとに書かれたのが表記の英書である。書籍タイトルやその副題に示唆されているように、納富氏は、本書において、ソフィスト定義と哲学者定義が同時に成立すると主張している。この主張の論拠として、氏は、プラトンがこの対話篇の中で提示している二つの箇所を提出する。(1)「ある」と「あらぬ」は同時に明らかになる。(2)哲学者は「ある」に関わり、ソフィストは「あらぬ」に関わる。つまり、氏は、哲学者は「ある」に関わり、ソフィストは「あらぬ」に関わり、かつ、「ある」と「あらぬ」は同時に明らかになるので、哲学者とソフィストとは同時に明らかになる(同時に定義される)、と主張しているわけである。だが、プラトンのテキスト(1)の趣旨は、「あらぬ」は或る意味で「ある」ということであり、したがってまた、納富氏は、「ソフィストは或る意味で哲学者であり」、哲学者の類とソフィストの類とは混じり合うということを示していることになる。この点で、納富氏の議論は不適切である。このことを主要な論点として指摘したのが本発表である。なお、この発表への応答が、氏の英書の和訳書『ソフィストと哲学者の間 プラトン『ソフィスト』を読む』(名古屋大学出版会、2002年)の補論二において行われている。

by matsuura2005 | 2005-04-30 16:30 | 業績表
プロフィールとアバウト
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学者(の卵)です。
オリジナルなものを作ることを目指しています。
それが私の場合は、今のところは、論文です。
子供のいない私にとって、論文が子供のようなものかもしれません。


もともとは理科系の人間で、理学部の地質学科で鉱物学を勉強していました。
その後、一旦社会へ出たものの、半年で哲学へ転向し、今に至っています。

しばらく古代ギリシア哲学、特にプラトンを勉強してきましたが、
最近は、臨床倫理学にも興味を持つようになりました。
奥の深い学問で、それが学問であると同時に学問であってはならない、そういう性質の学問のような気がしています。

上の写真は、Liddell & Scott というギリシア語辞典を舞台として、その舞台上で演奏するウサギの音楽を無垢な犬だけが聞いている、というセッティングで撮った写真です。古代ギリシア哲学者プラトンの語る美しい言葉を、この犬のように無垢な気持ちで読んで行きたいという意味が込められています。本当に美しいものは、犬のように純真な気持ちで見なければ、見ることができないのかも知れません。別に犬でなくてもかまわないのですが・・・。

このページでは、古代ギリシア哲学と臨床倫理学以外の内容も掲載していきます。情報倫理、ビジネスエシックスなど、現代社会と関わりの深いことがらに、自分なりに積極的にチャレンジしていこうと思います。
by matsuura2005 | 2005-04-30 15:42 | プロフィール・アバウト
覚え書き - 徳の明証性 -
徳の明証性ということについて、よくわからなくなったので、とりあえず、覚え書き風に書いておいて、後に何か考える時の材料にしようと思います。
まず、論理(学)的・分析的明証性ということについて少しだけ考えてみます。論理的明証性という言葉や分析的明証性というような言葉があるのかどうかはわかりませんが、とにかく、何がしかの論理法則にしたがって、いくつかの前提から推論・計算して結論を導きだし、その推論の一連の過程を通じて、何か或る事柄が「明らかになる」という場合のその明らかさは、論理的な明証性と言うことができるかもしれません。或る事柄に説明を加えることによって初めて明らかになる(はっきりとわかる)という場合も、この種の明証性の部類に入れることにします。

しかし、明証性というものには、これらだけではなく、たとえば、自明性という意味での明証性もあるように思います。何も説明しなくても、何も推論しなくても、それだけで既に明らかだと思えるような事柄です。

美や徳というのは、説明されることによって明らかになるという場合もないわけではないのでしょうが、どちらかというと、説明などされなくてもそれとわかるもののことであると考える場合の方が多いのではないでしょうか。つまり、何かが美しいものであるということは、論理的に説明された後で、初めてそれが美しいとわかるというよりはむしろ、何も説明がなくても、何かを見ただけで直ちにそれが美しいとわかるということです。

徳の場合にも、たぶん、美の場合と同様なのではないかとも思えます。この人のこの行為は、かくかくしかじかの理由により有徳な行為であり、あの人のあの行為は、かくかくしかじかの理由により悪徳行為である、という仕方で、理由を説明された上で有徳か悪徳かが判定されるということが、特に最近の倫理学では多いように思いますが、もしこうした仕方で有徳・悪徳を判定することに何かしっくりこないところがあるとすれば、それは、徳の明証性を、自明性としての明証性よりはむしろ、論理的・説明的な明証性に基づいて考えようとしているというところにその理由があるのかもしれません。

わたしたちが、あの人はいい人だという時の「よさ」、あの人は人徳があると判断するときの徳というのは、ひょっとすると、理由を説明された上で初めて明らかになる(わかる)ものなのではなくて、美の場合と同じく、説明ぬきに有徳であると思える種類の明証性を持ったものなのかもしれません。

ゼミで徳倫理学で何か発表しろと言われているので、このあたりを突っついてみようかな。
by matsuura2005 | 2005-04-28 00:15
実物と映像(3) 自己知と想起
昨年の4月に「実物と映像」シリーズを初めて以来、二回書いただけで、しばらくこのテーマについて忘れていましたが、
最近、自己知に関する本を読んでいたところ、実物と映像というテーマは、自己知の問題とも重なる部分があると思うようになりました。
わたしたちは厳密には自分自身の姿を決して見たことがないにもかかわらず、なぜ、鏡に映った像を自分の像であるとわかるのか、という問題がありますが、この問題は、或る種の自己知の問題であると同時に実物と映像の問題でもあり、後に触れるように、イデア想起とも密接に関わっているように思えます。

まず、次の例を考えてみてください。幼児は、鏡に映った親の像が口を動かすと同時に自分の後ろから親の声が聞こえると、その鏡像の動きと発声の主との対応付けによってその鏡像が自分の親の像であることを知り、このことから、親の鏡像と一緒に映っている鏡像が自分自身の像であることを知る、ということは十分にありそうな話です。


もちろんこの例では、自分自身を知ると言っても、自分の身体的な姿についての話であって、自分の内面・心の話ではありませんし、自分だけが映った鏡像の場合も考えなければならないのでしょうが、今は、話を単純化するために、これらの違いをさしあたり無視して考えてみることにします。


さて、もし先の考え方が当っているとすれば、それは、私の見るところでは、類推による自己知の一種であり、たとえば、

他人の鏡像:他人の実物=自分の鏡像:自分の実物

と表現することもできるかもしれません。


この類推を通してその鏡像が自分の像であることがわかるのだとすれば、なぜ鏡に映った像が厳密には自分自身とは異なる姿をしているにもかかわらず、決して見ることのできない自分自身の像であることがわかるのか、ということの一つの説明にはなるかもしれません。とすれば、異なるものから実物を想起するということには、類推ということが密接にかかわっているということになるのかもしれません。


実際、プラトンの『パイドン』(72e−76a)において想起説が語られるときには、おおよそ次のような流れになっています。恋する人々たちは、自分の愛する者がいつも使っていた衣服を見ると自分の愛する者の姿を思い浮かべ、また、われわれは、たとえばシミアスという人の肖像画を見ればシミアス本人を思い浮かべる。これと同様に、われわれは、木材どうしや石材どうしなど、さまざまな等しいものを見て、等しさそのものを想起する。



これらがどのような意味で上記の類推になるのかはっきりしたことは言えないのですが、シミアスの肖像画とシミアス自身との関係や、恋人の衣服と恋人自身との関係の場合には、どちらかというと、先の例で言えば親の鏡像と親の実物との関係に近いところがあり、さまざまな等しいものから等しさそのものを想起するという場合には、自分の鏡像から自分の実物を想像することに近いところがあるように思えます。


というのは、確かに、肖像画や衣服の場合には、今目の前に見えている絵や衣服から、今目の前に見えていない実物を思い起こすという点では、目に見えるものから目に見えないものを想起しているとは言えるけれども、実物を既に何度も目の当たりにしたことがなければそういう想起は起こらないでしょうから。これに対して、等しさそのものの場合には、一度もそれを見たことがなくてもそれを想起しうるのであろう以上、それは自分の鏡像から自分自身の実像を想起することに近いように思えるのです。自分自身の実像をわれわれは決して見ることはできないにもかかわらず、それを自分だと思うというこの点で、まだ一度も見たことのないはずの等しさそのものを想起することと似ているというわけです。


恋人の衣服から恋人自身へという想起や、肖像画から実物へというタイプの想起は、既に経験知として持っているものについての想起であり、これが上記の親の鏡像から実物への想起に相当すると考えられます。この種のいわば経験的想起が雛型となって、この経験的想起からの類推によって、非経験的想起、つまり、自分の鏡像を見て決して見ることのできない自分自身を想起したり、等しいものどもを見てこれも決して見たことのあるはずのない等しさそのものを想起するということが起こるということなのかもしれません。プラトンの対話篇においても、この経験的想起から非経験的想起へという順序で話が進んでいることは重要であると私には思えるのです。その意味で、自分自身の実像を直接見ることができないという点は、イデアを直接知ることはできないことと密接に関わっているように思えるわけです。


ただし、先にも述べましたように、上の例では、自己知は、鏡像・実物とも、身体的なものと見るのが自然ですが、自分自身を知るという時には、身体というよりは自己の内面・心に定位して考えるのが自然であるということにも留意しなければならないと思います。その場合に、汝自身を知れ、思惟の思惟、神、神の似姿、反省、理性といった、哲学上の大問題群が現れることになるのでしょうか。いずれにしても、こうした諸問題をも念頭に置きつつ、自己知や実物と映像の問題を考えていかなければならないことは確かであると思われます。次回は、いつになるかわかりませんが、思惟の思惟や神の似姿という視点から実物と映像の問題を考えてみたいと思います。
by matsuura2005 | 2005-04-24 14:38
哲学講義
 1. 哲学の始まり
 2. 哲学の特徴
 3. 哲学史概観
 4. ギリシア哲学の特徴
 5. イオニア自然学派
 6. ピタゴラス派
 7. パルメニデス
 8. 多元論者
 9. ソフィスト
10. ソクラテス(1) -無知の知、汝自身を知れ-
11. ソクラテス(2) -哲学は死の練習-
12. ソクラテス(3) -知徳一致- ソクラテス(3−2) -知徳一致(2)-
13. プラトン(1)  -プラトニック・ラブ-
14. プラトン(2)  -対話篇の性格-
15. プラトン(3)  -プラトンの生涯-
16. プラトン(4)  -イデア論序説-
17. プラトン(5)  -善のイデア・太陽の比喩-
18. プラトン(6)  -霊魂不滅の証明・ソクラテスの死-
19. プラトン(7)  -美とエロス-
20. プラトン(8)  -イデア論批判-
21. アリストテレスとプラトンとの違い
22. アリストテレスの生涯

23. ナルキッソスの自己愛
by matsuura2005 | 2005-04-23 20:06 | 哲学講義
ギリシア的な幸福とヘブライ的な幸福 -岩田靖夫先生の最近の著作
先日、岩田靖夫先生のご自宅に、小松恵一先生と篠澤和久先生のお供をして、古希のお祝いの品をお届けにうかがいました。
岩田先生の古希お祝いは、約二年前に、神崎繁先生ゆかりの箱根湯本福住旅館で開かれたのですが、その折にはご希望の品が見つからず、その後もひきつづき神崎先生がお探しになっていたところ、知人の方を通じて最近ようやくそれが見つかったというので、神崎先生から篠澤先生が受けとってこられたものをお届けにあがるときに、小生も同行させていただくことができたという次第です。

お茶をよばれながらお話をうかがっているとき、近刊予定の御著書のことが話題にのぼりました。その御著書では、仙台白百合女子大学での御講演内容などをもとにして、岩田先生のこれまでの人生観をまとめて述べる予定であるということでした。あくまでも想像ですが、これは最近岩田先生が次々と御発表なさっている一連の作品、私が拝読させていただいたものとしては、「孤独の突破」、「幸福とは何か」(以上、『仙台白百合短期大学カトリック研究所論集』第七号、二〇〇三年三月)、「人はいかに生きるべきか -驚く、頑張る、交わる-」、「霊性と祈り」、「イエスとサマリアの女」、「希望」(以上、『仙台白百合女子大学カトリック研究所論集』第九号、二〇〇五年三月)、「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(宮本・山脇編、『公共哲学の古典と将来』(公共哲学叢書8)、東京大学出版会、二〇〇五年一月、第一章(一頁—三十七頁))などをまとめて、あらたに書き下ろされたものなのかもしれません。御著書のタイトルについても、今、検討されているということで、『いかに生きるべきか』というタイトルがよいのではないかとお考えのようでした(未だ決まってはいないようです)。

さて、これら一連の御著作を一括して扱うことは必ずしも適切ではないのでしょうが、そこを強引に一括していいますと、少なくとも私には、これらには一つの共通の特徴があるように思われます。それは、「存在欲求(コナトゥス・エッセンディ)の充足」と「人と人との真の交わり」という対照、あるいは、「能力主義・理性主義・競争主義の世界における人間同士の表面的な関わり」と「能力主義や理性主義を超えた世界・存在根拠の世界における人間同士の真の関わり」いう対照であり、この対照が上記の「デモクラシーと幸福」では、アレテー(優秀さ)を発揮することによって自己実現することが幸福であるというギリシア起源の幸福概念から、他者のために自己を献げることが善であるというヘブライ起源の幸福概念へのコペルニクス的転回が必要である、という仕方で表現されているように思えます。

このコペルニクス的転回については、既に「講演会感想「デモクラシーと幸福 −自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元−」」の特に前半部に紹介しましたので、ここでは繰り返しません。以下では、この講演会感想で述べた私見とはまた別の角度から、ふたたびこのコペルニクス的転回について疑問点を述べることにしたいと思います。

ギリシア起源の幸福概念からヘブライ起源の幸福概念への転回という主張について最も疑問が残るのは、ソクラテスのダイモニオンの存在や、岩田先生御自身が共訳されているドッヅの『ギリシア人と非理性』(みすず書房)に見られるように、ギリシアにも理性主義を越えた非理性主義的な要素があるはずなのに、御論文「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(二〇〇五年一月)の中ではギリシャ人の持っていたこの非理性主義的な要素がほとんど念頭におかれていないように見受けられる、という点です。

岩田先生は、ギリシア的な理性主義からヘブライ的な他者との交流への転回の必要性を説くとき、まず、ギリシア的な理性主義について、特にアリストテレスを念頭において、次のように批判的に述べておられます。

「こうして、理性の弱い人々は、自然的な意味でも、倫理的な意味でも、アレテーを実現できず、幸福の圏外に生きなければならない。かれらは、ただ、理性に優れた人々を支えるためにだけ、存在の意味を持つ。アリストテレスは、はっきりそう言っているのである。
こういう考えに対しては、人は、あからさまに口に出しはしないが、抗いがたい説得力を密かに認めざるをえないと同時に、内攻する怒りをも感ずるであろう。だが、どうしたらこの考えに反論できるだろうか。もしも、幸福が「アレテーに即した魂の活動」であるならば、アレテーをどのような意味に理解しようとも、アレテーに乏しい人間に救いはないではないか。だが、人間の本質についてまったく異なった発想が可能なのだ。それによって、幸福のコペルニクス的転回が可能になる。」 (「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」(二十一頁))

このコペルニクス的転回は、人間の本質を「理性的動物」から「他者と交わる存在」(「他者を求める存在」)へと再定義することによって果たされ、後者における「他者」とは何かを問う際に、レヴィナスの他者論が引き合いに出されて、次のように言われます。

「他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすり抜ける者、私の期待を裏切り得る者、私を否定しうる者である。この意味で、他者は無限なのである。・・・「無限」とは「けっして捉えられない」という意味である。限りのあるもの、有限なもの、形のあるものは、理性の把握の圏内に落ちるが、それを超えているから、無限なのである。この事態をレヴィナスは「超越(transcendance)」とも「絶対(absolu)」とも呼んでいる。・・・
こうして、他者は常に私の把握を超える者として、限りなく遠い絶対者であるが、同時に、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者でもある。・・・(他者の)顔は「私を孤独の中に置き去りにしないでくれ、死の中に見棄てないでくれ」、と叫んでいるのである。この叫びに出会うことが他者に出会うということなのである。その時、私は他者の苦しみに逃れようもなく関わりあう。それが、隣人になるということであり、他者の近さの経験の成立ということだ。こうして、他者は限りなく遠いと同時に、限りなく近い、という自己矛盾的構造をもっている。」(同論文、二十三頁 - 二十四頁)

このようにして、レヴィナス流の「他者」をいわば支点として、ギリシア的な理性主義からヘブライ的な隣人主義(?)へと転回され、自己実現から自己奉献へと話が展開する、と考えて構わないように思われます。

ところが、岩田先生の御著書の一つ『ソクラテス』には、ダイモニオンについて、次の記述が見られます。ソクラテスのダイモニオンは、ソクラテスが何か間違ったことを行なおうとするときに、つねに「・・・するな」という禁止・否定命令として現れ、「・・・を為せ」という肯定命令として現れることはなかったとされる何か神的な声であったと言われます。たとえば、ソクラテスが政治の世界に入ることをせず、一生、私人のままにとどまったのは、ダイモニオンの声が政治の世界に入ることを禁止したためであるとされます。

「具体的な行為の状況において、ソクラテスはつねに全き自由と自己責任のもとにおのが行為を発意し、その妥当性を理性的に考察し、それを実行に移したのであり、そこには外部から特定の行為の実行を迫る命令的(権威的)強制などは存在しなかった、ということだ。実際、ソクラテスほどの理性主義者、自由人が、いかにして「為すべきこと」について一々外部から命令を受け取るような他律的人間でありうるだろうか。だが、しかし、ソクラテスのこの自律には時折ダイモニオンからの否定的な制御がかかったのである。これは何を意味するか。それは、ソクラテスの自律が、その理性主義が、その反駁的対話による倫理の基礎付けが、無制限の内在的自立性をもたないこと、逆に言えば、どこまで進んでもソクラテスの理性的基礎付けが「ソクラテスの単なるドクサの限界内」を超越できないこと、それ故に、そのドクサが底の見えない深淵の上に宙吊りになっていること、を、思い知らされるということであろう。」(『ソクラテス』、勁草書房、百七十頁 - 百七十一頁)

それがどのような仕方で思い知らされるのかについては、ハイデガーの「良心の叫び声(Ruf des Gewissens)」を想起することがヒントになるとされます。ハイデガーの言う「呼びかけ」とは、

「「本来的自己」が己へと呼ぶことである。あるいは、「本来的自己」の背後にある「無」としての「存在」が呼ぶことである。それは、いわば、人間が人間であることを自覚する時、感情としてではなく自己の本性の自覚としてわれわれに襲いかかる「無性の意識」とでも言うべきものである。・・・しかし、実は、ハイデガーの語る意味では、ここに、普通人々の言う「良心」というようなものがあるわけでもない。かれの言う「良心」とは、本来的自己としての人間の事実のことなのであり、この事実が己自身を直視せよと言っているのである。」(『ソクラテス』、百七十二頁)

ここで言われる「己自身を直視せよ」とはつまり、デルフォイ神殿の格言「汝自身を知れ」ということであり、その意味で、ソクラテスはダイモニオンの声によって、人間である自分自身の知が、どこまで行っても「無に等しい」ということを思い知らされたということになるのでしょう。ソクラテスの無知の知は、何かこういうものとして捉えることができる、と岩田先生がお考えになっていると見ることができるように思われます。

さて、もし以上の私の理解が正しいとすれば、レヴィナスの他者論における「他者」が、常に私の把握を超える者、限りなく遠い絶対者、無限、超越、と言われているその限りにおいては、ソクラテスのダイモニオンとそれほど隔たったものであるようには、少なくとも私には思われません。ソクラテスのダイモニオンは、つねにソクラテスの理性的思考を否定する仕方で現れる以上、ソクラテスの把握を超える絶対者であり、ソクラテスにとっての「他者」であるということができるように思われるということです。実際、ダイモニオン(to daimonion)という言葉は、「ダイモン的な」(daimonios)という形容詞の中性形に冠詞を付して成立した言葉で、端的に「ダイモン」(daimon)という表現よりは、「なにかダイモンのようなもの」という「なにか不定の捉え難いもの」が表現されているとされています(『ソクラテス』(百七十頁))。その意味で、ソクラテスのダイモニオンは、ギリシア的な「他者」であると思えます。

他方、レヴィナスの「他者」が、「私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者」として、私に限りなく近い者、隣人といわれる時には、ギリシアというよりはヘブライ的な考え方が入ってくるという言い方もできなくはないとは思います。特に、「隣人」という表現についてはそうです。ダイモニオン・超越者・絶対者としての他者と、他人とは必ずしも同じものではなく、その「他人」のことをヘブライ思想の言葉を使って「隣人」と表現することもできる、ということです。実際、ソクラテスが政治の世界に入ることを抑止したのは、政治家の「顔」がソクラテスに「やめてくれ」と訴えかけたわけではなく、弱肉強食、名誉名声、金銭等々、自己の附属物の追求にあけくれ、「コナトゥス・エッセンディー」の権化と化している現実の政治に関わることをダイモニオンが抑止したため、ソクラテスは現実の政治に携わらなかった、と考えても、それほど見当違いではないように思え、だとすれば、隣人としての他者と、超越者・絶対者としての他者とは必ずしも同じではないということになりそうです。

したがってまた、私に呼びかけ、訴えかけ、助けを求める者の顔を蹂躙することを抑止するのは、単に人間としての他者(他人)というよりはむしろ、限りなく遠い絶対者としての他者であり、そこでもやはりダイモニオンの否定的なはたらきが関与している、と考えた方が、少なくとも私には、自然であるように思えます。このように考えた場合には、ダイモニオン・絶対者が個々の人間の「顔」を通してその抑止力を発揮したものが「私に限りなく近い他者」であり「隣人」であるということになるのかもしれません(この考えは私の思いつきなので、キリスト教で言う隣人とは違うのでしょうけれども。むしろ、このことを岩田先生に質問したいくらいです)。

したがってまた、ハイデガーの「良心」についても、もしそれをダイモニオンとのつながりで理解しようとするならば、本来的自己の背後にある「無」としての「存在」をダイモニオンと捉え、これが、「コナトゥス・エッセンディー」の実現をはかる者としての自己、つまり、自己の附属物ばかり追求する者としての自己から、本来的自己(無知なる自己)へと立ち返るよう促し、それが汝自身を知れという格言に通じる、と考える、というのは無理でしょうか?

このように考えてくると、岩田先生がおっしゃりたいのは、ギリシア起源の幸福概念からヘブライ起源の幸福概念への転回、自己実現から自己奉献への転回というよりはむしろ、理性主義から非理性主義への転回、コナトゥス・エッセンディーの充足としての自己実現から本来的自己を知ることとしての自己実現への転回であり、この転回によって、他の人との本当の交わりが可能になるため、その場面で真の幸福が実現される、ということではないかと思えてきます。ここには、プラトン・ソクラテス流の「魂の目の転向」という要素も含まれていると見ることができ、とすればそれはかならずしもヘブライ思想に固有の考えではないということになりそうです。その意味で、この転回は、必ずしもギリシア的幸福概念からヘブライ的幸福概念への転回と考える必要はないように思えます。むしろ、存在者の世界から存在者の根拠の世界へと目を向け変えるというそのことが真のアレテーの実現であると考えることもでき、その真のアレテーが実現した時、人間同士の真の交わりが可能になり、真の幸福に到達すると考えた方がよいのではないかと思います。

実際、「霊性と祈り」(『カトリック研究所論集』第九号(二〇〇五年三月))においては、アナクシマンドロスの「無限定なもの」(ト・アペイロン)、神、仏、道、天、空、無、ブラフマン、ヤーヴェ、絶対者、存在は、すべて、存在者の根源、世界の根源、宇宙の根源として等置されており、こうした根源への帰依があらゆる宗教の根本にあるとされている以上、論点は、われわれの世界(競争の世界)から存在者の根拠の世界への転向という点にあるのであって、この転向にはギリシアやヘブライといった区別は関わっていないはずです。

(もっとも、プラトンにはソクラテスとは違って、貴族趣味があり、「優秀な魂」のみを念頭においていたということは言えるでしょうから、その分は割り引いて考えなければならないのかもしれません。また、魂の目の転向と言ってしまうと、それは中期イデア論の成立をまって初めて言えることで、ソクラテスのダイモニオンとは直接つながらないと言われることが予想されますが、ここでは、「大いなるもの」「神的なもの」との関わりを念頭においているとお考えください。さらにまた、岩田先生がギリシア的幸福概念からヘブライ的幸福概念へのコペルニクス的転回と明言なさっているのは、「デモクラシーと幸福」(『公共哲学の古典と将来』)のみであり、それ以外の上掲御論文には、私の見落としでなければ、この種の発言はなく、むしろ、ギリシアもヘブライも日本も中国もインドも一括して扱われているように見られることから、「デモクラシーと幸福」を書かれた後で、お考えを変えられたということなのかもしれません。もしそうであれば、私としては特に言うことはありませんが、いずれの作品もごく最近書かれたものなので、この点、どうなのか、今度お目にかかかった時に聞いてみようと思います。)

以上、最近の岩田先生のお考えについて、「ギリシアの復権」という視点から、感想を述べさせていただきました。
by matsuura2005 | 2005-04-10 18:42