管理人 : 松浦明宏
カテゴリ:エッセイ( 3 )
エッセイ
<哲学>
『パルメニデス』篇と岩田靖夫先生
岩田靖夫先生からのコメントへの応答
ギリシア的な幸福とヘブライ的な幸福 -岩田靖夫先生の最近の著作
生きる意味とヴァーチャルリアリティー -岩田靖夫著『よく生きる』へのコメント-
たまには読書 -死と哲学者の言葉の力-
哲学とは何ですか
哲学倫理学研究の二つのあり方
徳の明証性
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哲学の論文を書くということ(1) -読書感想文とは異なる-
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哲学の論文を書くということ(4) -技術的観点1-
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ソクラテスが論駁されない理由


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<その他>

by matsuura2005 | 2015-02-17 14:55 | エッセイ
『パルメニデス』篇と岩田靖夫先生
時が過ぎるのは速いものですね。中京大に来てからもう二年近く経とうとしています。その間、全く更新せずにいたおわびというわけでもないのですが、今年度(2014年度)書いた二つの論文の概略と、それらを書くことができた謝辞として、最近永眠された岩田靖夫先生へのお礼を書き、ご冥福をお祈りしたいと思います。

二つの論文のうちの一つは、2014年10月に東北大学哲学研究会『思索』に発表済みの「第三人間論とアンチノミー」というタイトルの論文です。これは、『パルメニデス』篇第一部に見られるイデア論批判の一つであるいわゆる第三人間論と、第二部の第一仮定と第二仮定とを、プラトンの後期的ディアレクティケーである分割と総観の観点から統合的に解釈するという主旨の論文で、第二部第一仮定と第二仮定とが作っている(見かけ上の)アンチノミーを、各々、自体性(総観)と関係性(分割)の区別によるものと解し、このアンチノミーの提示を通じて、第三人間論のアポリアを回避するための方策が示唆されていると受け取るという内容のものです。Meinwaldが『パルメニデス』篇に見られる「自分自身との関係」(pros heauto)と「別のものとの関係」(pros ta alla)の区別に基づいて第三人間論等のイデア論批判の回避を試みていますが、私の想定する自体性と関係性との区別は、Meinwaldの区別とは異なります。「自分自身との関係」と「別のものとの関係」という区別は、『パルメニデス』篇の具体例に基づいて判断すれば、関係性(pros ti)の内部での区別であって、「自分自身との関係」は非関係的(自体的)な概念ではありません。したがって、Meinwaldのように、Fredeの『ソピステス』(255c-d)解釈に基づいて『パルメニデス』篇の「自分自身との関係」と「別のものとの関係」という区別を読み解くことには無理があります。

もう一つは、2015年3月末に東北哲学会『東北哲学会年報』に発表予定の論文です。タイトルは「イデア不可知論と「瞬間」(to exaiphnes) -Plato Parmenides 156d2-3-」で、『パルメニデス』篇第二部第二仮定の直後に描かれている「瞬間」(to exaiphnes)において、第一部のイデア論批判の一つイデア不可知論への反論が示唆されているという主旨の論文です。これは、人間がイデアを知ることはできないと主張する者に対するプラトンの答えを読み解こうとするもので、懐疑論者に対するプラトンの反論はどのようなものかという意味合いを持っている論文です。この箇所の「瞬間」については、アリストテレス『自然学』に見られる運動論や時間論等に影響されたと思われる物理学的・数学的な解釈(速度やデデキントの切断との関連で「瞬間」を理解しようとするもの)が専門の研究者の間にはよく見られます。こうした自然学的な解釈は、「瞬間」を、時間と時間の隙間として、典型的には、過去と未来の間としての現在(今)という形で(のみ)理解していますが、テキストをよく読めば、その理解は必ずしも正しくなく、無時間的な状態から時間的な状態への変化の瞬間もまた含まれていることがわかります。したがって、当該の「瞬間」は必ずしも時間と時間との間に成立するものではなく、イデア界における無時間的な状態(永遠)から現象界における時間的な状態(時間)への変化の瞬間が示唆されていることになり、委細はここでは省きますが、イデアや永遠といった超越者が現象や時間の中に内在し得ることによって、イデア不可知論が解消されると主張した論文です。

このように、最近は『パルメニデス』篇についての研究を行い、次々と論文を書いている状態ですが、このような"量産"ができるようになるまでには、実はかなり長期間にわたる研究の停滞があり、その停滞のおかげで、昨年末から今年にかけての論文を書くことができるようになったと言えます。発端は、今から20年ほど前、『ソピステス』篇で修士論文を作成するための研究計画書の中に『パルメニデス』篇も入れて、指導教官であった岩田靖夫先生の研究室へ伺った時、かなり強くお叱りをうけたことにあります。『パルメニデス』篇は、新プラトン主義への影響も大きく、へたをすると一生かかってもわかるかどうかというような難解な対話篇なのだから、『ソピステス』篇で修士論文を書こうという時に、片手間に『パルメニデス』篇を扱うなどもってのほかである。まずは『ソピステス』篇に集中せよ。こうした主旨のご指導でした。「若い時にあれもこれもと手を出してしまうと、結局、何者でもなくなってしまうぞ。」岩田先生ご自身が学生であられた時に指導教官の斎藤忍随先生から注意を受けた時のお言葉(とおっしゃっていました)を、そのまま修士の時の私に言ってくださったことが印象に残っています。まずは一つのことに集中し、学者としてのしっかりとした基礎を作ることが、若い研究者にとってはもっとも重要なことであるということなのでしょう。こうして研究全体の方向を指示していただいたおかげで、修士論文、博士論文、学会誌、著書の執筆の際には『ソピステス』篇に集中し、ディアレクティケー(分割と総観)とその成立根拠をかなり掘り下げて研究することができました。これらを通じて固まった基礎があってはじめて、最初から数えれば20年も経ってから、『パルメニデス』篇について論文を書くことができたのだと思いますので、大学院生の指導教官の指示というのは、その学生の将来の研究成果をも決定づけるほど重要なのだと、今になって、つくづくそう思います。

もっとも、長年にわたって関心をもちつづけていたとはいえ、『ソピステス』篇についての著書を書いた後でも、『パルメニデス』篇についての論文をすぐに書くことはできませんでした。「論理的著作」というこの対話篇の性格も手伝って、対話篇全体の実質的な内容、著者の意図といったものを自分自身でつかむことができず、何をどう読んだらいいのか全くわからずに、テキスト上のギリシア語をただ闇雲に追いかけているだけでした。出口の見えない真っ暗なトンネルの中を、それでもとにかく進まなければ決して出口にはたどりつけない。どこまで行けばたどりつけるのか。そもそもたどりつくことができるような出口があるのか。全く見えない中を延々と読み続けなければならない。これが『パルメニデス』篇についての昨年2月までの私の率直な印象です。第一部でイデア論批判が提示された後、第二部に入ってアンチノミーが続々と登場するようになると、それらのアンチノミーをも考慮に入れて、第一部と第二部とを全体として読み解こうとしても、まずは挫折するのではないかと思います。実際、この対話篇を一度や二度読んだだけでその全体像がわかる人がいたとすれば、その人は天才でしょう。少なくとも私は、20年以上全くわかりませんでした。今でも本当にわかったと言えるのかどうかはわかりませんが、それでも、自分なりに対話篇全体の「読み筋」が見え、著者の「意図」がわかったと思えたから、論文を書くことができるようになったということだけは確かです。この対話篇は第一部に示したイデア論批判に第二部で答えるために書かれた対話篇であるというのが、私の「読み筋」です。この「読み筋」が正しいのかどうかは、論文などの形で公刊して世に問い、その結果として示されることなので、著者である私には決めることはできません。私にできるのは、自分に理解できたことを書くことだけです。

いずれにせよ、約2年前、仙台を離れることが決まり、送別会を開いていただいた折りに岩田先生にお約束したのが、長年書くことができずにいた『パルメニデス』篇に関する論文を必ず書くということでした。そのお約束を果たすべく、あらためて『パルメニデス』篇に取り組み、4月に学会発表を先生からすすめられ、10月の学会発表となったわけですが、発表当日、1年半ぶりに岩田先生にお目にかかって驚きました。体調がお悪い中をわざわざ会場までお越しくださったのかと思い、それまで全く知らなかったとはいえ、申し訳ない気持ちになりました。その後、その時の質疑応答と発表後の休憩時間に交わした対話の内容に従って論文を推敲し続けていたところ、本年1月28日、先生の訃報に接しました。結果的に、10月の東北哲学会での対話が最後の対話となってしまいましたが、それでも天国でこの論文を御笑覧くださることを願って、「岩田靖夫先生御机下」とここに記すことにします。

岩田靖夫先生のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。


(付記:上記『思索』は座小田豊先生御退職記念号です。執筆機会を賜り、心から感謝申し上げます。)

by matsuura2005 | 2015-02-11 15:26 | エッセイ
新生活
ずいぶん長い間更新しないままこのブログを放置していましたが、
この4月より、引っ越したのを機に、以前ほどの頻度ではないにせよ、このブログを再開したいと思います。

4月1日付けで、幸運にも中京大学国際教養学部の准教授に任ぜられました。
名古屋は私にとって地元であり、高校を卒業した18才まで名古屋市またはその近郊に住んでいました。
それ以来、九州、四国、宮城、東京等、期間の長短はありますが、いくつかの土地で暮らし、特に宮城では23〜24年間、ほとんど4半世紀近くの長い間、過ごすことになり、文字通り、私にとっての第二の故郷となりました。その長旅から第一の故郷に戻ってみると、やはりほっとするものですね。あと何年あるかわかりませんが、残りの人生をここで暮らそうと思います。

中京大学では論理学や哲学概論の他、いくつかのゼミ等を担当します。私の基本的な視点は、このブログのタイトルに表現しているように、古代ギリシア哲学、特に、プラトンなどの形而上学に定位した視点と、現代倫理学、特に、インターネットやケータイ、スマートフォンといった、現代的な種々の情報ツールにまつわる倫理問題や、これとも密接に関わると思われる隠れたカリキュラムという教育問題を考えるという視点等からなっていますので、授業もその路線のものになるでしょう。

ところで、最近読んでいる本の中に、『解離する生命』(野間俊一著、みすず書房)、『形而上学と神の思想』(ヴォルフハルト・パネンベルク著、座小田・諸岡訳、法政大学出版会)があります。『解離する生命』は、解離性障害、発達障害、新型うつ等の問題を、現代の若者の「傷つきやすさ」という視点から考えていて、この考えは、これまで私が講義中に学生さんから得た様々なコメントの中にも同様の趣旨のことが見られたことから、共鳴するところが大きく、興味をもって読んでいます。

『形而上学と神の思想』は、かなり前に座小田豊東北大教授からいただいたご本を、忙しさにかまけて読まないままになっていたのを、引っ越しの荷造りの時に手にとってぱらぱらとめくっているうちに、とても興味を惹かれ、引っ越しが終わった後も読み続けているものです。どこに興味が惹かれたのかと言えば、

「思惟の領域では神について沈黙しなければならないという点についてのハイデガーの基礎づけは、さほどの重みを持っていない。・・・世界の事物や自らの自我の意識のうちに与えられたものの数多性を越える上昇の目標としての一者という主題は、哲学的には、・・・基本的なものである。一者への傾向は、端緒以来のギリシア哲学における《アルケー》を確認する試みのうちに、指摘することができる。これに対して」、一者への傾向とは区別された「存在者そのものへの問いを哲学そのものの主題と説明するハイデガーのやり方には、どこか意図的なものが含まれており、それは、とりわけ存在を最も普遍的なものとして捉えるアリストテレスの態度からハイデガーが距離を取ろうとする際に際だっている。アリストテレスにおいては、こうした機能においてのみ --したがって、一切を包括する一者の表現としてのみ--、存在者そのものが第一哲学の主題になりえたにすぎない。」(パネンベルク上掲書、23頁-24頁からの抜粋。「」の外の語句は私が補ったものです。)


といった箇所があげられます(もちろん、これ以外にもありますが、ここでは省略します。)

要するに、これは、アリストテレスやプラトンをはじめとする古代ギリシア哲学者たちがアルケーを探求する場合には、一者(神)を度外視して存在(者)そのものだけを問うというようなことはしていなかったが、ハイデガーは「神について沈黙しなければならない」という仕方で、アルケーの探求から一者(神)を除外して、存在(者)そのものだけを問うことを哲学の主題であると考えている、というハイデガー批判です。

パネンベルクのハイデガー批判の正否をここで吟味することは避け、哲学・形而上学についての私の考えだけ述べておけば、哲学(形而上学)の主題には、それ自体を言葉で表現することのできないもの(一者や神など)を言葉で表現しようとする探求姿勢がかならずついてまわる、ということになります。この点について興味深いのは、たとえば、井筒俊彦氏の次の言葉です。

「形而上学の樹立を目指す哲学的思惟の場合、いたずらに「沈黙」を振りかざしてみても、いささかも問題の解決にはなりはしない。いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと --そこにこそ形而上学の本旨が存する。」(『意識の形而上学』 井筒俊彦著、中公文庫、22頁-23頁)


つまり、神や一者は言葉で語ることのできないものであるということはわかってはいるが、それにもかかわらず言葉を使ってなんとかそれを表現しようとするのが形而上学である、ということになるでしょう。できないとわかっていてもそれをしようとする姿勢が、形而上学の基本姿勢であるということです。

これらと必ずしも同じことではありませんが、プラトンのディアレクティケーの成立根拠について、拙著の「結び」の中で次のように書いた時、少なくとも私としては、類似のことを考えていたという気がします。

「私は、[プラトンの]対話篇上に示唆されているにすぎない「ディアレクティケーの成立根拠」を探求し、私なりの「答え」を提出した。だが、そのすべてが、いわば「ほんとうの答え」ではない。分割なら分割の成立根拠はかくかくのものであると、書物の中で文字の形で述べたところで、そうした成立根拠はもともと文字の形に書くことのできないものである以上、文字に書かれているというそのことによって、それはほんとうの答えではないということを自ら示している。・・・
 だが、たとえそれがほんとうの答えではないとわかっていても、それを文字の形で書くことには、意味があると私は思う。それは、そのように文字や言論の形では決してとらえることのできないものを言論化しようとするというそのことが、その人間の哲学の営みであり、その営みを書き記すことによって、その人間が自分自身で哲学を行ったという明確な足跡を残すことになるからである。・・・」(『プラトン形而上学の探求』、松浦明宏、東北大学出版会、222頁。[ ]内は今回私が補った語句です。)


ここで言う「ディアレクティケーの成立根拠」は必ずしも一者や神ではないのですが、「文字や言論の形では決してとらえることのできないもの」であるという点で形而上学的なものの一種であることは確かであり、その意味で、私が「結び」の中で書いた「哲学」という言葉は「形而上学」という言葉に置き換えることができるのであろうと思っています。

以上、特に『形而上学と神の思想』について、最近、考えたことを書きました。不定期にはなると思いますが、これからも、形而上学の話題等について、折に触れて書いていきたいと思います。
by matsuura2005 | 2013-04-02 00:09 | エッセイ