管理人 : 松浦明宏
2004年 03月 25日 ( 1 )
哲学講義22 - アリストテレス(2) アリストテレスの生涯 -
前回の哲学講義では、アリストテレス哲学についての序論の序論という意味で、アリストテレスとプラトンとの違いについて述べました。今回は、アリストテレスの生涯について概観しておきたいと思います。


或る哲学者の思想を知るための一つの方法は、もちろん、その思想そのものを追いかけることなのでしょうが、そのような思想を語った当人がどのような人生を送ったのか、あるいは、その思想の語られる著作の性格がどのようなものであるのかをごく大つかみにではあれ見ておくことは、その人の思想の特徴を知ろうとする場合にはきわめて重要なことです。これは、プラトンの場合に、対話篇という形式がその思想とおそらくは切り離せない仕方で結びついていることや、対話篇の中で語られることがプラトンの実生活(シケリア旅行やソクラテスの死など)や生い立ち(貴族で政治家の家柄に生まれたこと)とかなり密接に結びついていることを考えてもわかると思います。というのも、その著作なり思想なりを作者がどういうつもりで書いたり語ったりしているのかという「作者の意図」を理解することなしに、作品全体の意味や作品の中で語られる個々の事柄の意味を正しく判断することは難しいからです。そこで、アリストテレスの場合はどのような生涯を送ったのかを、今回の講義で見ておくことにするというわけです(次回は、現在アリストテレス全集として知られている著作群の性質について見ることにします)。

1. 幼少期
アリストテレスは、紀元前384年、ギリシア北方のマケドニア地方にあるカルキディケ半島のスタゲイラという小さな町で生まれました。当時のマケドニア王で後のアレクサンダー大王の祖父にあたるアミュンタス(393B.C.〜369B.C.頃在位)の侍医として仕えていたニコマコスを父とし、同じく医者の家系にあったと推定されるファエスティスを母としたことも手伝って、幼いころから医学や生物学に接していたと言われます。また、父がマケドニア王の侍医であったことから、幼少期をペラの王宮で過ごし、そうするうちに、未来のアレクサンダー大王の父となるフィリッポスと友人関係をもったとも言われています。アリストテレスは、まだ幼いうちに父ニコマコスが亡くなったため、自分の義兄とも母方の叔父とも言われる医師プロクセノスを後見人として、その居住地アタルネウスに移り住みました。そして、その地でプロクセノスの監督指導の許、科学的・哲学的基礎教育を受けるうちに、プラトンの著作に出会い、感銘を受け、それが後にアカデメイア入学の動機になったとも言われています。

2. アカデメイア時代
アリストテレスは、17歳(または18歳)の時、後見人のプロクセノスとともにアテネを訪れ、プラトンの学園アカデメイアに入りました(367/6 B.C.)。アリストテレスが入学した時には、プラトンはちょうど第二回シケリア旅行中でアテネを留守にしており、幾何学・天文学・医学・法律に通じたエウドクソス(408B.C.頃〜355B.C.頃)がプラトンの代理として学頭をつとめていて、アリストテレスはこのエウドクソスから人格的にも学問的にも強い影響を受けたと言われています。

その後しばらくしてプラトンがシケリアから戻ったわけですが、ともあれ、アリストテレスが入学した頃のアカデメイアでは、プラトンがその中期に立てたイデア論について、論理的難点等、種々の吟味が弟子たちによって自由に加えられる雰囲気があり、アリストテレスもその雰囲気に溶け込んだものと思われます。プラトンの対話篇群のうち、中期と後期の境目にあたるのが『パルメニデス』であり、一説によると、この『パルメニデス』が書かれたのは、アリストテレスがアカデメイアに入学して来たからだとも言われているほどです(もちろんそれだけが理由ではないであろうことは想像するに難くありません(たとえば、メガラ派の影響))。

アリストテレスは、「学園の心臓」と呼ばれるなど、秀才として通っており、最初はもちろん学生として学んだわけですが、後に助手としてアカデメイアで教鞭をとるなど、学園の中心的存在になっていきました。しかし、結局、アリストテレスはアカデメイアの学頭になることなく学園を去りました(347 BC.頃)。

アリストテレスがアカデメイアを去ったいきさつについては、諸説あって定かではありません。プラトンの死後、プラトンの思想に忠実なクセノクラテス、プラトンの甥のスペウシッポス、そして、学園の心臓アリストテレスなど、何人かの間で学頭選挙が行われ、結局、スペウシッポスが学頭に選ばれたため、他のもっと有能な教師たちは立腹してアテネを去った、という見方が一方にあります。この見方の中には、たとえば、アリストテレスのようなアテネ市民権を持たない者に学園を任せることには問題があったため、甥のスペウシッポスが学頭を継承したのだという考え(しかし、次の学頭となったクセノクラテスはアリストテレスと同じ外国人) ----プラトンが死んだ時期には、デモステネスなどによる反マケドニアの気運が高まっていたため、マケドニアと親交の深いアリストテレスを学頭にするわけにはいかない、といった政治的な事情が絡んでいたという考えもその一つ---- があります。

他方で、アリストテレスがアカデメイアを去ったのはプラトンが死ぬ前だったとする考えもあります。プラトンの発言として伝えられるものの中に、「アリストテレスは、若駒が母馬を蹴飛ばすように、私を蹴飛ばした」というものがあって(ディオゲネス=ラエルティオス)、この発言をアリストテレスがアカデメイアを去ったことと結びつけて解釈した場合には、アリストテレスが学園を去ったのはプラトンの存命中であったことになり、学頭選挙とはあまり関係がないということになります。むしろ、アリストテレスはプラトンの思想とかなり隔たった考えを持っていて、思想上の相違から学園を離れるに至った、と考えるほうが、この場合には自然であることになるでしょう。

ディオゲネス=ラエルティオスの発言の信憑性やアリストテレスとマケドニアとの親交等を考えると、どちらかといえばプラトンの死後学園を去ったと考えた方が自然であるように私には思えますが、断定は避けることにします。わからないことはわからないままにしておくというのも、悪いことではないと思いますので。

3.遍歴時代
以上のように、約20年間そこで学んだ学園を何らかの事情で離れるに至ったアリストテレスは、後にアカデメイア第三代学頭となる同門の友人クセノクラテスやテオフラストスと共に、ギリシア本土からエーゲ海を挟んだ東対岸、小アジアの西岸にあるアソスへ向かいました。この地は、アリストテレスが若い頃居住したことのあるアタルネウスのそばにあり、そのアタルネウスの宦官僭主ヘルミアスが、アリストテレス等をアソスへと招き、それに応じたかたちになりました。ちなみに、ヘルミアスはアテネへ来たこともあり、プラトンもまたヘルミアスのもとへコリスコスとエラストスという弟子を派遣したこともあるなど、比較的アカデメイアと親交のある人物で、アリストテレス自身もヘルミアスのことを比較的よく知っていたと思われます。いずれにせよ、アソスへと到着したアリストテレスは、そのヘルミアスの娘とも妹とも養女とも言われるピュティアスと恋に落ち、結婚してピュテイアスという名の女子をもうけ、妻のピュティアスが死んだ後、ヘルピュリスと同棲しニコマコスという名の男子をもうけたと言われています。

アソス到着の三年後(345/4 B.C.)頃には、ヘルミアスがペルシア軍に攻められたため、アリストテレスはすぐ近くにあるレスボス島のミティレネに移り、そこで生物学の研究に集中的に取り組みました。後にアリストテレスの弟子となるテオフラストスはこのレスボス島のエレソスの出身であり、この時期にテオフラストスの助力によって生物学研究に取り組んだのでした。

レスボス島で二年間滞在の後、紀元前342年、アリストテレスはマケドニア王フィリッポス二世の招きを受けて、当時14歳(13歳という人もいる)だった王子アレクサンダーを養育するために、マケドニアの首都ペラへ向かいました。後にヘレニズム時代を切り開くことになったアレクサンダーにアリストテレスがどのような影響を与えたのか、これもあまりはっきりとはしていないというのが実情のようです。政治的・軍事的才能の豊かなアレクサンダーにホメロスなどの暗誦を強要したため、あまり教育効果はなかったのではないかと考える研究者や、ポリスを第一に考えるアリストテレスの政治思想とポリス衰退につながるような本質を持ったアレクサンダーの考え方とが折り合うはずがないという方向で考える研究者がいるのに対して、アリストテレスの政治思想がアレクサンダーに伝わらなかったはずはないと考える研究者や、アレクサンダーは世界各地から珍しい生物の標本をアリストテレスの下に届けた(ほどアリストテレスに感化されていた)と言う研究者もおり、肯定的立場と否定的立場とのどちらの立場をとるべきか迷うところです。こういう時に一番確実なのは、とりあえず「判断中止」し、どちらもありうる、とだけ述べておくことかと思いますので、アレクサンダーとアリストテレスとの関係についてはこれ以上立ち入らないことにします。

4. リュケイオン時代
ともあれ、アリストテレスはアレクサンダーがフィリッポスの後を継いでマケドニア王となった前335年にアテネに戻りました。その時には、アカデメイアの学頭は、既にスペウシッポスからクセノクラテスに代っていました。そのため、アリストテレスは自分が中心になって教えることのできる場所を求めて、マケドニア政府高官のアンティパトロスとの親交に基づいてマケドニア政府からの支援を受け、アテネの東北にあるアポロン・リュケイオスとムーサイに捧げられた森に学園を開きました(前335年)。これがリュケイオンと呼ばれる学園であり、後に図書館が建設されて多くの図書が集められ、多くの研究員が集められるなどして、学問の一つの拠点となったのです。午前中は学園の中庭を散歩しながら上級者向きの講義を行い、午後は一般向きの講義を行う、という仕方で講義が行われたということです。散歩しながら議論したことから彼らは「逍遥学派(ペリパトス派)」と呼ばれるようになりました。

こうしてアリストテレスは自らの学園で10年強の間、講義・研究生活を送っていたところ、前323年、突然、アレクサンダー大王が病死したという知らせを受け取ることになります。アレクサンダーが死んだということになると、反マケドニア勢力が一気に高まり、その矛先はアリストテレス自身にも向けられることになりました。述べて来たように、アリストテレスはマケドニアとのつながりが強かったからです。そうなるとアリストテレスはもはやアテネにいることはできなくなり、ソクラテスの二の舞にならないため、「アテナイに再び哲学を冒涜させないために」と言い残して、エウボイア島にあるカルキスに逃れました。そして、その翌年、その地で胃炎のため病没しました(前322年、62歳)。

以上見て来たように、アリストテレスはプラトンとは違って、いわば最後まで哲学し続けて亡くなったというよりはむしろ、アレクサンダーの病死という一つの偶然に左右されて自らの哲学活動を閉じることになったという部分もあると言えるでしょう。その意味で、アレクサンダーがもう少し長生きしていたら、アリストテレスもプラトンと同じ年まで生き、現在とは違った形で、アリストテレスの哲学にわたしたちは出会うことになったのかもしれません。しかし、それは考えても仕方のないことであり、残されているアリストテレス哲学(全集)を、あるがままに受け入れるほかないという気がします。

5. リュケイオンの閉鎖時期
最後に、余談になりますが、リュケイオンの閉鎖時期等について補足しておきます。アカデメイアの閉鎖された時期は529A.D.(ユスティニアヌスの異教禁止令が出された時期)であることがはっきりしていますが、リュケイオンの閉鎖された時期については、私の調べた限りでは、あまりはっきりしませんでした。アリストテレスの死後、テオフラストス(前322ー287年)、ストラトン(前297年頃没)と学頭が受け継がましたが、ストラトンが亡くなると、リュケイオンは急速に衰えました。その後、紀元前70−50年頃活躍し、アリストテレス全集の編集を行ったロドスのアンドロニコスが「リュケイオン最後の学頭」だったと言われていることからすれば(荻野、191頁)、紀元前一世紀頃リュケイオンは一旦閉鎖されたということになります。そして、たとえば、「ペリパトス派(リュケイオン)」についての記述として、「二世紀後半から三世紀前半には著名なアリストテレス注釈者アレクサンドロス・アプロディシアス(Alexandros Aphrodisias)が出る。」(岩崎、111頁)、「アリストテレスの学園もアプロディシアスのアレクサンドロス(200頃)によって再興される。」(西洋古典の基礎知識 I 西洋古代哲学案内、ヘレニズム期(2) グレコ=ローマン時代)、といわれていることからすれば、リュケイオンは、紀元前一世紀頃一旦閉鎖された後、紀元後二世紀後半から三世紀にかけて再興されたということになります。このあたりまではおおよそはっきりしているのですが、その後の経過についてはあまりはっきりしていません。「紀元339年にアテナイに侵入した西ゴート族によって壊滅的な打撃を受けた」(西村太良監修『ギリシア』(世界の歴史と文化)新潮社,1995年,p.184,「アカデメイアとリュケイオン」)時期にリュケイオンは滅亡したのかもしれませんし、アカデメイアと同様、紀元529年まで900年近く存続したのかもしれません(朱門岩夫2000年度哲学講義 アリストテレス)。因に、ロイドはアリストテレス哲学の影響を語る文脈で「529年ユスティニアヌス帝はアテナイの哲学の諸学校を閉鎖した。それ以来、ギリシアにおける研究は、幾世紀もの間コンスタンティノープルで続けられたが、次第に衰えていった。」(271頁)と述べていて、この「諸学校」の中にリュケイオンも入っているというニュアンスを漂わせているように私には読めましたが、明言はしていないため、リュケイオンがいつ閉鎖されたとロイドが考えているのか確定できません。こういうわけで、なかなかリュケイオンの最終的な閉鎖時期を確定することは難しいので、この問題については今後の課題として取っておくことにしたいと思います。ちなみに、プラトンの「アカデメイア」という学園名はもちろん、「アカデミー」、「アカデミック」の語源となったものですが、アリストテレスの「リュケイオン」の方は、フランスの高等教育機関「リセ」に受け継がれているということも覚えておくと、何かの役に立つかもしれません。



参考文献
岩崎充胤、『西洋古代哲学史 [ II ] ヘレニズム・ローマ期の哲学』、未来社、1995年
荻野弘之、『哲学の饗宴』、NHK出版、2003年
加藤信朗、『ギリシア哲学史』、東京大学出版会、1996年
山口義久、『アリストテレス入門』、ちくま新書、2001年
堀田彰、『アリストテレス』、清水書院、1968年
G.E.R.ロイド、『アリストテレス その思想の成長と構造』(川田訳)、みすず書房、1998年(新装第一版)
A.A.ロング、『ヘレニズム哲学』(金山訳)、京都大学出版会、2003年
A.A. Long, Hellenistic Philosophy Stoic, Epicureans, Sceptics, California, 1986 (Second Edition)
J.L.Ackrill, Aristotle The Philosopher, Oxford, 1981
by matsuura2005 | 2004-03-25 17:29