管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 20日 ( 1 )
哲学講義20 - プラトン(8) イデア論批判 -
プラトンのイデア論については、いろいろな批判があります。古くは、アリストテレスが行ったものや、プラトン自身が『パルメニデス』で描いているものが有名で、他方、新しいところでは、ドレイファスがインターネットとの関連でプラトニズムを批判しています。まず古代の批判からみていきましょう。

プラトンの『パルメニデス』では、たとえば、次のイデア論批判が提示されています。
すなわち、イデア論によれば、たとえば、(1)多くの大きなものを見渡して、それらに共通する一つの「大(のイデア)」があると考える。すると、(2)それら多くの大きなものとその一つの「大」とを心眼で見渡せば、それら多くの大きなものとその一つの「大」とに共通する一つの「大」が現われる。となると、先の「大(のイデア)」の他に、もう一つ「大(のイデア)」が現われることになるから、大のイデアは一つではなく、無数にあることになる。(これと同系統のイデア論批判をアリストテレスも行っていて、それが第三人間論と呼ばれます。)

このイデア論批判については、次のように考えることで、イデア論を擁護しておきます。上記の批判は、「多くの大きなもの」の意味内容をずらすことによって、初めて成立する。つまり、イデア論が想定している(1)の「多くの大きなもの」は、心眼で見られるものではなくて、肉眼で見られるものであるのに対して、(2)の「多くの大きなもの」は、肉眼で見られるものではなく、心眼で見られるものであり、心眼で見られる「多くの大きなもの」は、イデア論の範囲内には存在し得ない。イデア論の範囲内では、心眼で見られる大は、大のイデア一つだけである。なぜなら、もともとイデア論は、感覚的事物(肉眼に見られるもの)の成立根拠は何か、という問いに対して答えようとしたものである以上、心眼で見られるものという、「成立根拠の場面」の中に、根拠づけられるべき「多くの大きなもの」を想定することは、根拠の場面と根拠づけられるものの場面とを混同することに他ならないからである。従って、件のイデア論批判は、上述の混同に基づくものであり、イデア論の内部的な不整合を指摘したものではない。その意味で、それは「批判」になっていない。

次に、「イデアは生成を説明しない」という批判についてみてみます。アリストテレスによれば、イデア論の最大の難点は、イデアは感覚的事物に対していかなる運動や変化の原因でもなく、感覚的事物の生成を説明するのに、イデアは不要である、ということにあります。アリストテレスによれば、多くの家に共通する一つの名前「家」を、プラトンのように、多くの家とそれらから離在する家のイデア、という仕方で考える必要はない。多くの家を質料(「これ」)、「家」という共通名を「このようなもの」(形相)と考え、そうした「質料」(「これ」)の中に「形相」(「このようなもの」)を生ぜしめる原因として、「製作者(大工)」という「起動因」を想定すれば、家のイデアなどなくとも、家という事物の生成は説明できる。言い換えれば、アリストテレスによれば、「プラトンは、本質と質料という二つの原因のみを用い」、「変化の始まる原因(起動因)を全く考えていない。」

しかし、プラトンの『ティマイオス』では、デーミウールゴス(職人の謂)は、イデアを見ながら、それを真似て、この世界を作ったのですから、プラトンなりに事物生成の起動因を考えていたように思えます。デーミウールゴスを起動因と考えれば、イデアという形相因と、質料因の他に、起動因も想定されていたことになるわけです。イデアという善美なるものを真似てデーミウールゴスがこの世界を作った、というプラトンの譬え話のうちに、実質的には、アリストテレスの起動因も目的因も形相因も質料因も含まれているのではないかとさえ思えてきます。

もちろん、アリストテレスの趣旨は、イデアなしでも自然界の生成を説明できる、というところにあるのですが、たとえば、そもそもこの自然界の事物がなぜ存在するのであって、存在しなかったのではないのか、という問いについて、アリストテレスの四原因論とプラトンのイデア論とを比較したとき、どちらかといえば、プラトンのイデア論の方が、この問いには答えてくれそうに思えるのです。自然界の事物が生成・存在する「原因」というよりはむしろ「根拠」、自然の事物がそのように生成・存在して善い理由を問うたとき、果たして、アリストテレス流の説明がどこまで機能するのか、私には疑問が残るのです。

(プラトンの『ティマイオス』は後期作品であり、『パルメニデス』が書かれたのは、後期初頭に、アリストテレスがアカデメイアに入学してきた時期と重なると考えられる。だから、プラトンは、『パルメニデス』を書いたあたりの時期に受けたイデア論批判を考慮して、『ティマイオス』を書いた可能性もある、という点も考慮に入れなければならないのかもしれません。しかし、たとえそれを考慮に入れたとしても、上記の問いに、アリストテレスの四原因論が答えられないとすれば、『ティマイオス』が書かれた時期の問題は、とりあえず脇にのけておくことができるでしょう。)

ちなみに、アリストテレスの四原因をまとめると、次のようになります。
・質料因とは、「それは何からできあがっているか」と問われたときの「何」にあたるもので、「素材」のこと。「ヒュレー」と呼ばれる。
・形相因とは、「それは一体何であるか」と問われたときの「何」にあたるもので、ものの「本質」のこと。
・起動因とは、「それは何によって生み出されたのか」と問われたときの「何」にあたるもので、家を作る大工や職人などのこと。
・目的因とは、「それは何を目指して生み出されたのか」と問われたときの「何」にあたるもので、鋏の場合には「切るため」という用途のこと。

アリストテレス自身はこれら四原因をすべて自然の内部にあるものとして説明しようとしているようです。アリストテレスにとって「自然」とは、「自分自身の内に運動変化と静止の原理をもつもの」ですから。しかし、プラトンの『ティマイオス』では「原因」は必ずしも自然内部に限られるわけではないようです。このあたりが、おそらく、アリストテレスとプラトンとの違いを考える上で、一つの重要な視点になってくるのかもしれません。これについては、アリストテレス哲学の講義の中でより詳しく触れることにします。

さて、以上は、古代におけるイデア論批判についての話でしたが、ここで話題を転じて、現代のプラトン批判を見ることにしましょう。ドレイファスというハイデガー研究者は、『インターネットについて 哲学的考察』(産業図書)の中で、次のようにプラトンを批判しています。

プラトンやソクラテスは、魂をできるだけ身体的なものから引き離すべきだと言う。ところで、インターネットによるコミュニケーションは、身体的なものから離れた、言葉や写真などの画像・動画のみによるコミュニケーションである。とすれば、インターネットの世界は、文字通り、身体から離れた、プラトニズムの一つの形態である。しかし、そうした世界は、匿名性により、人から関与(コミットメント)を失わせ、超然とした態度・関わりのなさ(ディタッチメント)を引き起こす。プラトン流に身体から魂を引き離すことは、人と人との真の意味での交流を失わせるものであり、従って、われわれは、プラトンとは逆に、より身体性を重視しなければならない。およそこのような趣旨で、ドレイファスは、プラトニズムとインターネットの世界とを等置しながら両者を批判しています。

しかし、それにしても、これほど見当違いのプラトン批判もめずらしい。プラトンは『第七書簡』や『パイドロス』の中で、書かれた言葉に対して疑問を呈しており、教師と弟子とが共同生活をしながら直接対話を交わしあうことによって、本当の哲学の営みを行うことができると述べています。この点については、既にこのプラトン講義の中で何度も言ってきたことですので、ここではこれ以上繰り返しません。

教師と弟子とが直接対話することによる交流、その際に、魂からいわば飛び火のように点ぜられた、魂の中に書き込まれる言葉によって、哲学の精神が伝達される。これは、ドレイファスの言う「関与」なしにはありえないことでしょう。その意味で、ドレイファスは、プラトンを批判しているどころではなく、自分自身気づかぬうちにプラトンと同趣旨のことを述べているのです。

プラトンが魂を身体から引き離せというのは、人と人とが直接対話する場合でも、書かれた文章などを通じて間接的に交流する場合でも、話題や関心をなるべく身体的なものから引き離して、精神の場面で真理の追究に向かえということです。ドレイファスの言う「インターネット」と「実際の対面」との区別は、プラトンの言う「書かれた言葉」と「魂の中に書き込まれる言葉」との区別に相当し、ドレイファスが「実際の対面」を重視していることは、プラトン流の「魂の中に書き込まれる言葉」を重視することに他ならないわけです。魂の中に書き込まれる言葉を得るには、直接対面しながら交流するほかないのですから。

その意味で、ドレイファスのプラトン批判は的外れであり、前回取り上げたスポンヴィル同様、ドレイファスもまた「釈迦の掌の上の孫悟空」にすぎないわけです。
by matsuura2005 | 2004-02-20 17:14