管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 17日 ( 1 )
哲学講義17 - プラトン(5) 善のイデア・太陽の比喩 -
前回は、プラトンのイデア論についてごく大まかに紹介をしました。今回は、プラトンのイデア論の中でも中核をなす善のイデアについてお話します。


まず、『国家』の中で、善のイデアについて語られている「太陽の比喩」を紹介し、
その後で、善のイデアについての一つの解釈を紹介し、
それを踏まえた上で、私の考えを述べる、ということにします。

(1)太陽の比喩
プラトンが善のイデアについて語るとき、太陽に譬えています(『国家』(第六巻 507a-509b))。

一方で、多くの美しいものがあり、多くの善いものがある。他方で、そうした多くのものどもに対して、各々一つずつ、その実相(イデア)がある。たとえば、多くの美しいものに対しては、美のイデアがただ一つだけあり、多くの善いものに対しては、善のイデアがただ一つだけある。多くの善いものは、肉眼で見ることができるけれども、善のイデアは、思惟されるのみであって、肉眼で見られることはない。

ところで、たとえば聴覚の場合には、聴かれるものと聴くものがあれば、音を聴くことができる。しかし、視覚の場合には、見られるもの(対象)と見るもの(主体)があるだけでは見ることはできず、
見るという働きが成立するためには、光という第三のものが必要である。

天空の神々(天体)のうちで、太陽が、
われわれの視覚を最もよく見えるようにし、見られるものを最もよく見られるようにする。視覚そのものも、目も、そのままただちに太陽であるというわけではないが、
感覚器官のうちでは、最も太陽に似たものである。
また、目は自分の機能を、太陽から注ぎ込まれるようにしてまかなわれながら、所有している。
太陽の方もまた、そのままただちに視覚であるわけではないが、
視覚の原因となるものであり、視覚によって見られるものである。

思惟の世界において、善が「知るもの」(nous)と「知られるもの」(nooumena)に対して持つ関係は、
見られる世界において、太陽が「見るもの」(opsis)と「見られるもの」(horomena)に対して持つ関係と同じである。

目は、夜の薄明かりに蔽われている事物を見る時には、
ぼんやりとしか見ることができず、視力を持っていないように見える。
しかし、目が、太陽の光に照らされている事物を見る時には、
はっきりと見ることができ、視力を持っていることが明らかになる。

これと同様に、魂が、 生成消滅するものへと向けられるときには、
魂は思惑するばかりで、ぼんやりとしかわからず、知性を持っていないのと同じである。
しかし、魂が、「真」と「存在」が照らしているものへと向けられるときには、
それを認識し、その魂は知性を持っているように思われる。

このように、
認識するものには認識機能を提供し、認識されるものには真理性を提供するものが、善のイデアである。
たしかに善のイデアは認識されるものと考えなければならず、認識も真理もとても美しいものではあるけれども、
善のイデアは、知識と真理の原因(根拠)であって、これら両者とは別ものであり、これらよりさらに美しいものである。

また、視覚と光を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども、
それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同様、
知識と真理を善に似たものとみなすのは正しいけれども、
それがそのまま善であると考えるのは正しくなく、
善のあり方(hexis)はもっと貴重なものである。

太陽によって、見られる事物にただ見られるはたらきが与えられるだけでなく、生成と成長と養育も与えられる。
ただし、太陽そのものが生成であるわけではない。
同様にまた、善によって、認識されるものにただ認識されることが備わる(pareinai)だけでなく、
あるということ・その存在(to einai te kai ten ousian)もまた、
善によって、それら認識されるものに付け加わる(proseinai)。
ただし、善は存在(と同じもの)であるというわけではなく、
位においても力においても、その存在の彼方に超越してある(epekeina tes ousias ...hyperechontos)。


以上が、いわゆる「太陽の比喩」です。
見るものと見られるものと太陽という三項関係が、知るものと知られるものと善という三項関係と類比的である。
知るもの(理性(nous))は、善によって、認識(グノーシス)を与えられ、
知られるもの(理性によって捉えられるもの)は、善によって、真理性(アレーテイア)を与えられる。
知られるものは、善によって、ただ、知られることが与えられるだけでなく、
そうした知られるものが「あるということ」・「その存在」をも加えて与えられる。
善によって存在が付与され、善と存在とは同じではなく、善は存在の彼方に超越してある。
という仕方でまとめることができるでしょうか。
これはつまり、「理性」と「理性によって捉えられるもの」があるだけでは、
理性が知るものになることはなく、理性によって把握されるものが知られることはない、
善によって、はじめて、理性は理性を働かせるものとなり、存在するものは存在するものとなる、
その意味で、「善はイデア的対象を理性によって把握させる根拠であり、理性を理性として働かせる根拠である」
と理解できます(加藤信朗、『ギリシア哲学史』、154頁を参照)。

この「太陽の比喩」において最も問題になるのは、やはり、何と言っても、
「善は存在の彼方に超越してある」という、善のイデアの超越(hyperechein, hyperbole)の問題でしょう。
善のイデアの超越を、
プラトンの死後何百年も後に現れた新プラトン主義者プロチノスやプロクロスの「善一者」の思想との関連で
考える方向もあります(プロクロスの善一者の思想については、
岡崎文明『プロクロスとトマス・アクィナスにおける善と存在者』、晃洋書房、p.105以下に紹介されています)。
しかし、確かに新プラトン主義者たち自身は自らの思想をプラトンの思想と考えていたかもしれないけれども、
実際にはそれはプラトン自身の思想とは異なり(R.T. Wallis, Neoplatonism, Hackett, 1995 (org. 1972))、
スペウシッポスやクセノクラテス(古アカデメイア派)等、プラトンの後継者たちがプラトンの思想を変容させた
と言われています (John Dillon, The Middle Platonists 80B.C. to A.D. 220, Cornell U.P.,1977, 1996)。
したがって、プラトンの「善のイデア」と新プラトン主義者たちの「善一者」とを直接関連づけることには
慎重でなければなりません。
そこで、ここでは、善のイデアに関して、新プラトン主義の思想に立ち入ることは避け、
むしろ、岩田靖夫氏が興味深い考えを述べているので、それを見ることにします。

(2)善のイデアの超越についての解釈
岩田靖夫氏は、レヴィナスとの関連で、プラトンの善のイデアの超越について、
自己実現とエゴイズムという視点から、次のように述べています。
そこでは、太陽の比喩における「存在」は、「自己保存と自己主張と自己拡張」という「エゴイズム」・「自己実現」の世界、
「善のイデア」は「自己犠牲」の世界として述べられています。

「そこで、僕の話の結論はどういうことか、というとね、こういうことなの。
生きるとはなにか。自己実現というエゴイズムの運動をしなければ人間は生きられない。
だから皆、力をつけて強くなろうとする。少しでも他人の先に出て、生存競争に遅れを取らないようにする。
そして頑張る。しかし、生存競争に勝つということだけではね、人間はただの動物なんだよ。
強いものが弱いものを食べて生きているというのは、これは動物の世界の法則だからね。
 人間らしい生き方とは、この動物の法則を否定して、ある意味ではそれとは逆の生き方を始める点にある。
それは、ある意味ではね、存在するということを否定するような運動をするということなの。それが自己犠牲。
ずっと昔、古代ギリシアにプラトンという偉い哲学者がいてね。
そのプラトンは、万物の究極根拠を「善」と言ったのだが、その「善は存在のかなただ」とも言っているの。
この思想は、現代でまた生き返って、ユダヤ人のエマニュエル・レヴィナスという哲学者が受けついでいる。
どうして「存在のかなた」かというと、
自己保存と自己主張と自己拡張というものがひしめき合っている世界が存在の世界だが、
その中に、存在よりもっと上等なもの、すなわち、善を導入するために人間は生まれたのだ、
とレヴィナスは言うからです。」
(岩田靖夫、「生きる」、『仙台白百合女子大学 カトリック研究所論集』第八号、二〇〇四年三月、111頁〜112頁)

この解釈によれば、「善が存在を超越している」とは、つまり、
「自己犠牲や善意は、自己保存という動物的な存在の仕方を超えたところに成立しているということ」
を意味しているわけです。

先日行われた「デモクラシーと幸福 -自己実現と自己奉献 幸福の二つの次元-」という講演の中では、
自己実現はギリシア起源の思想(アレテーの思想)、
自己奉献(自己犠牲)はヘブライ起源の思想(善意の思想)として区別され、
ギリシア起源の幸福論からヘブライ起源の幸福論へと「コペルニクス的転回」を遂げなければならない、
と語られていましたが、上掲論文の中では、自己犠牲はプラトンというギリシア哲学者に起源を持っていることになり、
岩田氏自身、必ずしも、首尾一貫した議論を行っているようには見えません。
(もっとも、これは岩田氏一流の「レトリック」かもしれませんし、
プラトンの善のイデアはギリシア的というよりはむしろヘブライ的であるという示唆なのかもしれませんので、
あまりこのギャップについて詮索してもはじまらないことなのかもしれません。)
また、岩田氏は、上掲論文の中では、引用箇所以外にプラトンの善のイデアには言及していませんので、
プラトン解釈として、具体的にどういうことを考えているのか、必ずしも明確ではありません。
したがって、以下では、一応、上述の岩田解釈を念頭に置いた上で、私自身が考えてみることにします。
つまり、以下では、岩田流の「善意の思想」からは少し離れて考えてみるということです。

たとえば、ソクラテスが、クリトンの説得を拒絶して、牢獄から脱獄せずに、牢獄の中に留まっていたということが、
『クリトン』に見られます。この例に基づいて考えて見ます。
ソクラテスが牢獄に留まっていたのは、「法に従って振舞うことが善い」とソクラテスが(常日頃から)考えていたからであり、
もしソクラテスが、クリトンのような世人と同様、「脱獄することが善い」と考えていたとすれば、
ソクラテスは牢獄の中に留まってはいなかったはずです。

これは、牢獄の中に座っているという、ソクラテスの「あり方」を決めているのは、「善」であるということです。
その意味で、善は「存在(あり方)」を規定し、「存在」を超えている。
人の「あり方」という「存在」を規定する根拠になっているのが「善」であるということです。

ただし、その「善」は、「(世人に)善いと思われていること」とは独立的に、
ロゴス(理性)によって熟考した結果、善いと判断されたことです。
その意味では、それは、「理性に従った善」ということになりそうですが、必ずしもそうとは言えないのです。
なぜかといえば、理性が理性として働く場面というのは、既に善のイデアに根拠付けられた場面だからです。
「理性」という言葉のうちに、既に善のイデアの存立が含意されている、と言い換えてもいいでしょう。
つまり、もしその”理性”なるものが善のイデアに根拠付けられていなかったとすれば、それは既に理性ではなく、
単なる「悪知恵」である可能性があるということです。
善のイデアではなくて、世人に善いと思われている事柄(身体的快楽や金銭、自己保存等)に導かれた思考・計算もまた、
ある意味では理性的と呼ぶこともでき、クリトン流の思考はこの種の(偽)理性的思考に基づいています。
しかし、ソクラテス・プラトン流の「理性」(nous)は、
身体的快楽や自己保存等、自己の付属物に導かれた状態にあるものではなく、
むしろ、そうした自己の付属物から離れ、「魂が魂だけになった」状態にあるものです。
この状態にあるとき、その魂の目に見えるものは、プラトンに言わせれば「イデア」に他ならず、
とすれば、先述のように、世人に善いと思われることではなくて、
ロゴスによって熟考した結果善いと判断された「あり方」(法に従って振舞うというあり方(生き方))は、
イデア的対象に他ならない。
自己保存や身体的快楽とは独立的に、法に従って振舞うというあり方は、
魂の目が自己の付属物から離れた場面で「見られたあり方」であるという意味で、イデア的対象であるように思われます。
なぜ、「あり方」が「生き方」になるのかといえば、人間にとって、存在するとは生きることだからです。
また、なぜソクラテスがそのあり方を選んだのかと言えば、そのあり方が「善いから」であり、
この「善いから」の「から」という部分に、「善」が「あり方」を規定する「存在の根拠」であることが現れているのです。
また、この種の善は、魂が魂だけになった場面で働く善なので、
それは自己保存のために善いといった種類の善とは異なり、
善のイデアと考えることができます(善のイデアをこんなに簡単に規定してしまってよいものかどうかは、さておき)。

さて、もしそうだとすると、先述の岩田氏の解釈と私の解釈との最も大きな違いは、
「善は存在を超越する」というときの、「存在」の意味内容であることになります。
岩田解釈によれば、この「存在」は、自己保存的思考がはたらく場面での「あり方(生き方)」であるのに対して、
私の解釈によれば、件の「存在」は、魂が、自己保存等、自己の付属物から離れ、
魂だけになった場面で現れる「あり方(生き方)」のことです。
つまり、岩田解釈では、「存在」はイデア的対象ではないのに対して、
私の解釈では、「存在」はイデア的対象であるという点で、両解釈は異なる、ということです。

私の見るところでは、
イデアが感覚的事物から「離れてある」(離在している)と言えるとすれば、
それは、魂が魂の付属物から離れた状態にあるということと連動する事態であり、
そのように魂が自己の付属物から離れた状態で、魂だけになって見るものが、イデアであるように思えるのです。
善そのもの、大そのもの、美そのもの、と言われる「そのもの」(auto)とか、
大それ自体等における「自体」(kath ' hauto)とは、
魂の付属物との関連抜きに、という意味(別のものとの関連(pros allo)なしに、という意味)であるように思えます。
その意味で、そうしたイデアの存在は、感覚的世界から”離在”し、感覚的事物から”超越している”。
そして、そのように魂の付属物から自らを引き離すことが、口で言うほど容易なことではないという意味で、
われわれがイデアを見るのは難しいのでしょう。
たとえあるときにはそれを見たとしても、すぐにわれわれは自己保身等、魂の付属物に引きずられてしまうから。
そのように把握・到達困難で感覚的事物から離れてあるイデアの存在を、さらに根拠付けるのが善のイデアであるとすれば、
善のイデアの超越性は、一般の諸イデアが感覚的事物から離在するという意味での超越性とは別種の超越性なのでしょう。
岩田氏の解釈は、この善のイデアの超越性と一般の諸イデアの超越性とを混同するものであるように私には思えます。
したがって、私は、レヴィナス解釈ではなくてプラトン解釈としては、
魂が魂だけになった場面で現れる「あり方(生き方)」を根拠付けるのが「善のイデア」であると考え、
その意味で「善は存在を超越している」と考えるのが妥当ではないかと思います。

もっとも、岩田氏自身、プラトンの思想をレヴィナスが「受け継いでいる」と言っているだけであって、
それをプラトン解釈として提示しようというつもりはないのかもしれませんが・・・。
by matsuura2005 | 2004-02-17 16:59