管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 15日 ( 1 )
哲学講義15 - プラトン(3) プラトンの生涯 -
今回は、プラトンの生涯についていくつか述べることにしますが、
そのために、まずソクラテスの生まれと生活を瞥見することから始めることにします。

ソクラテスは、紀元前469年1月、
アテネから徒歩30分のリュカベットスの丘にある市外行政区アロペケで生まれた。
ソクラテスの家族は中産市民階級のゼウギタイに属していた。
父親のソーフロニスコスは彫刻家もしくは郊外の石屋をしており、
母親のパイナレテーは産婆をしていた。
中産市民階級に生まれたソクラテスは、ごく普通の学校教育を受けたと考えられる。
50歳頃、クサンティッペと結婚し、ランプロクレスという長男をもうけた。
ソクラテスにはもう一人妻がおり、ミュルトーといった。
ミュルトーとの間には二人の息子ソーフロニスコスとメネクセノスをもうけた。
結局、三人の子供をソクラテスは持ったことになる。
おそらくは後世の作り話であろうが、
クサンティッペとソクラテスの関係については、次のような話が伝わっている。
クサンティッペの気性も手伝って、夫婦喧嘩が絶えず、
ソクラテスはクサンティッペにバケツ一杯の水を浴びせられたこともある。
それは、ソクラテスが外では青年を相手によく喋るのに、
家の中ではクサンティッペとほとんど話しをしなかったからだ、とも言われている。

このように、ソクラテスは、ごく普通の庶民の生活を営んだ人と考えられますが、
これに対して、プラトンは貴族の家系に生まれ、かなり特殊な環境で生きた人と言うことができます。プラトン(本名アリストクレス。プラトンはあだ名)は、
父アリストンと母ペリクティオネの息子として、紀元前428/7年頃生まれたと考えられている
(ペリクレスの死後一年以上後、ゴルギアスが最初にアテネを訪れる直前)。
父方の家系には、アテナイ最後の王コドロスがおり、これはポセイドン神から出ていると考えられていた。
母方の家系には、七賢人の一人ソロンの兄弟ドロピデスがおり、これがプラトンの曽祖父であった。
母の従兄弟にクリティアス、弟にカルミデスという人物がおり、
彼等は、ペロポネソス戦争(BC431-404)後に樹立された三十人政権(BC404-403)の構成員となった。
ペリクティオネはグラウコン(I)を父とし、
アリストンとの間に、アデイマントス、グラウコン(II)、プラトン(アリストクレス)の三人の息子をもうけたが、
アリストンが亡くなったため、ペリクレスと親密な関係にあったピュリランペスと再婚し、
アンティフォンという息子をもうけた。

こういうたとえがどこまで適切かわかりませんが、
プラトンは、23歳頃、自分の叔父(カルミデス)が政府の閣僚になり、国政を動かすことになったわけで、
その意味で、現代アメリカでいえばケネディー一家のような家系に生まれ育ったということになるでしょう。
こうした上流階級に生まれたプラトンが、
自ら政治家になって社会を導いていこうと考えたのは、ごく自然なことでした。
しかし、プラトンは、結局、政治家になることを断念し、哲学の道を選ぶことになりました。
それはなぜかといえば、大きく言えば、二つの理由があります。

一つは、上掲のクリティアスやカルミデスが参加した三十人政権の挫折です。
アテネを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間で勃発した
ペロポネソス戦争が進むにつれ、特にペリクレス失脚・病没後のアテネ民主制は道徳的に腐敗し、
デマゴーグ(煽動政治家)が政治を支配する衆愚政治に堕していました。
この時期、民主派と内部抗争を繰り広げていた寡頭派は、
ペロポネソス戦争終結を機に、スパルタの力を借り、
民主派をおさえて三十人政権を樹立することに成功しました。
この政権は、「籤(くじ)で選ばれた無知な大衆が政治を行うべきではなく、少数の知者が行うべきである」、という
寡頭政治(オリガルキアー)(クリティアス本人によれば、貴族政治(アリストクラティアー))の理念に
基づいていたのはよかったのですが、
多くの人々を処刑するなど、単なる恐怖政治に傾いていきました。
特に、サラミス島へ避難していた民主派のレオンを死刑にするために強制連行する際、
他の人々と一緒に正義の人ソクラテスを差し向けようとしたことは、
プラトンにとって「憤懣やるかたなく、当時の悪風から身を引く」(『第七書簡』325a)
のに十分な理由となりました。
結局、このような恐怖政治が長続きするはずもなく、8ヶ月で民主派によって軍事的に転覆され、
政権を主導したクリティアスやカルミデスは、前403年、ペイライエウス港付近にあるムニキアの丘で
非業の死を遂げることになりました。
自分の親戚が主導した政権、しかも、その理念にはプラトン自身共鳴していた政権が、
このような形で挫折するのを見て、プラトンは、政治の道へ進むのをためらわざるをえなかった。

プラトンが政界へ進むのをやめたもう一つの理由は、
上述の経緯によって回復した民主制の下で、ソクラテスが死刑にされたことです。
つまり、先にも述べたように、三十人政権の治世下で、
民主派のレオンを強制連行するようにという命令をきっぱりと拒絶し、
いわば民主派の味方をしたソクラテスを、民主派自身が、不敬罪等ソクラテスに似つかわしくない罪状で告発し、
これを死刑にしてしまった。

このように、現実の国政のいずれもが悪政となっているのを目の当たりにして、プラトンは、
「正しくしかも真実に哲学している種族の人々が政権につくか、
諸々の国家の中で権力を持っている種族の人々が、
何か神的な運命から真実に哲学するようになるかするまでは、
人類が諸悪からまぬかれることはないだろう」(『第七書簡』326a-b)
と考え、現実の政治の世界に進むのをやめて、哲学の世界に入ることになったのです。

哲学の世界に入るに際して、
理想国家の建設を夢見てか、学園アカデメイア(後述)を開くための資金調達のためにか、
なんらかの思惑をもって、プラトンは、
南イタリアのシケリア島(現在のシシリー島)にあるシュラクサイを訪れました(前388年 第一回シケリア旅行)。
当時のシュラクサイはディオニュシオス一世の治世で、僭主政治をしいており、
その凡庸さにプラトンは幻滅したのですが、ディオニュシオスの義弟ディオンは、
プラトンがそれまで出合った青年の中で最もすぐれた資質を持っていると思えた。

シケリアから帰ったプラトンは、前387年(40歳)頃、
アテナイ北西の郊外にあるアカデモスの森に学園を開きました。
これがアカデメイアと呼ばれる学園であり、
数学・幾何学・音楽などを中心にした哲学教育が、ここで共同生活に基づいて行われはじめました。
以来、紀元後529年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスの異教思想教授禁止令によって学園が閉鎖されるまで、
約900年にわたって続き、その間、古代地中海世界の学問に大きな影響を与えました。
この「アカデメイア」という名前は、今日、「アカデミー」、「アカデミック」という形で受け継がれています。

プラトンとディオンとの親交はその後、前353年にディオンが死ぬまで続きました。
プラトンは、前367年、ディオニュシオス二世が即位した頃、
また、前361年には、哲学に熱心になってきたというディオニュシオス二世の要請を受けて、
シケリアへ向かっています。合計三回シケリアへ行ったことになります。

ところで、この第三回目のシケリア旅行の折にプラトンがどのように考えていたのかを見ることは、
プラトン哲学のおそらくは核心部に触れることになると思えるので、ここで少しそれを見ておきましょう。

「わたしは到着すると、まずこのことを第一に吟味しなければならぬと思いました。
つまり、ディオニュシオスは、本当に哲学によって、いわば火をつけられているのか・・・
こうしたことについて試験する(peiran lambanein)方法が一つあります。・・・
生半可な知識(parakousmaton)で頭の中が一杯になっている人々にふさわしい方法です。
・・・そもそもの課題が全体として何であり、・・・どれだけの労苦が伴うものなのかを示すこと」です。
「それを聞いた人は、もしその人が本当に哲学者である場合には、・・・驚くべき学びの道を教わったと思う」。
「他方、本当は哲学者ではない人たちは、・・・自分にはできない」と考え、
「全部充分に聞いたのだと自分で自分を説き伏せて、
もはや何一つの作業も求めなく」なる(『第七書簡』(340b-341a))。

ディオニュシオスは、まさにこの後者の典型であり、
多くの事柄について既に自分はもう充分に学び、わかっていると考えていました。
そして、それだけでなく、プラトンから聞きかじったことについて書物を著したといいます。
この点について、プラトンはこう述べています。

「私が真剣になっている事柄について、・・・知っていると称するかぎりの、
すでに書物を書いたか、これから書こうとしているすべての人たちに向かって、
確かにこれだけのことは言えます。
これらの人たちは、・・・その事柄について(peri tou pragmatos)、何もわかっていない。
実際、少なくとも私の書物は、それらの事柄については、存在しないし、生じることも決してない。
というのは、それは、ほかの学問のようには、言葉で語りうるものでは決してなく、むしろ、
その事柄そのものについて数多くの対話(synousias)を重ね、 共に生活することから、
突如として、あたかも飛び火によって点ぜられた光のように、魂のうちに生じるものであり、
以後は、生じたものそれ自身がそれ自身を養い育ててゆくからです。」(『第七書簡』(341c-342a))

プラトンのこの発言、特に、「私の書物は、それらの事柄については、存在しない」、
「言葉で語りうるものではない」というくだりには、注意を払う必要があるでしょう。
プラトン自身が真剣になっている事柄は、対話篇の中には書かれていないということになるからです。
この発言をどう受け止めるべきか、解釈の分かれるところですが、私としては、どちらかというと、
文字通り、「言葉では語りえないもの」にプラトン自身は真剣になっていたと考えることにします。

実際、前回述べたように、
プラトンの対話篇の多くがアポリアに終わっていることを「試し」(ペイラ)と解する場合でも、
それは、おそらく、言葉では語りえないものを把握するためのハードルの一つにすぎないのでしょう。
そのハードルを越えたからといって、
それでプラトンが真剣になっていたものが何であるかがわかったということにはならない。
もしプラトンの哲学の内容を充分に理解しようとするなら、プラトン自身が述べているように、
共同生活をしながら、その事柄について何度も話合うことが必要になるのでしょう。

こうしてプラトンは、先に触れたアカデメイアという学園で、独自の哲学教育を行い、
プラトン流の仕方で、理想国家の建設を試みたのかもしれません。
おそらくは、その一環としてさまざまな対話篇を書いたのでしょう。
最後は、『法律』という未完の対話篇を書きながら、静かに息をひきとったそうです(BC347年)。


参考文献
荻野弘之『哲学の饗宴』(NHK出版)
納富信留『プラトン』(NHK出版)
R.S.ブラック『プラトン入門』(岩波文庫)
ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語 ギリシア哲学史II』(而立書房)
J. Burnet, Greek Philosophy I, Macmillan.(by Questia Online Library(有料))

テキスト・翻訳
Platonis Opera V, OCT.
J.M.Cooper (ed.), Plato Complete Works, Hackett
『プラトン全集』14(岩波書店)
by matsuura2005 | 2004-02-15 16:56