管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 14日 ( 1 )
哲学講義14 - プラトン(2) 対話篇の性格 -
プラトン哲学の特徴をつかむために、今回は、主に、プラトンの著作の性格についてお話します。著作の性格などと言われると、プラトン哲学の中身にはほとんど関係ないのではないか、と思われるかもしれませんが、たぶん、そのまったく逆です。今回書くことは、プラトン哲学を理解する上で、決定的に重要な意味を持っていると私は考えています。


プラトン哲学を勉強しようとする時、
たいていの人は、まず、プラトンの著作を読むことに向かいます。
それで一向に差し支えないわけですが、
私に思われるところでは、プラトンの思想を理解しようとする場合には、
ただ単にプラトンの著作を読むというだけでは不十分であり、
プラトンがどういうつもりで自分の著作を書いているのかを、
多少なりとも踏まえた上で読む必要があります。
そうしないと、個々の著作内容を理解する上で、
ほとんど致命的な誤りを犯すことになるように思います。
なぜかというと、これから説明しますように、
プラトンは必ずしも自分の考えを対話篇の中に書くとは限らず、
むしろ、それを書かないことが多いと考えた方がよく、
その書かなかったことを読者が読み解くことができるかどうかを見るという意味で、
プラトンは読者を「試す」ために著作を書いている、と私には思えるからです。

プラトンの著作の多くは対話篇形式(一種の戯曲形式)で書かれており、
勇気とは何か、知識とは何か、等々の仕方で、問題が設定されます。
そして、長い間議論した結果、
結局、その問題に対する答えが見つからないまま、対話篇は終わってしまいます。
ですから、それを読んだ人の第一印象は、
「何なのこれ?」「何が言いたいの?」という類の感想になることがほとんどです。
もちろん、これだけのことではありませんが、今は話を単純化して言いますと、
こうした困惑の感想、これを今仮に「アポリア」という言葉で表現しておくことにしますと、
この「アポリア」の感想を抱くことになるのも、
私に言わせれば、プラトンの対話篇が持つ次の性格を踏まえていないからなのです。

「プラトンの提示するアポリアは、
スフィンクスのかけた謎に似て、
それを解いたオイディプースだけがテーベ市の中に入っていくことができたのと同様に、
プラトンの想定している仕方でアポリアを解いた者だけが、
プラトン哲学の内部へと入っていくことが許される、
そうした入門的な性格を持った「問題」である。
従って、スフィンクスのかけた謎に「人間」という答えが用意されていたのと同様に、
対話篇に示されるアポリアの解答を作者プラトンは想定しており、
しかし無論それは対話篇に明記されておらず、
読者自身がプラトンの考えに即してその解答を得ることを要求されている。」

要するに、プラトンの対話篇に現れるさまざまな「アポリア」は、たとえて言うなら、
アカデメイアというプラトンの建てた学校へ入るための「入学試験問題」のようなものであり、
その「問題」をどういう仕方で解くか、あるいは、解かないかで、
その読者がどういう種類の人間かが試されているということです。

たとえば、
「ソクラテスは美しい青年を好む」そうだ。
となれば、「ソクラテスはホモセクシャルだ」。
すると、ソクラテスは口では魂を配慮せよと言っておきながら、
実際には、身体の方を配慮していることになるが、
これは一体どうしたことだ。

もしこの種のアポリアが対話篇中に明示的に書かれていた場合、
読者がしなければならないのは、
「対話篇に書かれている通りにソクラテスを眺めること」ではありません。
読者がしなければならないのは、
次のように、ソクラテスやプラトンの意図は何かと自分自身で考えることです。

対話篇登場人物は、「ソクラテスは美しい青年を好む」という言葉から
ただちに「ソクラテスはホモセクシャルである」という結論を導き出している。
しかし、その結論を導くにあたって、この登場人物は、暗黙のうちに、
「美しい」という言葉を「身体が美しい」という意味に理解している。
つまり、
「美しい青年を好む」⇒「身体の美しい青年を好む」⇒「ホモセクシャル」
ということである。
しかし、「美しい青年を好む」といわれているからといって
ただちに「身体の美しい青年を好む」とは言えない。
なぜなら、「美しい」という言葉には、
「身体が美しい」という意味と、「心が美しい」という意味があるからだ。
むしろ、ソクラテスが繰り返し「魂を配慮せよ」と言っていることからすれば、
それを「心が美しい」という意味に解するのが自然であろう。
そう解すれば、
「ソクラテスは美しい青年を好む」という言葉は
「ソクラテスは魂の美しい青年を好む」という意味であることになり、
ソクラテスはやはり魂を配慮していることになる。

何か、このような仕方で、対話篇に現れるアポリアを、
プラトン・ソクラテスの思想に即して解消すること、
このことを読者は作者プラトンから求められている、と私には思えるのです。

もう一つ、今度は、「哲学は死の練習」という言葉を例に挙げて説明しましょう。
この「哲学は死の練習」という言葉にしても、
「死」を「身体から魂が分離すること」と理解するところまではいいとしても、
それは物理的な意味での死を練習する(自殺を試みる)ということではなく、
たとえば、
「あいつは哲学なんてことに熱中しているが、
そんなことをしていれば、
この世の快楽・富などの享受からほとんど遠ざかってしまい、
それはほとんど「死んだも同然」だ」
というような文脈で使われる「死」なのです。
たとえば、快楽、富という言葉が、二義的であることに注目しましょう。
快楽や富という言葉を、各々、身体的快楽、金銭という意味に解すれば、
哲学者は「死」を試みていることになります。
しかし、それらを、精神的快楽、心の財産という意味に受け取れば、
哲学者は「生」を試みていることになるでしょう。
なぜなら、哲学者は精神的快楽や心の財産を増やそうと試みているわけですから。
したがって、ソクラテスの言う「哲学は死の練習」という言葉は、明らかに「イロニー」なのです。
死という言葉を、物理的な意味での死と解するか、精神的な意味での死と解するか、
このことが試されているということです。
もし物理的な意味での死と解するなら、
つまり、物理的な場面で魂が肉体から離れるという意味に解するなら、
ソクラテス自身は死を練習などしていない。
ソクラテスは自殺を神によって禁じられたものと理解しています。
他方、死という言葉を、精神的な意味での死と解するなら、
つまり、精神的な事柄として魂が肉体から離れるという意味での死、
自分の関心を物体的なものから引き離すという意味での死と解するなら、
ソクラテスは死を練習している。
それゆえ、哲学は死の練習という言葉を聞いた人がそれをどう理解するか、
その理解によって、聞き手の思考の基盤に何があるかがわかる。
聞き手が無意識のうちに何に関心を持っているのかがわかるのです。

もちろん、以上は、対話篇に現れるいろいろな種類の「アポリア」の扱い方に関する説明であり、
もともとアポリアでないものまで無理やりアポリアとして読む必要はありません。
しかし、対話篇を読んでいて「困った」時、
何が言われているのかよくわからないとき時、
あるいは、どうしてこんなことをプラトンは書いたのかと思えるような時、
そういう時には、往々にして、上記の「魂」と「肉体」、「魂」と「物体」といった、
「魂自身(真の自己)」と「魂の付属物」という対照を念頭におけば、アポリアが解消し、
対話篇作者プラトンが何を意図していたのかがわかる、
とだけは、これまでの私の経験から言えます。

従って、繰り返しになりますが、ある対話篇を読み、その中にアポリアが現れたとき、
そのアポリアに対して、「読者自身がどのような反応を示し、どのような答えを出すか」ということによって、
「その読者の思考の性質」が試されていると言えるわけです。
上の例で言えば、「美しい」や「死」という言葉を聴いて、
直ちに「美人」とか「身体的な死」を思い浮かべる私のような読者の思考は、
「身体」への関心を基盤として成り立っているわけです。
何かある対象が与えられたとき、その対象を、つい、そういうものとして見てしまうこと(salience)
その、ある種の習慣というか、常識的思考というか、自分の思考の中に直ちに入ってくるものというか、
当然視(taken-for-granted)というか、
そういうものから自分自身を引き離すことができるかどうか、
そうした仕方で身体的対象に「関心」(心がある対象に関わろうとする傾向と、ここでは考えておきます)
を持っている心の目を、身体以外のものへと向け変えることができるかどうか
このことを作者プラトンは、そのアポリアを書くことによって試しているのだと私は考えています。
実際、このことは、ソクラテスのエレンコス(論駁法)、産婆術、
プラトンのディアレクティケー(問答法)、魂の浄化(カタルシス)といったことと
密接な関係を持っていると思います。

プラトンの対話篇を読むときには、こうした点に留意して読むことが重要です。
この点をまったく念頭におかずに、ただ単に読んだ場合、
ほとんどは、プラトンの意図を根本的に見誤ることになるでしょう。
by matsuura2005 | 2004-02-14 16:54