管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 13日 ( 1 )
哲学講義13 - プラトン(1) プラトニック・ラブ -
プラトン哲学を紹介するにあたって、通常なら、プラトンの生い立ちや対話篇の分類から入るのでしょうが、その話をする前に、もう少し卑近なところから入ることにしましょう。プラトニック・ラブという言葉について説明することによって、プラトン哲学の基本的な特徴の一つを押さえることから始めることにします。


プラトニック・ラブを直訳すれば「プラトン的な愛」ということになるでしょうか。
この言葉はたいてい小学生高学年か中学生くらいになると、
一度や二度は耳にするものだと思います。
私が何時この言葉を初めてきいたのか、忘れてしまいましたが、まあそれはいつでもいいとして、ともかく、プラトニック・ラブという言葉の意味は、
肉体への愛を超越した精神的愛、というあたりに落ち着くことが多いのではないかと思います。
ソクラテスやピタゴラスについての話をしたときに、
できるだけ魂を肉体から分離する、魂の浄化、魂の配慮
といったことを述べましたが、
ソクラテスの弟子であるプラトンが、ソクラテスやピタゴラスと同様に、
魂の浄化ということを重視していたことに違いはありません。
ですから、プラトニック・ラブという言葉を今述べたような、精神的愛という意味に解することは、それはそれで間違いではないのです。
ただし、世の中にはちょっと誤解している人が多いようなので、
「ストイック」(禁欲的)という言葉と対比することで、
プラトニックという言葉をもう少し正確に理解しておきたいと思います。
プラトニックという言葉は、ストイックという言葉とは必ずしも同じ意味ではなく、それを包括するより広い意味内容を持っているということが、以下の話の要点です。

ストイックという言葉は、今述べたように、「禁欲的」というほどの意味ですが、
この言葉は、もともと、「ストア派」と呼ばれる、
ヘレニズム時代(BC323-BC31)の哲学の一派に由来します
(注:ヘレニズムという呼び名は、19世紀のドイツ人学者ドロイゼンによるもの。
また、ヘレニズム時代の年号は、
A.A.ロング『ヘレニズム哲学』(金山訳、京都大学学術出版会、2003年)の
「英語版第一版への序文」冒頭(xvi)にしたがっています)。

ストア派という言葉の語源は、この学派の開祖であるゼノンが、
アテネの街中の「柱廊(ストア)」でその講義をしていたのでこの名がついたと言われていますが、
そのストア派のゼノンに大きな影響を与えた学派の一つが、犬儒派(キュニコス派)です。
犬儒派の一人「樽のディオゲネス」については、既にお話しましたのでここでは繰り返しませんが、
要するに、なるべく欲望を抑えて質素に生きることを選んだ人たちのことだと理解しておけば、
当たらずとも遠からずでしょう。
その犬儒派の開祖アンティステネス(BCE.445ca〜365ca)がソクラテスの弟子の一人で、
ソクラテスがピタゴラス同様、魂を肉体から分離すること、魂の浄化、
魂の配慮といったことを説いていたことに影響を受けて、
それをいわば忠実に実践した人たちが、犬儒派ということになるのでしょう。
結局、ソクラテス⇒犬儒派(禁欲主義)⇒ストア派⇒ストイック(禁欲的)、という流れになるでしょうか。
その意味では、同じくソクラテスの弟子プラトンに由来するプラトニックという言葉を、
ストイックという言葉と混同する人たちが出てくるのも、ある意味で、当然といえば当然なわけです。

しかし、重要なのは、ソクラテスという人は、単に禁欲主義的傾向のみを持っていたわけではなく、
同様にまた、快楽主義的要素をも持っていたということです。
たとえば、ソクラテスは、酒豪であり、子供もいます。
酒にはめっぽう強く、他の人たちが酔いつぶれても、ソクラテスだけは平気だったとか。
このある種の快楽主義的傾向が、
キュレネ派(アリスティッポス)⇒エピクロス派(エピクロス)という形で
(語弊はあるかもしれませんが)受け継がれていったわけです
ソクラテス⇒キュレネ派⇒エピクロス派ということです。
(エピクロス自身は肉体的快楽を退け、精神的快楽を重視したので、
肉体的快楽を好む人のことを享楽主義者、精神的快楽を好む人を快楽主義者といって
区別することがあります)。

このほかにも、エレア派のパルメニデスの流れを汲むメガラ派という論理主義的傾向の強い学派
(開祖:エウクレイデス)もありますが、
この学派については、ここではあまり立ち入らないことにします。

プラトニック・ラブという言葉にまつわる話として、エロスの話があります。
『饗宴』という対話篇の中では、エロスという神が賛美され、
その一つに、有名なアンドロギュノス(両性具有)の話が出てきます(アリストファネスの演説)。
その話のあらましを述べると、次のようになるでしょう(189c2以下)。

太古の昔の人間の本性は、現在の人間とは違っていた。
そもそも性も男女の二つではなく三つの性があった。
一つは男、一つは女、もう一つは男女と呼ばれる種族で、この最後の種族がアンドロギュノスである
(「アンドロギュノス」という言葉は、男という意味の「アネール」という言葉と、
女という意味の「ギュネー」という言葉との合成語です)。
人間がこの三性から成っていた時代には、手が四本あり、足も四本あり、
顔もまったく同じものが二つ背中合わせになって、一つの首の上についていた。
その時代の人間はとても強く、神ゼウスに反乱を企てたので、
怒ったゼウスは、各々の種類の人間を真ん中で真っ二つに割ってしまった。
その後、人間は二本足で直立歩行をはじめ、
男の種族だった人間から、現在ホモセクシャルと呼ばれている人々の大部分が生じ、
女の種族だった人間からレズビアンの大部分が生じ、
男女の種族だった人間から、現在、男好き・女好きと言われる人々の大部分が生じるなどして、
各々、自分の「失われた半身」を求めて互いに結合しようとするようになった。

大雑把に言えば、こういう話です。
この話が何を意味しているのかという点については、
とても断定などできるものではありません。
いろいろな見方があって、一つには、たとえば、
人間は一人だけでは生きていけない、相互依存的なあり方をしているということをいっているのだ、
という見方でしょう。
つまり、人間が自分自身の本来のあり方を求めるとは、
失われた半身として自分のパートナーを求めることであり、その引力がエロスである、ということです。
この考えによれば、この前、私が知徳一致ということでお話した、「他者」との依存関係は、
プラトンは主題的には扱わないという話は、どうも違っていたということになりそうな、
なりそうでないような、微妙なことになるのですよ。
つまり、自分自身の「失われた半身」というのを、この話の通りに受け取ると、
いわゆる「恋人探し」という意味にもなりそうで、その場合には、他者を必要とする、
相互依存的なあり方を実現するという形での自己実現の系統の話に近づくわけですが、
他方、「失われた半身」を「自分の理想的な姿」という意味に理解すれば、
必ずしも恋人探しという意味ではなく、他者との依存関係というよりはむしろ、
自分がなりたいものになるという意味での自己実現に近づくわけです。
他方また、こうも考えられるのです。
つまり、もともとこのアンドロギュノスの話が何のためにされたのかを考えると、
それは、人間が神に逆らうとは傲慢だということを言うためであり、人間は傲慢であってはならない
ということだとすると、それは、どちらかというと、節度ある生活、節制、ということに近くなり、
となると、それは、「魂の調和」としての自己実現という話に近づいていきそうに思えます。

一体、このうちのどれなのでしょうか。
私には、このどれかだと今ここで断定することはできませんし、
また、ここに述べた以外の事柄が言われている可能性だってもちろん十分にあるでしょう。

さて、話が長くなりましたが、エロスの話はともかくとして、
言いたかったのは、はじめに要約しましたように、
プラトニックという言葉は、ストイック(禁欲的)という言葉とは必ずしも同じ意味ではないということ、
従ってまた、プラトニック・ラブという言葉も、
必ずしも身体的な愛を否定するものではないということです。
魂の配慮の妨げになるような仕方で肉体的な事柄を追求することが否定されているだけであって、
逆にまた、もし肉体的欲求を抑えることによって魂の配慮が妨げられるなら、
その抑制は、プラトン・ソクラテス的には、
あまりよろしくないということになるのでしょう。
「腹が減っては戦ができぬ」ではありませんが、
精神的活動をするために必要なだけの身体的欲求は満たす必要があり、
それを無理に抑えることはかえってよくない、と、ソクラテス・プラトンは考えていたということです。
以上、プラトニック・ラブというと、一般には、
肉体的快楽をまったく排除した形での愛という意味で理解されているように思えますが、
プラトン学者から言えば、それはストイックな愛のことであり
(こういうと、ストア派の専門家が何かぶつぶつ言うかもしれませんが)、
プラトン・ソクラテス自身はそこまで禁欲的な愛を勧めていたわけではないと思います。
ただし、ソクラテスと違って、プラトンは生涯独身でしたけれども。
by matsuura2005 | 2004-02-13 16:52