管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 12日 ( 2 )
哲学講義12 ソクラテス(3−2) 知徳一致(2)
前回でソクラテスの話を打ち切って、そうそうにプラトン・アリストテレスの話に移ろうと思っていたのですが、
前回書いた内容を見直していて、これはどうみても哲学以外のことを専門にした方々を対象とする哲学講義として片手落ちだと思えてきて、もう少し、その観点から徳とは何かという問題を追求してみたくなったので、そうすることにします。

そこで、話に入る前に、次の二点をあらかじめ断っておきたいと思います。
一つは、これから述べる事柄は、授業中に言ったことではなく、今、考えていることなので、
さしあたり試験や単位云々とは別枠で、興味のある方に読んでいただければ
それでいいということ、つまりは、「ご参考までに書いてみました」ということ。
もう一つは、これから述べる事柄は、ソクラテスやプラトンの考えというよりは、
むしろ、ソクラテス等の考えを私自身で受け取った上で、私自身の考えとして示すものなので
いわば「応用ソクラテス」というかなんというか、
ともかく、ソクラテスの思想の純正品ではないであろうということです。

そこで、まず、前回の内容を簡単に振り返ることから話をはじめることにします。

ソクラテスによれば、徳は知であり、知が自己知である以上、徳は自己知でした。
そして自己知という場合の「自己」が「魂」なので、
結局、真の自己のあり方を知ることは自分の魂のあり方を知ることであり、
それが徳であるということになります。
また、前回は、真の自己が自分自身の本来的なあり方(ピュシス)と解され、
だから、徳とは自分自身の本来の姿を知ることなのだ、
だからまた、「徳とは何であるか」の答えは
「徳とは自分自身の本来の姿を知ること」なのだ、という筋の話をしました。

さてそこで、ここからは前回は書かなかったことですが、
自分自身の本来の姿、魂の本来の姿がどういうものかということについて、
プラトンやソクラテスは、おそらく、というか、十中八九、こう言うと思います。
すなわち、魂には理性的部分と気概的部分と欲望的部分があって、
理性的部分が他の二つの部分をコントロールすることによって、魂の調和が保たれ、
その調和した状態にある魂こそがその本来のあり方である
(『国家』 魂の三部分説、『パイドロス』 馬の比喩)。
だから、真にめざすべきは、
単に、大工は大工の仕事をし農夫は農夫の仕事をするというような
外面的な意味で「自分自身のことをする」ということではなく、
魂の各々の部分が自分自身の仕事をし、他の部分に余計な手出しをしない、
「魂の調和」という内面的な場面で「自分自身のことをする」
(自分自身(魂)の本来のあり方を達成する)、ということである、と。
この意味での「自己実現」が
ソクラテス・プラトン流の「自己(魂)の本来的なあり方の実現」なのでしょう。

となると、少なくともその限りでは、
ソクラテス・プラトン流の自己実現と、一般に世間で言われている「自己実現」とは
必ずしも直接的にはつながらないということになりそうです。
世間で言われている自己実現は、どちらかというと、「自分の生き方は自分で選ぶ」とか、
「プロ野球選手になることが私の自己実現(夢の実現)だ」という種類の、
ソクラテスやプラトンにいわせれば、
「外面的な意味での自分自身のことをすること」に近いからです。
もちろん、ソクラテス等が内面的な意味での自己実現を重視する理由はわかります。
なぜなら、たとえば、オリンピック選手になって金メダルをとり、自己実現を果たしたとしても、
それだけでその人を、「有能な選手」とは呼んでも「有徳な選手」とは呼ばないでしょうから。
金メダルをとっても、実生活で悪いことばかりしていては、有徳とはいえない。
同様にまた、優秀な外科医は、「有能な外科医」であることは確かですが、
それでただちに「有徳な外科医」になるわけではありません。
有徳であるためには、その人の心の中が「調和」していなければならないからです。
その意味で、「外的な意味での自己実現」と「内的な意味での自己実現」との間に
ギャップがあることは確かであり、プラトン・ソクラテスが重視しているのは、
「内的な意味での自己実現」、すなわち「魂の調和」の方なのです。

しかし、仮にそうだったとしても、
それで直ちにソクラテス流の「魂の調和」「内的自己実現」に納得できるかと言えば、
少なくとも私はそうではありません。
というのは、プラトンやソクラテスが、
「魂の調和」とか「自分自身に打ち克つ」「節制する」というときのその意味が、
具体的には、どういうことなのか、いまひとつはっきりしないからです。
もちろん、不必要なまでに華美な服を着たり、美食を追求したり(グルメ旅行)、
性欲に溺れたりしない、という類の具体例ならば、
プラトンの対話篇を見ればそこらじゅうに転がっています。
その意味では、そうした具体例を節制等の例と見ることも考えられます。
そしてまた、もちろん、「魂の調和を達成すること」が
「自己自身(魂)の本来的なあり方を達成すること」なのでしょう。そのことは私もそう思う。
しかし、そこから直ちに、「だから美食をするな」とか何とか言われても、
それは私にはただの「お説教」としか聞こえず、少なくとも私にはほとんど説得力がない。
理論(魂の調和等)と具体例(美食云々)とのつながりが、私に言わせれば、弱いということ、
いくらでも反論できそうに思えるということです。
たとえば、「何をもって『不必要』と判定するのか?」とか、
「年に何回までならおいしいものを食べても美食追求とみなされないのか」
という類のことです。つまり、味覚など、人によって異なり、
服装にしても、どういう服装を「華美」と思うかは人によって変わってくるのでしょうから、
「美食を慎め」とか「質素な服装に」とか言われても、
具体的にどこまでが質素なのか、どこまでが美食なのか、基準が明確でないということになる。
あるいは、もっと言えば、これはほとんど揚げ足取りですが、
質素な服装をして働けばそれでただちに有徳な看護師になれるのか、
グルメ旅行にいきさえしなければそれでただちに有徳な看護師になれるのか、
週に一度座禅を組みさえすればそれでただちに有徳な看護師になれるのか、
といえば、おそらくそうではないでしょう。

だから、私としては、もっと私自身にとって説得的な例、基準がより明確になる例をもって
「魂の調和による自己実現」ということを私自身に向かって説明することが必要になる。
だから、私は、自分自身にとって説得的な例を考えることで、
ソクラテスやプラトンの提示している魂の調和や節制ということを考えてみる、
ということです。
実際また、この場は、古代ギリシア哲学の学会や研究会の発表の場なのではなくて、
医療系の大学の哲学講義という場なのですから、
ただ単に、ソクラテスがどう考えたかだけを問題にするよりは、
むしろ、ソクラテスの思想をどう医療現場に生かすことができるのかを考えることの方が
重要であろうと思えます。

そこで、私は、次の例で考えて見ることにします。
つまり、「自分が人の役に立つかどうか」、ということです。
このことによって、魂の調和(内的な自己実現)が得られるとともに、
「自分の仕事」(外的な自己実現)を見出すことにつながるように思えるからです。

自分が他の人のためにしたことに対して、その人が好意的な反応を示してくれたとき、
自分がそこにいる意味があったと思える。
自分の存在意義は、自分の行為が他の人に認められることによって確立する。
自分のしたことが周囲の誰にも好意的に受け入れられなかったとき、
自分がそこにいる意味はないと思える。
その意味で、自分の存在根拠は、他者から受け入れられることにあるといってもいい。
ひとたび自分の存在意義が確立すれば、つまり、自分がそこにいる意味があると思えれば、
自分の心は穏やかになり、むやみやたらと周囲の人に対して競争心を抱いたり、
敵対心を抱いたり、悪意を抱いたりすることはなくなる。
この状態が、自分の魂が調和のとれた状態にあるということなのだと私には思える。

いたずなら競争心は、おそらく、魂の欲望的部分の暴走の一つの表れであり、
何が何でも自分を主張する等の形で、(厳密にどうかはさておき、)
最終的には、エゴイズムへと通じていくように思える。
そうしたエゴイズム、いたずらな競争心が生じることになった大もとの原因は、
私の見るところでは、自分の存在が周囲に認められなかったことであり、
だからこそ、自分の存在を是が非でも周りに認めさせようとすることになる。

あるいは、逆に、自分の行為・振る舞いが認められないこと、無視されること等によって、
自己主張の反対、他人から距離をとるという方向へ走るということもありうるだろう。
意気消沈というかなんというか、ともかく「やる気」がなくなり、「どうでもいい」と思うようになる。
プラトン・ソクラテス的な枠組みで言えば、気概の欠如というかなんというか、
いずれにせよ、魂が調和した状態にはない。

だから、繰り返しになるが、私には、
自分のしたことが他人の役に立ち、他人がそのしるしを送ってくれたことによって、
自分の魂の調和が保たれ、心おだやかに人と接することができるようになるように思える。
この状態が、私に言わせれば、ソクラテス・プラトン流の「内的自己実現」である。

そして、そうした経験が、ある特定の分野や職業の中で繰り返されるとき、
その分野や職業が「自分に向いている」「自分に合っている」と思えるようになる。
それが、私の見るところでは、
ソクラテス・プラトン的な枠組みでの「外的な自己実現」へと通じている。

このように、ソクラテス・プラトン流の「内的自己実現」と「外的自己実現」とは、
「他人の役に立つこと」を媒介にしてつながっており、
その状態で行われた行為が「有徳な行為」なのだろう。

だから、内的であれ外的であれ、自己実現の指標になるのは、
自分のしたことが他人に喜んでもらえるかどうかということ、
自分がそこにいることを有意味であると思えるかどうかということ、
自分がそこにいる理由を見出せるかどうかということ、
あるいは哲学者風に大げさに言えば、
自分の存在根拠を見出せるかどうかということ、である。
これが「自己実現」ということの意味、
ソクラテスの「知徳一致」の思想をもとに、私なりに考えた自己実現の意味である。
実際、自分が他人のためにしたことがその人に喜んでもらえるとわかれば、
自分は喜んでそれをするであろう。
そうすることで自分はそこにいてもいいのだということがわかるのだから。
何が善いことかを知っていれば、必ずその何かをする。
このことが知徳一致だというのであれば、
私がここにあげた例も、一種の知徳一致であろう、と私は言いたい。

(ただし、患者の気持ちを数値であらわそうとするいわゆる「満足度調査」は、
哲学史概観の末でも述べたように、あきらかなカテゴリーミステイクなので、
そういうものにたよって患者の気持ちをはかろうとしても、
少なくとも患者の立場からは、
あまり意味がないということは覚えておいたほうがいいと思う。
満足度があがってよろこんでいるのは、患者というよりは医療者であろうから。
私が患者だったときの経験からそう言える。)

さて、以上で話は終わりなのですが、
もちろん、これだけでは話が単純すぎると言われるでしょうし、それは多分その通りでしょう。
また、もしここで私が述べたことが、
プラトンの対話篇の中の私が忘れてしまったどこかに書いてあったとしても、
それはそれで構わない。むしろ、私が今日考えたのと同じことをプラトンも考えていた
ということがわかり、私としては「うれしい誤算」というところです。
ただし、田中伸司さん(静岡大学助教授)の
「他者を問うことをめぐって −古代ギリシャ哲学、とくにプラトンの対話篇から見えてくること−」
静岡大学哲学会『文化と哲学』第二十号(二〇〇三年)
によれば、「他者を論じないプラトン」とあるぐらいですから(五十一頁)、
プラトンの対話篇の中に上述の私見が明示的に見出される可能性は薄いと思います。
また、私は心理学等の研究者ではないので、
エゴイズムということが心理学等の分野でどういう扱いを受けているのかについては、
考察の対象外としています。ここでは、私がどう思うかを述べているだけです。)
by matsuura2005 | 2004-02-12 16:51
哲学講義12 -ソクラテス(3)  知徳一致(1)-
前回はソクラテスについて、特に無知の知と自己知について話しました。今回の話もそれと密接にかかわるのですが、さしあたり、「哲学は死の練習」 (へー フィロソフィア メレテー タナトゥー)をメインテーマに掲げておきます。

この思想は、ピタゴラス派の輪廻転生や魂の不死という点にかかわります。
というよりはむしろ、ピタゴラス派のこの思想そのものが、
ピタゴラスより後の時代のプラトンの対話篇の中で、
対話篇登場人物であるソクラテスの口を通して語られるといった方が、真実に近い。

もちろん、プラトンよりもっと後の時代の人々もピタゴラスについて語っているわけで、
そういうもろもろの資料を総合して、ピタゴラスはこういうことを考えていた、と推定されている、
と言っておいてかまわないでしょう。

ソクラテスもまたピタゴラス同様、自分では一言も著作を書きませんでした。
ピタゴラスは書かなかったのではなくて
書いたものが残っていないだけだという考え方もできますが、
ソクラテスの場合は、文字通り、何も書かなかったと考えておいたほうがいいでしょう。

したがって、ソクラテスについての話は、私のこの講義だけでなく、
ほかのどんな人の講義・書物の中で語られていることも、すべては推定・解釈にすぎません。
それは現代においてそうであるだけでなく、古代ギリシアでもそうだったわけで、
いろいろな人がいろいろなことをソクラテスについて語っていますが、
それはどれもみな、ソクラテスについてのその人の見方を反映した「解釈」にすぎません。
しかし、その中で、
ソクラテスの弟子の一人であるプラトンの書いたさまざまな対話篇の中に登場するソクラテスが、
そこで語っている通りのことを実際にソクラテスが語ったかどうかということは別にして、
少なくとも、内容的にはソクラテスの思想の核心を表現していると考えることが多く、
私もそう考えてかまわない、というよりはむしろそう考えるべきだ、と思いますので、
プラトンの対話篇の中で語られるソクラテスの考えを、ソクラテスの思想として紹介するわけです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、要するに、「哲学は死の練習」、「霊魂不滅の思想」
「輪廻転生」等々の考えは、この通りのことをソクラテスが語ったかどうかは別にして、
少なくとも、ソクラテスの思想の核心を表現したものであると考えられる、ということです。

では、ソクラテスの言う「哲学は死の練習」とはどういう意味なのでしょうか。
まとめて述べれば、次のようになるでしょう。

ソクラテス(もしくはプラトン)は、おそらく、主にピタゴラス派を通じて、
輪廻転生や魂の不死の思想に触れた。
あるいは、オルフィック教という民間信仰を通じてだったかもしれない。
いずれにせよ、輪廻転生とは、先にピタゴラス派について説明する際に述べたように、
生まれ変わりの思想であり、その場合の「死」とは「魂が肉体から離れること」だった。
ここで、前回述べた自己知ということと密接にかかわるのは、
ソクラテスにとって「魂」とは「自己自身」、「真の自己」のことであり、
逆に、「肉体」とはそうした真の自己とは異なるもの、
自己の「付属物」、「飾り」にすぎないものだったということである。
だから、魂が肉体に入ってくること、つまりこの世に生まれてくることは、
魂が自分にとって飾りに過ぎない「衣装」を身にまとうことであり、
逆に、魂が肉体から離れること、つまり「死」とは、飾りである衣装を脱ぎ捨てることだった。
こうしてあたかも何度も衣装を取り替えるように肉体を取替え、魂は永遠に生と死を繰り返す。
しかし、このように輪廻転生を繰り返している限り、
魂はたとえ一度肉体を離れ、真の自己自身に戻ることができたとしても、
再び自己の付属物の中に入ってこなければならない。
それは真の自己ならざるもの、魂の墓場に結局は戻ってこなければならないようなものである。
だから、魂はなるべくその墓場から外に出て、
自分自身だけになるようにつとめなければならないし、
魂が本当に求めているのは、その魂が各々の時に何に目を向けているにせよ、
魂だけになって暮らすことである(浄福の人々の住む島々で)。
これがつまり輪廻の輪から脱け出すこと、解脱であった。
魂は本当はこの解脱を求めている。だから、肉体の中に入っているときにも、
なるべくその状態に近づけるようにすることが魂にとって本来的な活動であり、
そうすることで幸福に近づくことができる。

さて、ではその「解脱」が、つまり、「永遠の死」が、
あるいは、より正確に言えば、なるべくその「永遠の死」へと近づくことが、
なぜ「哲学」なのだろうか。

それはこの哲学講義2で述べた「哲学」という言葉の語義、
「愛知」の精神と密接にかかわっている。
すなわち、哲学という言葉はギリシア語の「フィロソフィア」の訳語であり、
そのフィロソフィアとは「知を愛すること」、「知を求めること」だった。
タレスやアナクシマンドロス等、いわゆる自然哲学者の場合には、
それは宇宙の理法を探求しようとする知、
自然現象についてその何たるかを探求しようとする知であった。
だが、ソクラテスの場合には、そうではない。
ソクラテスが求めたのは、自然現象についての知ではなく、「善美なる事柄」についての知、
幸福についての知、人間いかに生きるべきかについての知であった。
人はどうすれば幸福になれるか、その答えを求めて探求活動を行った。
それがソクラテスにとっての哲学だったのである。
ところで、ソクラテスにとって死とは魂が魂だけになることだった。
死こそが幸福なのである。
そしてその魂とは真の自己のことだった。
それゆえ、真の自己とは何かを求める自己探求・自己吟味を行いつつ、
なるべく真の自己に近づくこと、自己実現を果たそうとすることが、
人間にとって幸福に近づくということである。

要するに、
(1)ソクラテスにとっては汝自身を知れとの箴言による自己探求が愛知としての「哲学」である。
(2)その「汝自身」こそが「真の自己」、すなわちソクラテスの言う「魂」である。
(3)われわれが真の自己を求めて魂だけになることが「死」である。
(4)したがって、「哲学」は「死」の練習である。
ということです。
あるいは、もっと簡単に言えば、
「哲学とは、自己をできるだけその付属物から引き離し、真の自己になろうとすることである」
と約言できるかもしれません。
これがソクラテスの言う「哲学は死の練習」ということの意味です。
by matsuura2005 | 2004-02-12 16:46