管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 11日 ( 1 )
哲学講義11 - ソクラテス(2) 哲学は死の練習-
前回はソクラテスについて、特に無知の知と自己知について話しました。今回の話もそれと密接にかかわるのですが、さしあたり、「哲学は死の練習」 をメインテーマに掲げておきます。


この思想は、ピタゴラス派の輪廻転生や魂の不死という点にかかわります。
というよりはむしろ、ピタゴラス派のこの思想そのものが、
ピタゴラスより後の時代のプラトンの対話篇の中で、
対話篇登場人物であるソクラテスの口を通して語られるといった方が、真実に近い。

もちろん、プラトンよりもっと後の時代の人々もピタゴラスについて語っているわけで、
そういうもろもろの資料を総合して、ピタゴラスはこういうことを考えていた、と推定されている、
と言っておいてかまわないでしょう。

ソクラテスもまたピタゴラス同様、自分では一言も著作を書きませんでした。
ピタゴラスは書かなかったのではなくて
書いたものが残っていないだけだという考え方もできますが、
ソクラテスの場合は、文字通り、何も書かなかったと考えておいたほうがいいでしょう。

したがって、ソクラテスについての話は、私のこの講義だけでなく、
ほかのどんな人の講義・書物の中で語られていることも、すべては推定・解釈にすぎません。
それは現代においてそうであるだけでなく、古代ギリシアでもそうだったわけで、
いろいろな人がいろいろなことをソクラテスについて語っていますが、
それはどれもみな、ソクラテスについてのその人の見方を反映した「解釈」にすぎません。
しかし、その中で、
ソクラテスの弟子の一人であるプラトンの書いたさまざまな対話篇の中に登場するソクラテスが、
そこで語っている通りのことを実際にソクラテスが語ったかどうかということは別にして、
少なくとも、内容的にはソクラテスの思想の核心を表現していると考えることが多く、
私もそう考えてかまわない、というよりはむしろそう考えるべきだ、と思いますので、
プラトンの対話篇の中で語られるソクラテスの考えを、ソクラテスの思想として紹介するわけです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、要するに、「哲学は死の練習」、「霊魂不滅の思想」
「輪廻転生」等々の考えは、この通りのことをソクラテスが語ったかどうかは別にして、
少なくとも、ソクラテスの思想の核心を表現したものであると考えられる、ということです。

では、ソクラテスの言う「哲学は死の練習」とはどういう意味なのでしょうか。
まとめて述べれば、次のようになるでしょう。

ソクラテス(もしくはプラトン)は、おそらく、主にピタゴラス派を通じて、
輪廻転生や魂の不死の思想に触れた。
あるいは、オルフィック教という民間信仰を通じてだったかもしれない。
いずれにせよ、輪廻転生とは、先にピタゴラス派について説明する際に述べたように、
生まれ変わりの思想であり、その場合の「死」とは「魂が肉体から離れること」だった。
ここで、前回述べた自己知ということと密接にかかわるのは、
ソクラテスにとって「魂」とは「自己自身」、「真の自己」のことであり、
逆に、「肉体」とはそうした真の自己とは異なるもの、
自己の「付属物」、「飾り」にすぎないものだったということである。
だから、魂が肉体に入ってくること、つまりこの世に生まれてくることは、
魂が自分にとって飾りに過ぎない「衣装」を身にまとうことであり、
逆に、魂が肉体から離れること、つまり「死」とは、飾りである衣装を脱ぎ捨てることだった。
こうしてあたかも何度も衣装を取り替えるように肉体を取替え、魂は永遠に生と死を繰り返す。
しかし、このように輪廻転生を繰り返している限り、
魂はたとえ一度肉体を離れ、真の自己自身に戻ることができたとしても、
再び自己の付属物の中に入ってこなければならない。
それは真の自己ならざるもの、魂の墓場に結局は戻ってこなければならないようなものである。
だから、魂はなるべくその墓場から外に出て、
自分自身だけになるようにつとめなければならないし、
魂が本当に求めているのは、その魂が各々の時に何に目を向けているにせよ、
魂だけになって暮らすことである(浄福の人々の住む島々で)。
これがつまり輪廻の輪から脱け出すこと、解脱であった。
魂は本当はこの解脱を求めている。だから、肉体の中に入っているときにも、
なるべくその状態に近づけるようにすることが魂にとって本来的な活動であり、
そうすることで幸福に近づくことができる。

さて、ではその「解脱」が、つまり、「永遠の死」が、
あるいは、より正確に言えば、なるべくその「永遠の死」へと近づくことが、
なぜ「哲学」なのだろうか。

それはこの哲学講義2で述べた「哲学」という言葉の語義、
「愛知」の精神と密接にかかわっている。
すなわち、哲学という言葉はギリシア語の「フィロソフィア」の訳語であり、
そのフィロソフィアとは「知を愛すること」、「知を求めること」だった。
タレスやアナクシマンドロス等、いわゆる自然哲学者の場合には、
それは宇宙の理法を探求しようとする知、
自然現象についてその何たるかを探求しようとする知であった。
だが、ソクラテスの場合には、そうではない。
ソクラテスが求めたのは、自然現象についての知ではなく、「善美なる事柄」についての知、
幸福についての知、人間いかに生きるべきかについての知であった。
人はどうすれば幸福になれるか、その答えを求めて探求活動を行った。
それがソクラテスにとっての哲学だったのである。
ところで、ソクラテスにとって死とは魂が魂だけになることだった。
死こそが幸福なのである。
そしてその魂とは真の自己のことだった。
それゆえ、真の自己とは何かを求める自己探求・自己吟味を行いつつ、
なるべく真の自己に近づくこと、自己実現を果たそうとすることが、
人間にとって幸福に近づくということである。

要するに、
(1)ソクラテスにとっては汝自身を知れとの箴言による自己探求が愛知としての「哲学」である。
(2)その「汝自身」こそが「真の自己」、すなわちソクラテスの言う「魂」である。
(3)われわれが真の自己を求めて魂だけになることが「死」である。
(4)したがって、「哲学」は「死」の練習である。
ということです。
あるいは、もっと簡単に言えば、
「哲学とは、自己をできるだけその付属物から引き離し、真の自己になろうとすることである」
と約言できるかもしれません。
これがソクラテスの言う「哲学は死の練習」ということの意味です。
by matsuura2005 | 2004-02-11 16:45