管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 06日 ( 1 )
哲学講義6 -ピタゴラス派-
前回は、イオニア自然学派について、述べました。
今回はピタゴラス派について述べることにします。


ピタゴラス派については、
(1)数学研究に従事したこと、
(2)魂の輪廻転生を信じる宗教集団であったこと、
(3)魂を輪廻の輪から断ち切り、「解脱」するために数学研究に従事したこと、
この三点を押さえておくことが重要です。

したがって、ピタゴラス教団がどのような内容の数学研究を行ったのかという、
具体的な数学研究の内容よりは、むしろ、
何のためにそれを行ったのかの方が重要だということを念頭において、
見ていくことにしましょう。

ただし、以下の思想はすべて、
ピタゴラスについての伝承から各時代の解釈者たちが構成したものにすぎず、
ピタゴラス自身が語ったと確実に言えることは一つもない、と考えておいた方がいいでしょう。
ピタゴラス自身の著作は現存しませんし、ピタゴラス自身が語ったこともまた、
ピタゴラス教団の中だけで流布する「秘教」だったのですから。

(1)数学研究 -幾何学・天文学・音楽・天体の音楽-
ピタゴラス派にとっては、10という数は神聖な数で、
たとえば、正三角形は、一辺が4個の格子点からなり、辺内に1個の格子点のある、
計1+2+3+4=10個の格子点から構成されていると見ることができます。
これをテトラクテュスというのですが(図がないとなかなか説明しにくいです)、
このテトラクテュスは、ピタゴラス派にとっては、正三角形という美しい形が、
単純な整数の和によって表現できることを意味しました。
このテトラクテュスは、以下に見るように、音楽や天文学とも密接に関わっています。
 
音楽についていえば、弦の長さと和音との間に美しい比例関係があるのを見出しました。
つまり、一オクターブの和音(ドとド)は長さが2:1の関係にある弦によって作られ、
5度の和音(ドとソ)は長さが3:2の弦、
4度の和音(ドとファ)は長さが4:3の弦によって作られるということです。
これは1:2、2:3、3:4と書き換えられますから、
先のテトラクテュスがここにも現れていることになる、というわけですね。

天文学について言えば、宇宙の中心に「火(かまど)」があって、
その周りを太陽や月、地球など、10個の星が回転していると考えました。
つまり、ピタゴラス派はいわば「地動説」をとっていたわけです。
しかし、実際には、9個の惑星しか観測されなかったため、
「対地星」という観測されない星が存在すると仮定して、
無理やり10個の星が回転しているとしました。

ここで、地上では物体が早いスピードで動くとき、ビュン、というような音をたてます。
とすれば、天体は地上の物体とくらべてもっと早いスピードで動いていると考えられますから、
地上の物体とくらべてもっとおおきな音をたてて動いているはずです。
しかも、例の「かまど」に近いものは遠いものよりゆっくり動くので、比較的低音をたて、
かまどから遠くなるにしたがって、その割合に応じて高音をたてる。
そしてそれらの音が全体として美しい和音・音楽を奏でている。
私たちにその美しい音楽が聞こえないのは、
生まれたときからそれを何度も聞いているうちに、それに慣れっこになってしまい、
とうとう聞こえなくなってしまったのだ、ということです。
これが「天体の音楽」(ハルモニア・ムンディ)と言われる思想ですが、
この思想の言わんとしているのは、次のことであるように思えます。
つまり、天体の音楽は、肉体の耳できく物理的な音ではなくて、
理性によって聞き取られる「理(ことわり)」のこと。
わたしたちは、若いうちは純真なこころでそうした「理(ことわり)」に傾ける耳を持っている。
しかし、年を経るにつれて、世の中の俗事に染まり、純真さが失われ、
そうした理を聞く耳をうしなってしまった。その結果、物事の理が聞こえなくなってしまった。

以上まとめると、ピタゴラス派にとっては、図形、音、天体、といった世界の存在者が、
すべてテトラクテュスに還元され、宇宙全体が簡単な数・数比によって表されます。
このことから、ピタゴラス派は、
万物は数を模倣することによって存在する、万物の原理は「数」である、と考えました。
そして、宇宙(=世界)は数によって秩序づけられた美しい存在であるという意味で、
これを「コスモス」と呼びました(cosmos =宇宙、秩序、飾り)。

(2)宗教 -輪廻転生、肉体は魂の墓場(ソーマ=セーマ説)-
既に述べましたように、ピタゴラス派は、数学・幾何学・天文学を研究する一方で、
輪廻転生を信じる宗教集団でもありました。
ピタゴラスという人は、わたしたちにはピタゴラスの定理などの名で知られるとおり、
数学者、科学者というイメージが強いのですが、
伝承によれば、そうしたわたしたちのイメージとはかけ離れたところを持つ人で、
「神的なものと親しく、魔術や超自然の能力を授かり、あの世に関する信仰をもたらす者」、
要するに「シャーマン」としてのピタゴラスというのが、伝承の伝えるところなのです。
つまり、ピタゴラスは、数学・科学の天才というよりはむしろ、一種の狂信者、
超能力者とでも言うのがふさわしいような、ちょっと恐ろしいというかうさんくさいというか、
ともかく異常なところを持った人だったらしいのです。

たとえば、子犬が杖で打たれているのをみて、
「よせ、打つな、それは私の友人の魂なのだから。鳴き声を聞いてそれと分かったのだ。」
(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(下巻 p.40 (D.L.VIII 36))
と言ったらしい。ここには勿論、後述する輪廻転生と解される思想が現れているとも
いえるわけですが、しかし、これをもし本気で言っていたのだとしたら、
見ようによっては「ちょっとあやしい人」とも見える。
実際、19世紀末の哲学者ニーチェが発狂しつつあるとき、
馬が鞭打たれるの見てワーグナーが鞭打たれていると思ったという話と
どこかにています。

このように、ピタゴラス派は、少し変な人をリーダーにして教団を形成していたわけですが、
そうしたある種狂信的な指導者の下で、彼等は次のような禁欲生活を送ったと言われています。
つまり、たとえば、
「刃物で火をかきたててはならない、秤を飛び越えてはならない、
心臓を食べてはならない、荷物は、背負うのを手伝うのではなくて、降ろすのを手伝うこと、
寝具はつねにたたんでおくこと」
「右の靴を先に履かなければならない、大通りを歩いてはならない、
公衆浴場で入浴してはならない、明かりのないところで喋ってはならない、
金を身につけた女と子供を作ってはならない、白い雄鶏を犠牲に捧げてはならない、
神殿に向かうときは寄り道をしてはならない」
等々の、どこまで本当(本気)なのかよくわからない「戒律」(アクゥスマタ(口頭の教え:
文字通りには「聞かれたこと」)))に従って、禁欲生活を送ったといわれています。

輪廻転生という考え方は、ピタゴラス派にオリジナルなものではなく、
むしろ、当時の民間宗教、オルフィック教に影響されてこれを受容したものと見られます。
このオルフィック教や輪廻転生説がどのような起源を持つかについては、断定をさけます。
エジプト起源という人、インド起源という人、あるいは、シベリア起源かもしれないという人もいます。

さて、その輪廻転生ですが、
これはいわば、生まれ変わりの思想、霊魂不滅の思想といえるでしょう。

「ただし、次のことは一般によく知られていた。
第一に、魂は不死である(athanaton)ということ。
次に、魂は他の種類の動物に生まれ変わる(metaballusan)ということ。
さらに、生成したものはある周期に従ってまたふたたび生まれてきて(palin ginetai)、
絶対的な意味で新しいものはなにもないこと。
そして、魂をもって生じてきたものはすべて
同族的なものであると考えなければならないということである。
以上のような教説を最初にギリシアにもたらしたのはピタゴラスであったように思われる。」
(内山他訳、『ソクラテス以前哲学者断片集』、岩波書店、第 14 章 
ポルピュリオス『ピタゴラス伝』19に基づく(DK 14 [4]. 8a. Porphyr. V. Pyth. 19, 37-41))

つまり、「人の死」とは、目に見えない霊魂が目に見える肉体から分離することであり、
魂の離れた肉体は滅ぶが、魂は生き続け、他の人間その他の動物の肉体へと入っていく。
これが生まれ変わりであり、
これはつまり、魂があたかも衣服を次々と取り替えるように肉体を脱ぎ捨てていき、
このことが永遠に続くということである。

ところで、この思想にはいくつかの重要な考えが基盤になっています。
一つは、「肉体は魂の墓場である」という考え、いわゆる「ソーマ=セーマ説」です。
(「ソーマ」は「肉体」、「セーマ」は「墓」を意味するギリシア語です。)
ピタゴラス派の人々にとっては、
人間がこの世に生を受け、魂が肉体に入ってくることは
できれば避けたい事柄だったのです。
魂にとって肉体は墓場のようなものであり、
なるべくなら、肉体から離れて魂だけになっていた方がいい。

魂が肉体から離れるとは「死ぬこと」ですから、
これはつまり、人間はこの世で生きているより死んだほうがましだという、
厭世思想へとつながる要素を持っています。
たとえば、ギリシア悲劇作家ソフォクレスの『コロノスのオイディプース』(1224-1227)や、
ソフォクレースに先立つ前6世紀のエレゲイア詩人テオグニスの『エレゲイア詩集』などにも、
これと通じる考えが表現されています。

「人間にとっては、生まれなかったことが最もよい。
しかし、生まれてしまった以上、生まれなかったことは不可能である。
従って、人間にとって次善の策は、なるべくはやく死ぬことである。」

これは直訳ではありませんが、だいたいこういう内容のことが言われています。
こうしたギリシアの厭世思想に通じるものを、ピタゴラス派のソーマ=セーマ説は持っているのです。

他方、ソーマ=セーマ説・輪廻転生説は、もう少し積極的な意味も持っています。
つまり、人間が何に生まれ変わるか・生まれ変わらないかは、
現在どのような生き方をしているかによって決まる。
どのような生き方がよいのかといえば、
魂がなるべくその本来のあり方を保つような生き方がよい。
それはつまり、この世では、魂にとって汚物に過ぎない肉体への執着をできるかぎり絶ち、
魂が魂だけになるようにこころがけること、
魂を肉体から浄化すること(カタルシス)こそがよい生き方である。
そうすれば、輪廻転生の輪から抜け出し、再び墓場である肉体の中へと入ってくることもなく、
永遠に魂が魂だけで生きることができる。


(3)解脱
このように、ピタゴラス派にとっては、目指すべきは、
魂が輪廻転生の輪から抜け出すこと、つまり「解脱」だったのです。
だから、ピタゴラス派は禁欲生活を営み、その禁欲生活の一環として、
数学、音楽、天文学を研究したのです。
数学や音楽や天文学の研究は、魂ができるだけ肉体から離れるための一手段であり、
現代の数学者や天文学者とは、かなり違った目的を持って研究していたことがわかります。
(音楽家については、数学者や天文学者ほど違っていないと私は思いたい。)

参考文献 
荻野弘之、『哲学の原風景』、NHK出版、第二章
B.チェントローネ、『ピタゴラス派 その生と哲学』(斉藤 憲 訳)、岩波書店、p.65-77,
p.97-99, p.160-162
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(下)、岩波文庫、加来彰俊訳
内山他訳、『ソクラテス以前哲学者断片集』第一分冊、岩波書店
Diels-Kranz, Fragmente der Vorsokratiker 1, ("DK"と略記)
by matsuura2005 | 2004-02-06 16:28