管理人 : 松浦明宏
2004年 02月 05日 ( 1 )
哲学講義5 -イオニア自然学派-
前回は、ギリシア哲学の理性主義と哲学の始まりを見ることで、ギリシア哲学の特徴を概観しました。私としては、言い足りない点や、疑問点などがあり、前回の記述に満足しているわけではもちろんありません。しかし、ここではあまり深入りしすぎるのもどうかと思いますので、一応、前回の記述でとどめておくことにします。

さて、そこで、今回は、「イオニア自然学派」(「イオニア自然哲学」、「ミレトス学派」と言われることもある)について見ていくことにします。


その際、あらかじめ一つ断っておかなければならないのは、自然哲学者たち自身の著作物は、これから見るアナクシマンドロスの言葉(の一部)を除いて、現在ではすべて散逸しており、後代の学説史家が言及する際の引用その他の説明を通じてのみ私たちはそれに触れることができる、ということです。

この点を念頭においた上で、以下、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスの思想について概略を見ていきます。

1.タレス
タレスについては、前回、既に、言いたいことは言ってしまったのですが、
一応、ここでもあらためて紹介します。

アリストテレスの言うところでは、タレスが哲学の創始者であり、万物の原理を探求して、
それを「水」であると言いました。すべてのものの栄養も熱も種子も湿り気を帯びており、
大地もまた、木のように水に浮いているので、万物の原理は水である、ということです。

これがどういう意味での「水」なのかについては、もちろん解釈が分かれるところですが、
私としては、さしあたり、前回述べたように、
目に見える水というよりはある種の深淵からの呼びかけに対する応答としての「水」
というふうに考えることにします。
どちらかといえば、アリストテレス流の「質料」としての水(質料因としての水)
という説明からは独立的に考えることにしたい。

その一つの理由は、タレスが神話的思考から脱却したと言われるその一方で
「万物は神々で満ちている」と述べているらしいことです。というのは、
この「汎神論的思考」と「神話的思考からの脱却」という考えとが両立するとすれば、
次のように考えるのがさしあたり妥当だと思えるからです。
すなわち、原理としての「水」を上記の「深淵」において成立しているものと考え、
その「深淵」を「神」と考えれば、
万物に「水」が行き渡っていることと、万物に「神」が行き渡っていることとは、
内容的にかなり近いものとなるように思えるということです。
実際、ギリシアの伝統的な神々は、たとえばゼウスに典型的に見られるように、
あちこちで不倫や強姦をするなど、擬人化された神、
さまざまな人間の性格・振る舞いの典型としての神だったと言われますが、
「水」を人間の性格・振る舞いとして考えることには少し無理がありますから、
タレスは擬人的な神観念とは異質の神観念を主張したという意味で、
「伝統的な神話的思考からの脱却」と「汎神論的思考」とを両立させることが
できるように思えるということです。

また、上述の他に、水が生命の源であるという想定を前提すれば、
(もしくは、神は自ら動く生命あるものであるという想定を前提すれば)
万物に神々が満ちているという言葉は、
万物に生命が満ちているという意味であることになり、
いわゆる「物活論」(ヒュロゾイズム)の立場をタレスがとっていたことになります。
タレスの言う「水」は、現代の科学者たちがH2Oのような形で考えるような、
生命を持たない、無機物としての水ではなく、生命を持った水だったということです。


2.アナクシマンドロス
タレスの弟子アナクシマンドロスの考えについては、次のように言われることが多いです。

すなわち、アナクシマンドロスは、
後にエンペドクレスが「四つの根(リゾーマタ)」と呼ぶことになる水・土・火・空気という
四つの基本要素のいずれか一つを原理として立てることをせず、
むしろこれら以外の何か他のものを原理として立てた。
それが「無限定なもの」(ト・アペイロン)である。
水などのある一定の性質を持ったもの(有限なもの)を原理として立てると、
たとえば、水とは相反する性質を持つはずの「火」が水から生じることになるが、
それは考えにくいからである。
こうして、アナクシマンドロスは、何かある無限定なものからすべてのものが生じ、
そのように生じたすべてのものは再びその無限定なものへと帰っていく、と考えた。

イメージとしては、
”すべてのものは土から生まれて土へと戻っていく、とか、
海から生まれて海へと戻っていく、というようなものだが、しかしそれは、
そういう土とか海とかいうある特定のものではなくて、何か得体の知れないものだ”、
といったような「感じ」を持てば、だいたい当たらずとも遠からずといったところでしょう。

ただし、アナクシマンドロスの考えについて、
以上のどこまでをアナクシマンドロス本人の考えと見たらいいのかは、
実はよくわかっていません。

たとえば、アナクシマンドロスの真正の言葉が書かれているとされる唯一の断片を見ると、

「(アナクシマンドロスは言った。)
存在するものどもの元のもの(アルケー)は、無限定なもの(ト・アペイロン)である。
・・・存在するものどもにそれらからの生成があるその当のものへの消滅もまた
必然に従って生ずる。なぜなら、それらは、
時の定めに従って、お互いに、その不正の罰を受けるからである。」
(DK.12B1 Simplic. Phys.24, 13 )

となっています。
しかし、この断片の中で、アナクシマンドロス本人の言葉と考えられているのは、
「無限定なもの」という言葉と最後の二行(下線部)のみであって、
それ以外の部分、つまり、「それらからの生成」、とか、「当のものへの消滅」といった
先述の説明のいわば肝心かなめの部分は、
実はアナクシマンドロス本人の言葉ではないと考えられているのです。
「アルケー」という言葉さえ、アナクシマンドロスの言葉ではなく、
後のアリストテレスに由来する言葉なのです
(加藤信朗『ギリシア哲学史』、内山、藤沢等『ソクラテス以前哲学者断片集』第一分冊)。

したがって、私としては、アナクシマンドロスが万物の「アルケー」について
それを「無限定なもの」と言った、という説については、
これ以上、深入りすることを避けます。

ただし、下線部の真正部分が「不正」という道徳に関わる内容を持っていることには
注意しておく必要があるでしょう。自然哲学者に分類されるアナクシマンドロスですが、
その分類でいわゆる「自然科学者」を想定するとすれば、
それはアナクシマンドロス自身の姿とはかなり違ったものになるることだけは確かです。

3.アナクシメネス (工事中)
by matsuura2005 | 2004-02-05 16:25