管理人 : 松浦明宏
研究ノート「納富信留著『ソフィストと哲学者の間』補論二」
納富信留著『ソフィストと哲学者の間』、名古屋大学出版会、2002年2月、補論二について。

2000年7月に行われたギリシア哲学研究会主催の合評会において、納富氏の英書に対するコメントを行い、それに対する応答を上記邦訳書中で頂いたので、そこでの記述について、再度確認したいと思います。
まず、氏の著書から引用します。

「・・・ソフィストはそもそも「像」などというものは存在し得ないと開き直り、その理由を、像の定義「Fではないが、Fでないものではなく、Fである」が、パルメニデスの禁ずる「ある」と「ない」の奇妙な結合を含意することに求める(第5章第七節参照)。こうして「像」存在を否定することにより、ソフィストは、そもそも像と実物という区別は存在せず、あらゆるものが実在であると主張する(第6章第五節参照)。これに対して、「ある」と「ない」が適正な仕方で結合し得ることを示す中央部後半の探求の目標は、「像」の定義(logos)を救済し、その帰結として「像」が存在することを認めることにある。それに成功することは、同時に、像を像たらしめる「実物」が存在することを、十全な仕方で認めたことに等しい。”適正結合主義”は、像を或る種のないものとして容認することで、「ない」ものを「ない」ものたらしめる真正の「ある」を確保することに成功するのである。」(上掲書327頁、ただし、原著にある傍点やギリシア文字は技術的な理由により省略・変更しています。)

この箇所についての私の疑問は、像の定義を救済するに先立って、実物の存在は既に確保されているのではないかと思えるということです。像の定義

  「Fではないが、Fでないものではなく、Fである」

は、形相相互の結合の議論のテキストに即して言えば、たとえば、

  「動は、異ではないが、異ならないものではなく、異なる」、
  (「動は、異とは異なっているから異ではないが、異の分有によって、異なる」)

となるように思え、この例の場合には、実物は「異」で、その像が「動」(異ではないが、異なるもの)ということになるのでしょう。もしこの理解が正しいとすれば、テキストでは形相相互の結合を調べることによって「像」の成立が確認される前に、あらかじめ、「ある」、異、同、静、動という五つが互いに異なる類であることが立証されているわけですから、像の成立の立証と、実物の成立の立証とは、同時であるとは言えないということになりそうに思えるのです。「異ではないが、異なるもの」の成立が示される以前に、「異」の成立は既に独立的に確保されている以上、「Fではないが、Fであるもの」という像の成立の立証と、「Fではない」における「F」という実物の成立の立証とは、テキストでは、独立的に行われていることになる、ということです。

納富氏の論では、像の成立が確保されると同時に実物の存在も確保され、この同時性が、ソフィスト定義と哲学者定義の同時性とリンクするという形で話が進んでいきます。したがって、氏の論の骨格に関わる問題として、プラトンのテキストにおいて、「あらぬものがある」ことが立証される部分と、五つの最大の類の各々が類が類として成立することが立証される部分とが独立していることについてどのように考えるのか、説明が必要なのではないかと私は思います。

(説明としては、像の成立と同時に「十全な仕方で」実物が成立することと、異や「ある」や動などの類が類として成立することとは別のことである、という方向での説明が考えられないこともないのですが、そうなると、類の成立とは別様に成立するその「実物」とは一体何か、ということが次の疑問となります。)

像の存在を立証することと実物の存在を立証することとが同時に成立する、と果たしてプラトン自身が考えていたのでしょうか。

この疑問は、納富氏が、哲学者の関わる〈ある〉を「像」との関係における「実物」に当たるものと推定されると言っていることと(328頁)、147頁の図の中で「実物F」と明記していること等に基づいて、「像」との関係における「実物」を、像の定義中の「Fではないが」における「F」と解し、これを哲学者の関わる〈ある〉(真正の「ある」)に当たるものと考えた上での疑問です。
by matsuura2005 | 2005-06-19 05:38
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