管理人 : 松浦明宏
研究ノート「「ある」と「あらぬ」の対性、哲学者とソフィストの対性」
プラトンの『ソフィステース』中核部において「あらぬ」のアポリアと「ある」のアポリアとが提示された後、「ある」と「あらぬ」が等しい程度に困難にあずかるとすれば、「ある」と「あらぬ」は同じ程度に明らかになるか、あるいは、両者のどちらも明らかにならないとしても、なるべく手際よく、同時に両方のために議論を進める旨語られる(250e-251a)。
この箇所については、G.E.L.Owenが、Parity Assumption(対仮定)と命名し、これをこの対話篇においてプラトンは「ある」の不完全用法を問題にしているという主張の根拠の一つとしている。

「エレアの客人によって提出された望みは、「ある」「あらぬ」のいずれか一方に投げられたいかなる光も等しく他方を照らすであろうということである。そしてエレアの客人が“A is not”という形の表現を、それが“A is not B”へと完成され得る時にのみ正当化しようとする以上、肯定的構文においても正しさを立証されていると期待し得るのは、その動詞の不完全的用法である。」(G.E.L.Owen, "Plato on Not-Being," Plato I, 1971, Anchor, 229-230 )

だが、気になるのは、"A is not B." は、プラトンの場合には、"A is different from B."の意味で用いられ、すると、"A is not B." におけるBは、肯定文"A is B." の場合とは違って、Aの分有対象ではなく、Aの関係対象ということになる、ということである。どうやらオーエンは、肯定文の場合の補語(分有対象)と、否定文の場合の補足語(関係対象)との間に区別をもうけておらず、いずれも補語(補足語)を必要とする不完全用法と考えて一括しているように思われる。"A is not B."におけるAとBとの関係性と、"A is B."におけるAとBとの関係性とが別の種類の関係性であることにオーエンは気づいていないのであろう。

したがって、否定文の場合に"A is not" が"A is not B." へと完成され得る時にのみ正当化されるというこのことから、肯定文においてもその正しさを立証されていると期待し得るのが、"A is B."という形をしているのであろうbe 動詞の不完全用法であるということは、必ずしも言えない。"A is not"が"A is not B."へと完成される云々ということから肯定文においてもその正しさが立証されていると期待し得るのは、"A is different from"は"A is different from B."へと完成される時にのみ正当化される、ということである。つまり、正当化の対象になっているのは、「"is"に" different"を補うこと」ではなく、「"from"の後に"B"を補うこと」であり、その限りにおいては、be動詞の不完全用法が正当化されているわけではないということである(ちなみに、"A is different from B."という文は肯定文である)。

以上により、件の「ある」と「あらぬ」の対性について、Parity Assumptionという言葉以外は、オーエンに従う必要はないということになる。そこで以下私見を述べることにするが、以下はあくまでも試論であり、詳細はこれから考えていかなければならない。

『ソフィステース』を含めて、プラトンの対話篇においては、さまざまな対性が現れる。さしあたり重要と思われるのは、『ソフィステース』における自体的に語られる「ある」と別のものとの関連で語られる「ある」に見られる自体性と関係性という対性と、『ピレボス』における一と多の議論等に現れる限と無限という対性である。実際、『ソフィステース』において、上掲の対仮定(parity assumption)が語られた直後には一と多の問題が示され、それが形相相互の結合の議論へと発展している。そしてその議論の中で、自体的に語られる「ある」と別のものとの関連で語られる「ある」という対が現れる。

ここでは、自体性と関係性についての話は割愛し、無限定と限定ということに定位して、当該の対性について、大雑把に考えてみる。

形相相互の結合の議論では、次の仕方で「ある」と「あらぬ」との対性が示されている。「動は静とは異なっている。したがって、動は静ではあらぬ。しかし、あるを分有することによって、動はある。(したがって、「あらぬところの動がある」という意味で「あらぬものがある」)」。この議論は、「静」を「ある」に変えた場合でも同様である。「「動」は「ある」とは異なっている。したがって、動は「ある」ではあらぬ。しかし、あるを分有することによって、ある(したがって、「あらぬところの動がある」という意味で「あらぬものがある」)。

この形相相互の結合の議論の後に、「異の部門」の議論が来て、そこでは、たとえば「美ならぬもの」は、「美の本性」と「異の部門」との対置とされ、「あるならぬもの」は「あるの本性」と「異の部門」とが対置されたものとされる。こうして、「あるもの(美、大、ある等)とあるもの(異の部門)との対置」こそが「あらぬもの」のエイドスであり、確かに「あらぬもの」は実在性を持っている(「あらぬものは常にあらぬものである」)とされる。ここでもまた、「ある」と「あらぬ」との或る種の対性が現れていると見ることができる。「あらぬものは常に(あらぬもので)ある」ということが示されるのだから。

こうした議論を念頭におくとき、「ある」と「あらぬ」との対性が具体的にどのようなことをさしているのか判然としないという気持にもなるが、一つの可能性としては次のように言うこともできるのかもしれない。

つまり、「あらぬ」を無限定ないしは多性の原理と考えれば、「あらぬものが常に(あらぬもので)ある」とは、多性の原理としての無限定もまた、一性の原理としての限定とともに、実在するということである。この「多性の原理としての無限定が実在すること」によって、「あらぬところの動がある」ということが可能になる。この意味で、形相相互の結合の議論における「ある」と「あらぬ」との対性の根拠となっているのが、異の部門における「あらぬ」のエイドスである。言い換えれば、「不定の二の実在性」が「ある」と「あらぬ」とが同時に成立することの根拠となっているということである。

上記の意味において、「ある」と「あらぬ」との対性は、一と多が同時に成立するという対性や、限定と無限定とが対をなしていることと(必ずしもパラレルとは言えない仕方で)密接につながっており、多性の原理をも実在の一つとして確保したことによって、プラトンは現象界を救ったということになるのかもしれない。

ただし、それはパルメニデスの考えを否定することによってではなく、パルメニデス流の一の他に、多性の原理が成立していることを見出したことによる。また、上記の記述のうち、「多性の原理としての無限定」、「一性の原理としての限定」という言い方は、必ずしも、無限定がすなわち多性の原理であるということや、限定がすなわち一性の原理であるということを意味しない。無限定のもつひとつの側面として多性の原理がある、等のことを意味している。

したがってまた、こうも言えるであろう。異の部門以前の一種の脱線の箇所で、哲学者が「ある」にかかわり、ソフィストが「あらぬ」に関わると言われることを、哲学者はエイドスを把握し、ソフィストはエイドスを把握しないという意味に理解することにしよう。その場合には、「あらぬものがある」と語り、かつ、そのように語ることのできるいわば究極的な根拠として、「あらぬもの」のエイドスを見出したエレアの客人こそが哲学者であることになる。ソフィストの場合には、この「あらぬもの」のエイドスに触れることがないため、「あらぬものがある」と語る根拠を見出すことができず、結果、そのように語ることはできないと言うことになるということなのかもしれない。
by matsuura2005 | 2005-06-12 03:22
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