管理人 : 松浦明宏
実物と映像(7)多摩哲論文抜粋 -像の成立基盤としての「あらぬ」のエイドス- + 付録
最近刊行された拙論の「序」と「結びにかえて」の部分を抜粋し、実物と映像(7)としてアップします。『ソフィステス』の「あらぬもの」のエイドスは、像成立の構造基盤をなしているのではないか、というのが「結びにかえて」の主旨です。「シミュラークル(のモデル)」が「コピー」成立の構造基盤をなしている、と言ったら、ドゥルーズが何と言うかわかりませんが、要するに、そういう内容の「結びにかえて」であると私自身は理解しています。なお、これだけでは論文全体の流れがわかりにくいかもしれませんので「序」も掲載しました。また、ギリシア語部はこのHPではラテナイズしてあります。論文抜粋アップに際して、オリジナルとコピーの区別に関する付録「オリジナル、コピー、シミュラークル」をつけました。

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多摩哲学会編『パレーシア』第2号、2008 年 3 月、57 頁 - 86 頁
「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-
松浦明宏


 『ソフィステス』の中央部においては、「ある」と「あらぬ」との結合に関する考察が行なわれている。それは、この対話篇の外枠部においてソフィストを定義し、哲学者から区別する基盤を、パルメニデスの教説を超えて新たに形成するためである。
 すなわち、ソフィスト定義においては、像作り術(eidolopoiike)を似像作り術(eikastike)と幻像作り術(phantastike)とに二分し、ソフィストをどちらに分類するか迷う段階がある(235d-236d)。似像作り術とは、たとえば彫刻や絵画の場合に、真実の釣り合いをそのまま保って作品を作り、実際に現物に似ている像を作る術であるのに対して、幻像作り術とは、真実から離れて、単に美しいと思われるだけの「幻影として現れる像」(236b7 phantasma)を作る技術のことである。彫刻や絵画の場合だけでなく、言論の場合にもこの区別があるとされ、ソフィストをそのどちらの技術者に分類するべきか、探求者たちは迷っているのである。
 彼らが迷っている理由は次の通りである。すなわち、ソフィストを像作り術の一種として分類するためには、そのように思えるけれども実際にはそうではないもの、つまりは、像や虚偽というものが成立しうることを示す必要がある(236e)。しかし、虚偽というものは、「実際にはそうであらぬものをそうであると言う」という仕方で、「あらぬものがある」ということをその成立基盤としている。ところが、パルメニデスの教説によれば「あるものだけがあり、あらぬものはあらぬ」のであって、「あらぬものがある」ということや「あるものがあらぬ」ということはありえない。したがって、虚偽の成立を示し、ソフィストを像作り術の一種として定義するためには、まずパルメニデスの教説を何らかの仕方で覆し、「あらぬものがある」こと、「あるものがあらぬ」ことを、立証しなければならない。
 こうして、冒頭に述べたように、この対話篇の中央部においては、「ある」と「あらぬ」との結合に関する考察が行なわれている。その際、探求者たちは、まず、「あらぬ」と「ある」について別々に考察を行ない、その結果、それぞれについてさまざまなアポリアに陥る。その時点で、探求の主導者であるエレアの客人は次のことを述べている。
「『ある』と『あらぬ』とが共に等しくアポリアに与っている以上、今や期待できるのは、それらのうちの一方が、比較的曖昧にであれ比較的明瞭にであれ、姿を現すのに応じて、他方もまたそのように姿を現すということである。他方また、われわれがそのどちらをも見ることができない場合でも、われわれにできる限りの立派な仕方で、両者の間を通って同時に議論を進めることになるだろう。」(Sph.250e6-251a3)
ここでは「ある」と「あらぬ」とが何らかの意味で対をなすことが示唆されている。また、その対性として、引用の前半で言われているものと、後半で言われているものと、二つの対性があると見るのが妥当である。すなわち、
(1)一方の姿が明らかになるに応じて他方の姿も明らかになる。
(2)「ある」と「あらぬ」の姿を見ることができない場合でも、両者の間を通って、同時に「ある」と「あらぬ」についての議論を進めていく。
このうち、(1)の意味での対性は、両者の姿が同時的に一定程度明らかになることが、かなりの確度で予想されていることを表しているとみられるのに対して、(2)の意味での対性は、両者の姿が明らかになることはそれほど予想されておらず、むしろ議論の中でそれら両者を同時に扱うという、議論の中での扱いという意味での対性が示唆されているようである。本稿では、これら二つの対性のうち、(2)の意味での対性を、この対話篇の中核部に位置づけられる「形相相互の結合」の議論に見られる「あらぬものがある」と考え、(1)の意味での対性を、その議論の直後の「異の部門」の議論に見られる「あらぬ」のエイドスの中に「ある」の本性が結合していることに定位して解釈する。これが本稿の骨子である。



結びにかえて -像の成立基盤としての「あらぬ」のエイドス-
 以上、対仮定と「あらぬ」のエイドス等との関連についての考察を終えるにあたって、最後に、「形相相互の結合」の議論において言及した、現れや像と「あらぬ」のエイドスとの関わりについて一言して、結びにかえることとする。
 先にその議論の中で言及した像の規定に即して言えば、当該議論において、「動は静と異なっている」とされる際の「動」は、本当に(異のゲノスという実物Fで)あるというというわけではないが、全く(異で)ないというわけでもないので、われわれはそれを「(異に)似たもの」(異なるもの)と呼ぶ、ということになろう。そしてこの場合の像は、異のゲノスという実物の本質的特徴を分け持った種類の(言論による)像であろうから、「似像」と「幻像」のうちの「似像」であると解釈される。
 ここで、「あらぬ」のエイドスは、これまで見てきたように、「二つの無限定なものの対置」をその構造としている。とすれば、「あらぬ」のエイドスは、像(ここでは似像)が成立するための構造基盤を与えているのではなかろうか。すなわち、「あらぬ」・「異なっている」という否定的表現の指示対象が「二つの無限定なものの対置」という構造を持っているからこそ、その表現を用いて「動は静と異なっている」という言表を作ったとき、それが事柄を適切に反映した表現となり得るということである。あるいは、その対置構造がなければそもそも動が静と異なるという事態そのものが成立し得ないため、そうした言表を作ることができないと言った方がより適切であろう。そしてその対置構造に立脚して動と静との異なりという事態が成立する時、動は本当に異であるというわけではないが全く異でないというわけでもなく異なるものであるという仕方で、異の像が成立する。そしてこうした言論による像の成立は、われわれが当該議論の中で触れたように、「一なる形相の多なる現れ」の成立としても見ることができる。その意味で、「あらぬ」のエイドスは、像や現れが成立するための基盤になっているのだろう。すなわち、像や現れというものは、何か「一つでありつつ二つである」という状態、「一でありつつ多である」という状態が、事柄の上で成立していなければ成立し得ないということである。そうであればこそ、像や現れの成立の可能性条件を示すためには、形相相互の結合において「ある」と「あらぬ」とに直接触れずに議論を進めただけでは、単に像や現れを示したにとどまる以上、不十分であり、最終的には、「あらぬ」のエイドスにおいて「ある」と「あらぬ」とが不即不離の仕方で結合していることを示す必要があったのだろう。それが「あらぬ」のエイドスの本対話篇における重要な意義の一つであると思われる。



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付録「オリジナル、コピー、シミュラークル」
 こうして論文内容を振り返ってみると、先頃、ドゥルーズの『意味の論理学』を少しかじったことの影響でしょうが、オタク論やポストモダンの議論の中で採り上げられる「シミュラークル」とプラトンの「あらぬ」のエイドスとの関係(異同)について考えてみたくなってきます。
「ボードリヤールはポストモダンの社会では、作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない「シミュラークル」という中間形態が支配的になると予測していた(注17)。原作もパロディもともに等価値で消費するオタクたちの価値判断は、確かに、オリジナルとコピーとの区別の消失、オリジナルでもコピーでもない、シミュラークルのレベルで働いているように思われる。」(東浩紀、『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、41頁)
「作品」、「商品」、「原作」、「パロディ」、といった意味でのオリジナルとコピーは、いずれも目に見える現実世界のものですが、イデアとその似像という意味でのオリジナルとコピーは、各々、目に見えない超越的世界と目に見える現実世界とに帰属するものですので、ボードリヤール等、ポストモダンの議論の中に現れる「シミュラークル」概念と、プラトンの「あらぬ」のエイドスとを比較することにどれほどの意味があるのかわかりませんが、この点については後述するとして、プラトンは「シミュラークル(に相当するもの)」を「コピー」の成立基盤の一角として考えており(「一角」と書いたのは「オリジナル」もまた「コピー」の成立基盤の一つだからです)、「シミュラークル」と「コピー」との間に重要な関わりを想定していたと考えられます。だからこそ、『ソフィステス』において、プラトンはパルメニデス流の絶対静止の哲学を乗り越えて現象世界を救ったことになる、と私は考えています。しかし、ポストモダンの議論においては、前回の「実物と映像(6)」で紹介したドゥルーズにも見られるように、「プラトニズムの転倒」というスローガンのもとに、「シミュラークル」の場面を、「コピー」や「オリジナル」といった、(プラトン的な用語で言えば)イデアやパラデイグマ(モデル、範型)やその像の場面から切り離し、シミュラークルの場面のみを独立的に問題にするようになっているように思えます(cf. 'Nous voulons penser la différence en elle-même, et le rapport du différent avec le différent, indépendamment des formes de la représentation qui les ramènent au Même et les font passer par le négatif.' (Gilles Deleuze, Différence et Répétition, Presses Universitaires de France, 1968, p.1)。この点は、ポストモダンの議論におけるシミュラークル概念の内容を問わず、共通する特徴であるように思えます。この「プラトニズムの転倒」という姿勢が一つの端緒となって、その後、「規範」(範型、モデル)ということの意味が、「イデア」から、現実社会の多方面における規則の正当化の問題へと拡大され、現代では規則の正当化が機能不全におちいってしまっている、という方向で論じられることが多いように思います。

ここで、規則の正当化の根拠を失うという意味でのオリジナル(モデル)の欠如の場合には、その「オリジナル(モデル)」の少なくとも一部には、イデアや神といった超越的存在も依然としてふくまれていると考えられるのに対して、上掲の「原作」、「商品」、「作品」といった意味でのオリジナル(モデル)はそうした超越的存在ではないでしょうから、この種のオリジナルについてオリジナルとコピーの区別の消失といっても、その種のオリジナルがそもそもイデアとそのコピーという区別のもとでのコピーに相当するという違いは確かに出てきます。しかし、その一方で、イデアとそのコピーというこの組(限定(ペラス)の側の組)とは別の組ないしは別の存在(無限定(アペイロン)の側の組ないし存在)、ドゥルーズの言い方を借りれば、「シミュラークルとそのモデル」という組ないし「シミュラークル」という存在(これらを一括して「シミュラークル(相当)」と呼ぶ)は、言うまでもなく、イデアとそのコピーの組全体から区別されている以上、「シミュラークル(相当)」(あらぬのエイドス)を「イデアのコピー(似像)」の成立基盤の一角として関連づけるか否かという問題と、「イデア」も「そのコピー」もなしで「シミュラークル」のみを考えるか否かという問題とは、無関係とは言えない。

もちろん、ポストモダンにおけるシミュラークルの問題は、このように安直に論じられるものではないでしょうが、それをプラトニズムの転倒とその展開という観点から概観すれば、今述べたようなことが当たらずとも遠からずというところなのではないでしょうか。いずれにせよ、オリジナルとコピーとの区別の消失という問題は、プラトン哲学を研究する上でも、現代社会における諸問題を考察する上でも、興味深い共通問題であることは確かであり、この種の問題について、今後、さらに考えていきたいと思っています。
by matsuura2005 | 2008-04-22 11:47
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