管理人 : 松浦明宏
実物と映像(6)ードゥルーズ『意味の論理学』のプラトン解釈ー
最近は、またプラトンの『パルメニデス』を読んでいて、ますますプラトンの形而上学にはまりこんでいます。この対話篇を読み直しているうちに、以前にこのHPへのコメント欄の中で、不定の二との関連でドゥルーズの『意味の論理学』に言及してくださった方がいたのを思い出して、第1セリーと、付録I 「シミュラクルと古代哲学」の中の I 「プラトンとシミュラクル」を読んでみたところ、とても興味深い記述が見られました(恥ずかしながら私は、ドゥルーズについては『差異と反復』を少しかじったことがあるだけで、『意味の論理学』は今回初めて読みました)。
「われわれは、プラトンの二元性を認める。それは、決して、知性的なものと感覚的なものの二元性、イデアと物質の二元性、イデアと物体の二元性ではない。そうではなくて、もっと深く、もっと秘密の二元性で、感覚的で物質的な物体そのものの中に埋没している二元性である。イデアの作用を受けるものとイデアの作用から離れるものの間の地下の二元性である。モデルとコピーの区別ではなく、コピーとシミュラクルの区別である。純粋な生成、限定されないものは、イデアの作用を逃れる限りで、また、モデルコピーに同時に反抗する限りで、シミュラクルの物質 [=質料=材料] である。」((ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上 小泉義之訳、河出文庫、2007年、17頁 但し、訳書中の傍点は、技術的な理由から、下線に置き換えてあります。以下の引用の場合も同じです。)

「われわれがシミュラクルについて、コピーのコピー、無限に劣化したイコン、無限に弛緩した類似性と語るなら、本質的なこと、すなわち、シミュラクルとコピーの本性の差異、両者が分割の二項を形成する面を逸してしまうことになる。コピーは類似性を授けられるイマージュであり、シミュラクルは類似性なきイマージュである。・・・たしかに、シミュラクルは、依然として類似性の効果を生産している。しかし、それは、まったく外在的な集合の効果であり、モデルの中で働く手段とはまったく異なる手段によって生産される効果である。シミュラクルは、不均等・差異を基に構築され、非相似を内在化するのである。それゆえに、われわれは、コピーに押し付けられるモデル、コピーの類似性を派生させる<同じもの>のモデルとの関係で、シミュラクルを定義することはもはやできない。シミュラクルになおモデルがあるとするなら、それは、他のモデル、内在化される非相似が由来する<他なるもの>のモデルである。」(同書下巻、付録I-I プラトンとシミュラクル 140頁 - 141頁)
これらの記述において、「コピー」と「シミュラクル」との区別は、『ピレボス』の表現を使うなら、各々、「ペラス(限定)」と「アペイロン(無限定)」との区別と、『ティマイオス』の表現を用いるなら、各々、「パラデイグマ(モデル)に従って作られたもの」と「コーラー(場)」との区別と、必ずしも正確に対応しているとは言えないかもしれませんが、少なくとも密接な関わりを持っていると考えることができ、また二番目の引用末で言及される「<他なるもの>」と「シミュラクル」との関係は、『ソフィスト』の言い方を用いれば、各々、「分割の成立根拠」(「異」(heteron, thateron)、「あらぬもの」(to me on)のエイドス)と「諸々の「あらぬもの」」(ta me onta)との関係に相当すると考えることができるようです。私の見るところでは、『ソフィスト』においては、ディアレクティケーが行われる場面と、ディアレクティケーの成立根拠の場面とが区別されていて、その二つの場面の区別が、ドゥルーズの上の記述の中では、「コピー・類似性」と「<同じもの>」との区別や、「シミュラクル・非相似」と「<他なるもの>」との区別、という形で現れているように思えます。そして、シミュラクル、<他なるもの>、非相似、アペイロン(無限定)等の対をなすものとして、コピー、モデル、類似性、イデア、<同じもの>、ペラス(限定)が想定されているように思えます。実際、最初の引用末の「シミュラクルの物質 [=質料=材料] 」は、プロティノスの「質料」やアリストテレスの報告に見られる「不定の二」とかなり密接な関係にあるものと思われ、もしそうだとすれば、私は、私自身のプラトン研究の立場から見て、かなりの程度まで、ドゥルーズのプラトン理解やシミュラクルの説明を支持することができます(ただし、私は、不定の二やプロティノスの質料を、分割の成立根拠の場面で考えていたので、それは、ドゥルーズの上の記述で言えば、「シミュラクルの物質」というよりはむしろ「<他なるもの>」に相当するということになりそうで、そのあたりで若干違いがあるということになるのかもしれません)。

しかし、ドゥルーズの次の説明については、少々疑問が残ります。
「『ソフィスト』においては、分割法はパラドックス的に用いられていて、その目標は、・・・シミュラクルの存在(あるいはむしろ、非 - 存在)を定義することである・・・。ソフィストそのものが、シミュラクルの存在者、・・・である。しかし、この意味では、『ソフィスト』の結末には、プラトニズムの最も異常な冒険が含まれているかもしれない。シミュラクルの側で大いに探求し、シミュラクルの深淵に身を乗り出した挙句に、プラトンは一瞬の閃光の内で発見する。シミュラクルは単なる偽のコピーではない、シミュラクルはコピーの知見そのものを問い質している・・・・・・モデルの知見をも、と。ソフィストの最終定義は、もはやソフィストとソクラテスその人を区別できなくなる地点までわれわれを連れて行く。ソクラテスとは、簡略な議論を通して一対一で振る舞うイロニストであったからである。とすれば、イロニーをそこまで推し進めるべきではなかったのか。そして、プラトンが、最初に、プラトニズムを転倒するこの方角を定めたのではないのか。」(同書下巻、付録I-I プラトンとシミュラクル 138頁)
この説明の最後の言葉、「プラトンが、最初に、プラトニズムを転倒するこの方角を定めたのではないか」には、違和感を覚えます。ドゥルーズの言うように、プラトンが『ソフィスト』においてシミュラクルと偽のコピーとの違いを想定しているとしても(この点ではドゥルーズに異論はありませんが)、その違いと「プラトニズムの転倒」とは、プラトンの後期諸対話篇を読む限りでは、つながらない、と私には思えます。プラトンは、中期末の『パイドロス』において、動の原理としての「魂」を明確に表明したこと始めとして、『ソフィステス』、『ピレボス』、『ティマイオス』、『法律』などの後期対話篇において、無限定や動や異といった視点を強調しています。しかし、『ティマイオス』では範型イデア論が宇宙霊魂の円環運動論と両立していますし、『ピレボス』でも「あるものは限と無限とから成る」とされていて、ここでも限と無限とは両立しています。これがどうしてプラトニズムの「転倒」なのでしょうか。私としては、「転倒」ではなくて「両立」、つまり、「プラトニズムを転倒した」というよりはむしろ、範型イデア論と両立する対概念をも強調し始めた、と言った方がわかりやすい。

もっとも、『パルメニデス』以降、後期に入ってプラトンのイデア論がどうなったのかについては、現在のプラトン研究においても未決問題ですから、ここに書いた私の考えも、一つの意見にすぎないわけですが。いずれにせよ、ドゥルーズのプラトン解釈、特にシミュラクル論には、興味深い点が多かった、というところで、今回久しぶりに書いた「実物と映像」シリーズ(6)を終わることにします。
by matsuura2005 | 2008-04-09 05:38
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