管理人 : 松浦明宏
Malcolm(2006) (続き)
正月休みに Malcolm 論文の最初の一頁だけ見て「第一印象」を書き、そのままになっていましたので、続きを読んでみました。

どうやら Malcolm 論文の主旨は、 Sph.255c-d を、形而上学(pp.283-284)も意味論(p.284末)も前提せずに言語表現の用法としてのみ読もうというところにあるらしく、そのためにディオゲネス・ラエルティオスの報告を引き合いに出した(p.284)ということのようです。ディオゲネスの報告の中の「別のものとの関連で語られる『ある』」の例として、「より速い」「より美しい」等が出てきますが、これは「より美しい(より美しくある)」(is more beautiful)という述語表現のことであって、この述語表現を文中で適切に用いるには「〜より」という補足語を必要とするという言語表現の用法を想定したものである。他方、「自体的に語られる『ある』」の方の例、「人間」等も同様に、'is (a) man' といった述語表現には補足語が不要であるという用法を想定している。だから、'(is) beautiful' は、'surface grammar' においては、自体的に語られる「ある」 に分類され、'(is) more beautiful' は別のものとの関連で語られる「ある」に分類される、ということのようです。'surface grammar' というのはつまり、形而上学も意味論も前提しない言語表現の用法のことであると私には思えました(ヴィトゲンシュタインの「表層文法」?)。

そういうことなら、('different' と 'beautiful' との違いはどこにあるのかという)正月に私が提出した疑問は解消します。言葉の使い方だけを問題にするなら、'is beautiful' という述語表現は補足語を必要としないので自体的に語られる「ある」に分類され、 'is different' という述語表現は 'from 〜' という補足語を常に必要とするので別のものとの関連で語られる「ある」にのみ分類されるという説明そのものは理解可能です。

これで当初の疑問は解消されましたが、論文全体を一通り読み終えてみると、やはりこの解釈は無理筋であるという結論に達しました。

Malcolm のように、自体的に語られる「ある」を 'is (a) man'、'is (a) horse' 等の述語表現、別のものとの関連で語られる「ある」を 'is larger'、'is more beautiful' 等の述語表現と解した場合、'is different' という述語表現と比較対照されるのは、実質的には、'man' 、'horse'、'larger' といった、「ある」('is')以外の述語部分であり、この述語部分が補足語を必要とするか否かという違いを、「ある」('is')のゲノスと「異」('different')のゲノスとを識別するための基準にすることができるとは思えません。'is (a) man' や 'is different' といった言語表現が補足語を必要とするか否かを決めているのは、'is' ではなく 'man' や 'different' という述語部分である以上、'is' はその種の補足語の要不要とは無関係であり、無関係である以上、その種の補足語を常に必要とするという特徴が「異」のイデアと「ある」のイデアとを識別する基準になると考えるのは不自然です。ディオゲネスのテキストから言えるのは、単に、'man' と 'different' とは別のカテゴリーに分類される(従って「人間」のゲノスと「異」のゲノスとは別のゲノスである)という類の識別だけであって、'is' と 'different' とが別のカテゴリーに分類される(従って「ある」のゲノス(イデア)と「異」のゲノス(イデア)とは別のゲノスである)という識別ではないということです。

もちろん、件の補足語の要不要と '無関係であるか否か' というこの違いによって「ある」と「異」とを区別することは、理屈の上では可能です。しかし、
「諸々の『ある』のうちの、或るものは自体的に、或るものは別のものとの関連で、常に語られる。しかし、異は常に他のものとの関連で語られる。」
「もし異が『ある』と同様にそれら二種類に与ったとしたら、異の中には他のものとの関連ではなく語られるものもあっただろう。」
という『ソフィステス』の当該箇所を読んで、プラトン自身が件の補足語の要不要と '無関係であるか否か' を基準にして「ある」のイデアと「異」のイデアとを識別していると解釈するのは不自然きわまりない。どう見てもこれは、'is' という言語表現の場合のカテゴリーの数と、'different' という言語表現の場合のカテゴリーの数とが違っていることを論拠にして、「ある」のイデアと「異」のイデアとを識別しているようにしか私には見えません。

むしろ、
'different' という言語表現は常に補足語を必要とするが、('is (a) man' や 'is (a) horse' ではなくて)'is' という言語表現には 'different' の場合と同種の補足語を必要とするものと必要としないものとがある、
という'is' と 'different' との対照がもしディオゲネスのテキストに書かれていたのであれば、それを『ソフィステス』255c-e 解釈の典拠にすることはできたかもしれません。しかし、当然のことながら、ディオゲネスのテキストにはもともと二種類の「ある」の対照しか書かれておらず、'is' と 'different' との対照は書かれていませんから、このテキストを『ソフィステス』当該箇所の解釈の典拠とすることは困難というよりはむしろ不可能でしょう。Malcolm は解釈方針の中で、「ある」と「異」とを区別するという『ソフィステス』の文脈を強調していますが、その解釈のために引き合いに出しているディオゲネスのテキストの中に'is' と 'different' との対照が書かれていないということに、あまり注意を払っていないように思えます。

以上、ディオゲネスを典拠にして『ソフィステス』255c-e を解釈するのは無理である、というのが、Malcolm(2006)を一読して得られた結論です。結局、この論文を読んでも、ディオゲネスを典拠とする他の解釈者(e.g. Dancy(1999))の場合と同様、”無理筋だ”という私の考えは変わりませんでした。しかし、ディオゲネスを典拠とする解釈の不備を私なりにより明確に理解できたという意味で、Malcolm(2006)を読んで勉強になりました。
by matsuura2005 | 2008-03-09 06:15
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