管理人 : 松浦明宏
研究ノート「レズリー・ブラウンのbe動詞解釈」
レズリー・ブラウンのbe動詞解釈(新しい完全用法-不完全用法解釈)の概要紹介と批判です。新しい完全用法と言っても、もう20年近く前のものですが(1986年)。

 レズリー・ブラウンは、従来とは異なる視点から完全用法における「完全性」の意味を見直し、新しい完全用法-不完全用法解釈を提示し、これによってプラトンの『ソフィステース』に見られる二つの「ある」、すなわち、自体的に語られる「ある」と別のものとの関連で語られる「ある」とを説明しようと試みている(プラトンの二つの「ある」には、他に、存在とコプラ、同一性と述定、本質と属性等、さまざまな解釈が試みられている。)。

ブラウンは、Be動詞の完全用法を次の二種類に分けている 。

(C1)「補語を取ってもいないし、補語を許しもしない完全用法」
(C1 a use which neither has nor allows a complement)
(C2)「(明示的な、もしくは、省略された)補語はないが、補語を許す完全用法」
(C2 a use where there is no complement (explicit or elided) but which allows a complement)
 
 この「補語を許さない完全用法」と「補語を許す完全用法」とを、以下、ブラウンの表記に従って、各々、C1、C2、と表わすことにすると、従来の完全用法はC1に相当する。ではブラウンが提案するC2としての完全用法はどのようなものか。
 ブラウンは、C2を提案するに先だって、まず、be動詞ではなくて一般動詞(以下の例では「成長する」(grow)と「教える」(teach))について、次の二組の文を提示する 。

1a ジェーンはトマトを育てている(Jane is growing tomatoes.)
1b ジェーンは成長している(Jane is growing.)

2a ジェーンはフランス語を教えている(Jane is teaching French.)
2b ジェーンは教えている(Jane is teaching.)

 これらのうち、前二者間の相違が、他動詞と自動詞の違いによるものであることはいうまでもないが、ブラウンによれば、後二者間の相違もまた他動詞と自動詞の違いによるものである。つまり、2b「ジェーンは教えている」における「教えている」もまた、「教える」という動詞の自動詞的な、完全な用法であり、目的語が省略された他動詞ではないということである 。以上の点で、前二者と後二者は似ている。
 しかし、その一方で、1b「ジェーンは成長している」という発話に対して、「何を育てているのか?」(growing what?)と尋ねる人は、1bの発話内容を理解していないが、2b「ジェーンは教えている」という発話に対して、「何を教えているのか?」(teaching what?)と問う人は、2bの発話内容を理解している。この点で、後二者(2aと2b)の間の相違は前二者(1aと1b)の間の相違ほど隔たってはいない、という違いがある 。
 ブラウンは、これら一般動詞に関する観察を、類比的にbe動詞に適用する。即ち、
「2b(「ジェーンは教えている」)における『教えている』は完全だが目的語を許すのと同様に、C2完全用法の「ある」は補語を許す完全用法である」 。
 尚、ブラウンは明記していないが、彼女は、従来の完全用法即ちC1と不完全用法との対を、先述の1b「ジェーンは成長している」と1a「ジェーンはトマトを育てている」との関係に類比的に考えているものと観られる。なぜなら、「ジェーンは成長している」は目的語を許さないからである。また、以上のブラウン解釈は、「統辞論上の完全用法と不完全用法の区別は、伝統的にそう思われてきたほどには明瞭な区別ではない」 ことを示す意図で提出されたものである。

 ところで、このブラウン解釈のポイントとなる2b「ジェーンは教えている」における「教えている」が、(「フランス語」という)目的語の省略された他動詞ではないという点について、ブラウンは、彼女自身がそう語っているように 、アンソニー・ケニーが、「行為」(actions)と「関係」(relations)とを区別する際の特徴の一つとして提出している「多重付加性」(polyadicity)という概念に基いている 。
 まず、ケニーの問題意識を要約すると、例えば、「プラトンはアリストテレスに教えた」という行為文も、「プラトンはアリストテレスよりも年長だった」という関係文も、共に「プラトン」「アリストテレス」という二項の述語から成る文である(dyadic)。しかし、共に二項述語の文ではあっても、「教える」等の行動概念と「より年長である」等の関係概念とは、或る仕方で区別される。大まかにいえば、こうした問題意識の下で、ケニーは、行為と関係とを区別するための一つの基準として、以下に述べる「多重付加性」という概念に着目する。
 即ち、ケニーによれば、もし「プラトンは教えた」('Plato taught.')という文が、「プラトンはアリストテレスに教えた」('Plato taught Aristotle')における「アリストテレス」が省略されたものだとすれば、この後者もまた、例えば、「プラトンはアテネでアリストテレスに教えた」における「アテネで」が省略されたものであることになる。そして、また、この最後の文も、例えば、「紀元前5世紀に」が省略されたものであることになり、「さらなる情報の総計に対する理論的な制限はない」 (従って、「プラトンは教えた」という文は「アリストテレス」が省略されたものではない)。
 これに対して、「プラトンは(アリストテレス)よりも年長であった」等の関係文の場合には 、二項付加性(dyadic)(「...は...より年長だった」等における二箇所の"..."に補足語を要求すること)、三項付加性(triadic)等、各々の関係の種類によって、本質的に、その文に付け加えられる補足語の数が決まっている 。例えば、「プラトンはアリストテレスよりも年長だった」という二項関係の場合でいえば、「プラトンはより年長だった」だけでは文意を適切に把握できず、「アリストテレスよりも」という補足語を必要とする。しかし、この場合には、三項関係の場合とは違って、それ以上の補足語は必要ではない。
 ケニーはこのようにして、「多重付加性」に関する振舞いの違い、即ち、行為文の適切な理解には、必ずしも補足語を必要とするわけではないが、補足しようと思えば無制限に補足され得るのに対して、関係文の適切な理解には補足語を必要とし、かつ、各々の関係の種類によってその関係文が必要とする補足語の数が決まっている、という違いに基いて、行為概念と関係概念とを区別することを試みている。

 ブラウンは、ケニーのこの「多重付加性」議論に見られる「プラトンは教える」という言明が、「アリストテレスに」という語の省略された言明ではないという点に着目して 、これを「ジェーンは教える」は「フランス語を」という語の省略された不完全な文ではなく、これだけで完全な文であると見ることに反映させている。そしてこの意味での完全性に基いて、先に見た仕方で、C2としての完全用法を提案し、これを当該の「自体的に語られるある」に適用することになる 。

 さて、このブラウン解釈は、「ある」の場合の関係性と異の場合の関係性とが一致せず、プラトンの言う「別のものとの関連で語られる「ある」」と「異は常に別のものとの関連で語られる」という発言の解釈としては、不適切な解釈であるということになる。

 ブラウン解釈においては、ケニーの多重付加性に基づく新しい観点からbe動詞の完全用法が捉え直されているとはいえ、その不完全用法における補足語の少なくとも一部には、いわゆる補語が含まれるであろう。つまり、ブラウン解釈においても、(誰かからの問いに答える場合ではなく、最初に自分が発話する場合に)'This book is red.'という文の意味内容を対話相手に適切に理解してもらおうとすれば、'This book is.'ないしは'It is.'という文を発話することはまずありえず、補語redを必要とする。したがって、'This book is red.' における'is'は、ブラウンの解釈においても不完全用法に分類されるはずである。とすれば、この補足語は、プラトン的に言えば、文の主語にとっての「分有対象」であって、「AはBより背が高い」という場合のBとはちがって「関係対象」ではない。「AはCである」という場合のAとCとの関係性と、「AはBと異なる(Bより背が高い、Bより速い、etc.)」という場合のAとBとの関係性とはその内容を異にする、ということである。

 だが、プラトン自身は、「「ある」には自体的に語られるものと別のものとの関連で語られる「ある」との二種類あるが、異は常に別のものとの関連で語られる。したがって、「ある」と異とは異なる類である。」という仕方で、「ある」と異とを識別することを目的に件の関係的に語られる「ある」に言及している以上、「ある」の場合の関係性と異の場合の関係性とは、その内容が一致していなければならない。関係性の内容が異なってしまえば、プラトン自身が不適切な仕方で二つの類の振る舞いを比較していることになるからである。

 したがって、ブラウン解釈は、それがプラトンの二つの「ある」を説明するために出されたものである限り、不適切な解釈であるということになる。
by matsuura2005 | 2005-05-26 13:53
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