管理人 : 松浦明宏
『ソフィステス』の二元論批判における「ある」(2)
『ソフィステス』の二元論批判における「ある」(1)の続き)

さて、批判前半における「熱と冷の一方をあると呼ぶと、一つがあることになる」とは、例えば
「あるが冷である」とすると「あるは熱ではない」から、
「冷という一つだけがあることになる」
ということであると観られるが、この批判の手続は、ソフィスト定義において、例えば、
「技術には獲得術と製作術の二つがある」
と、技術を二分した上で、これらからソフィストの特徴として、例えば、獲得術を「選択」して、
「ソフィストは獲得術であり、製作術ではない」
とする手続に似て、
「万有には熱と冷の二つがある」
と、万有を二分した上で、これらから「ある」の特徴として、例えば「冷」を選んで、
「あるは冷であり、熱ではない」
とする手続であるように思われる。つまり、この「批判前半」は、ソフィスト定義におけるディアレクティケーの中の「選択」の過程と或る種の同型性を持っているように思われるのである。

では、批判後半「熱と冷の両方共をあると呼んでも、一つがある」はどうだろうか。もし上述の批判前半が、ソフィスト定義における「選択」の過程と同型性を持っているとすれば、批判後半が、「分割と総観」の過程と密接な関わりを持っていることは想像に難くない。実際、次のように考えれば、批判後半は分割と総観と関わりが深いことがわかる。

まず、例えば、「(自然産物とその影像という)それら二つは神の製作の御業である」(266c5 duvo gaVr ou^n ejsti tau'ta qeiva" e[rga poihvsew")という日常的言語使用場面における一つの言明に用いられている「ある」は、分割の過程に見られる「別のものとの関連で語られる「ある」」(proV" a[lla)とも総観の過程に見られる「自体的に語られる「ある」」(aujta kaq j auJtav)とも解された。これは「医術と体育術は肉体の浄化術である」でも、「濾すと篩うは分離術である」でも、皆、同じことである。

そこで、例えば、「(濾すと篩うという)二つは分離術である」を総観言明として見た場合、これは、
「『濾す』と『篩う』の両者に『分離術』が内在する」
という仕方で、「濾す」と「篩う」という「多くのもの」を見渡して、両者に「分離術」という共通の特徴が備わっている(内在している)ことを見出していると解される。

すると、二元論批判後半における「熱と冷の両方がある」は、
「熱と冷の両者に『ある』が内在する」
という仕方で、熱と冷に共通する「ある」という特徴を見出していると解することができよう。そして、先の「(濾すと篩うという)二つは分離術である」を分割言明とみれば、「濾すと篩うは、分離術という点で、同族である」となるから、「熱と冷がある」を分割言明相当とみれば
「熱と冷は、「ある」という点で、同族である」
と解される。従って、二元論批判後半の手続は、分割と総観の過程と或る種の同型性を持っていると観られる。

では、これら二種類の批判の手続と、分割法における諸過程の手続とはどこが違うのだろうか。まず、「選択」の過程と同型性を持つと観られる批判前半について述べることにするが、ここでは
「ソフィストは獲得術である」「『ある』は冷である」
という二つの言明を例にとって考える。これらを所有選択(相当)の言明と見た場合には、各々、
「ソフィストは獲得術という特徴を持つ」「『ある』は冷という特徴を持つ」
となるから、あまり違いが目立たないが 、これを同族選択(相当)と見ると、各々、
「ソフィストは獲得術者達と同族である」「『ある』は冷と同一である」
という仕方で、「同族性」と「同一性」との違いが現われる。仮に、「『ある』は冷である」が「『ある』は諸々の冷いものと同族である」と言い換えることもできて、「『ある』は冷である」が両義的であるということになったとしても、「ソフィストは獲得術である」を「ソフィストは獲得術と同一である」と言い換えることはできないから、「『ある』は冷である」と「ソフィストは獲得術である」との違いが同族性と同一性の違いにおいて明らかになることに変わりはない。従って、分割法における「選択」の手続と、二元論批判前半の手続との根本的な違いは、
同族性と同一性との違いである
ということになる。そして、この「同族性」と「同一性」の違いが、私見によれば、「選択」と「選択の成立根拠」という違いに反映されていると観られる。

次に、二元論批判後半の手続と、分割及び総観の手続との違いについて述べると、
「熱と冷の両方がある」における「ある」は「すべてに共通する」特徴だが、「濾すも篩うも分離術である」における「分離術」は「すべてに共通する」特徴ではない
という点が最も重要な違いであるように思われる。つまり、総観活動の中で見出される一つの共通の特徴は、例えば、「濾す、篩う等に関するすべて」という仕方で、「関して」(226c5 periv)という仕方で限定された領域の特徴であるが、二元論批判における「ある」は、熱と冷に関してのみ当てはまる特徴ではないということである。実際、総観の場合には、「濾す、篩う等に関して、これらすべての中に分離術という一つの技術がある」と言われるのに対して、二元論批判においては、「熱と冷に関して、熱と冷はある」と言われているわけではなく、単に「熱と冷はある」と言われているだけである。

従ってまた、「熱と冷の両者がある」を分割言明相当と見て、これを「熱は冷と、『ある』という点で、同族である」と解しても、「ある」がすべてに共通する特徴である以上、「『ある』という点で」という限定が実質的には機能せず、その分割言明相当は、「濾すと篩うの両者は分離術である」を分割言明と見た場合とは違って、(非同族の領域がないために)「同族」ということの意味が実質的には失われてしまい、そこには、「熱は冷と」という「関係」だけしかその内実として残らないということになる。この点は、アリストテレスの報告に見られる「不定の二」やプロティノスの「質料」と密接な関わりを持っていると見られるが、いずれにせよ、「熱と冷の両者がある」を分割言明相当と見た場合にも、「濾すと篩うは分離術である」と「熱と冷の両者がある」との違いが読み取られることは確かである。

以上の考察の一つの結論として、試し解釈の立場から、次のように言うことができるであろう。すなわち、当該の二元論批判に見られるアポリアは、自体性と関係性という二つのアスペクト(さらには、限定と無限定というここでは明確には述べなかった二つのアスペクト)を考慮に入れれば、アポリアではなくなる。それがアポリアであるかのごとく見えるのは、その二元論批判を読む者がそこにそうしたアスペクトの違いを見ていないためである。その意味で、著者プラトンは、読者がそれらのアスペクトの違いを読み取ることができるかどうかを試していると言うことができる。二元論批判の後に、万有が静と動との両方ともであると言われ、その直後に「ある」は静と動とも異なる第三のものであるというアポリアが現れる場合にも、同様である。このアポリアについてもまた、自体性と関係性というアスペクトの違いを念頭におけば、それはアポリアというよりはむしろ「ある」には自体性と関係性という二つのアスペクトがあることの示唆として解することができ、そういう仕方で、アポリアを解消することができるであろう。

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by matsuura2005 | 2007-12-02 04:34
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