管理人 : 松浦明宏
『ソフィステス』の二元論批判における「ある」(1)
まえがき
プラトン『ソフィステス』の二元論批判は、ハイデガーの『存在と時間』の巻頭言において「存在の意味への問い」があらためて立てられる時に言及される箇所としても有名です(下の論述中の引用文の直後の文をハイデガーは引用しています)。以下の文章は、ハイデガー研究というよりはプラトン研究の立場から、その二元論批判に見られる「ある」について、この対話篇の両端部に現れるディアレクティケーに見られる「ある」との同型性を指摘し、これによって、二元論批判において提示されているアポリアを解決するためのプラトンによる「試し」が認められることを主張したものです。つまり、ディアレクティケーに見られる「ある」には、日常的言語使用の場面の同じ一つの「ある」についての、自体性(総観)と関係性(分割)(および限定性(選択)と無限定性(分割・総観))という「暗黙裡に想定されている理解」の違いが認められ、そうした「暗黙裡の理解」の違いに自覚的になれば、二元論批判に提示されたアポリアは解消する。したがって、その「暗黙裡の理解」を読者が自覚できるかどうかをプラトンは二元論批判のアポリア提示によって試している、ということです。

結局、私の見るところでは、『ソフィステス』の二元論批判は、日常的にはその意味するところが明らかと思われている「ある」について、上記の「暗黙裡の理解」の違いを明確に自覚しない限りアポリアに陥るという指摘であり、裏返して言えば、二元論批判をディアレクティケーとの関連で捉えることによって、日常的言語使用のレベルにおける「ある」と、それに含まれる種々の「暗黙裡の理解」を明確に説明するレベルの「ある」という、二つのレベルの「ある」を想定することが、アポリア回避にとって重要であるということになります(この「暗黙裡の理解」がおそらくディアレクティケーの「成立根拠」(aitia)と密接に関わっていると思われますが、ここではその点にはあまり立ち入っていません)。

論述の骨格となる部分はD論執筆時のものです。著書執筆の折、その中のどこに二元論批判を入れればいいのかわからなかったため、お蔵入りにしたのですが、そのままにしておくのはもったいない気がしてきたので、若干手を入れた上で、研究ノートとしてこのHPにアップします。若干手を入れたというのは、D論当時は「問答法」と言っていたのを「ディアレクティケー」とし、「原因」と訳していた「aitia」という言葉を「成立根拠」とし(以上は、D論審査時の指摘を反映させた変更)、「試し」解釈という論点を新たに付け加えたという諸点が、その主なものであり、後は、単に文章を整えただけです。少し長いので、(1)と(2)にわけて書きます。

なお、論述中に出てくる「選択」、「所有選択」、「同族選択」、「自体的に語られる「ある」」、「別のものとの関連で語られる「ある」」といった用語の意味については、拙著98頁ー100頁、及び122頁ー127頁を参照していただければと思います。



-----------『ソフィステス』の二元論批判における「ある」(1)--------------------

以下では、ディアレクティケーの成立根拠の考察の一環として、『ソフィステス』中央部前半において、プラトン(エレアの客人)が二元論者を批判する際に採っている手続と、この対話篇の両端部で実践されているディアレクティケーとの或る種の同型性を指摘し、そのことを通じて、この二元論批判においてもプラトンの「試し」が認められることを指摘することを目的として論述を行う。まず、本対話篇の中でこの二元論批判が置かれている位置を簡潔に見とどけた上で、具体的な考察にはいることにしよう。

エレアの客人は、分割法によるソフィスト定義を中断して虚偽可能性の探究に乗り出すと、まず、「あらぬもの」について検討しようと試みる。しかし、直ちに様々なアポリアに陥り、一時、「あらぬもの」の考察を中止する。そして、そのように困難なものを考察する前に、より分かり易いと思われる「ある」の探究へと向かい、先行する哲学者達が万有についてどんな見解を持っていたのかを検討する。その際、まず、万有が幾つから成っているかという観点から、多元論、一元論を各々この順に吟味するが、いずれもアポリアをはらんでいることがわかる。そこで、今度は、万有が何から成っているかという観点から、万物流転を説く物質主義者と、万物は静止していることを説く形相主義者の見解を順に検討する。しかし、ここでもやはりアポリアに陥り、万有は流動と静止の両方共であると言わざるを得ない、という一つの結論に達する。ところが、その直後に、「ある」は静とも動とも異なる第三のものであって、静と動との両方共ではないというアポリアに陥る。こうしてエレアの客人は、次に、所謂「形相相互の結合」に想到し、あらぬものがあることの立証へと向かう。

以上の概略から明らかなように、当該の二元論批判は、ソフィスト定義の中断から、あらぬものがあることの立証が始まるまでの間の諸議論、特に「ある」の探究の最初に現れる多元論の代表として提示されている。ここで結論を先取りしておけば、私は、プラトンの対話篇においてアポリアが提示される場合には、著者プラトンは読者がそのアポリアをどのように読み解くかを試しているという「試し」解釈の立場を採用しており、この二元論批判もまた例外ではない。すなわち、二元論批判に現れるアポリアについて、プラトン自身はそれを解かれるべきアポリアとして提示していると解される以上、われわれはそれを解く方向で解釈を行なうべきである、ということである。

では、その二元論批判はどのように行なわれているのだろうか。具体的に見てみよう。まず、その場面を引用する。この引用中では、対話篇主人公であるエレアの客人が、その場にいるものと想定された二元論者達に向って(「あなた方は」、と)質問し、客人の実際の対話相手であるテアイテトスが、二元論者達の代わりに受け答えをする。
客人
「ではさあ、万物が、熱と冷、或いは、何かこの類の二つであると主張するあなた方は、それら両者と各々があると言う時には、一体それ(「ある」)をどんなものとして両者に向けて発話しているのですか? 我々は、あなた方から、その「ある」をどんなものとして受け取るべきなのですか? それはそれら二つと並ぶ第三のものであって、万物は、あなた方によれば 、もはや二つではなくて三つであるとと置くべきなのでしょうか? なぜなら、あなた方は、二つのうちの一方をあると呼びながら、両者が、同様の資格で、ある、とは恐らく言わないでしょうから。なぜなら、(もし二つのうちの一方をあると呼ぶとしたら)、恐らく、いずれの場合でも、二つがあるのではなくて、一つがあることになるのでしょうから。」

テアイテトス
「おっしゃる通りです」

客人
「しかし、それでは、あなた方は、それら両方共をあると呼ぶことを望むのでしょうか?」

テアイテトス
「たぶん」

客人
「しかし、友よ、たとえそうしても、あなた方が、二つを一つと言うことは明らかでしょう。」
(243d8-244a2、尚、括弧内の語句や下線は私が加えたものである。)
この二元論批判において、エレアの客人は、まず、「万有は熱と冷の二つである」という二元論者の主張に対して、この主張文における「その『ある』は何か」(tiv toV ei^nai tou'to;)と問う。そして、その上で、次の二種類の批判を行っていると観られる。

一つは、「熱と冷の一方をあると呼ぶ」と「一つがある」ことになるが、これを避けようとしても、「ある」は熱とも冷とも異なる「第三のもの」になり、万有は一つか三つであって二つではないことになる、という批判である。例えば、熱と「ある」とを同一視すると、冷は「『ある』ではないもの」、即ち「あらぬもの」になるから、結局、熱という一つだけがあることになる。しかし、この「一つだけがある」という難点を避けようとしても、「ある」、熱、冷、という互いに異なる三つのものがあるとしか言えず、この場合には万有は三つになってしまう。従って、いずれにせよ、万有は二つではない、という批判である。以下、これを「批判前半」(243e3-7)と呼ぶことにする。

もう一つの批判は、「熱と冷の両方共をあると呼」んでも「一つがある」ことになるという批判である。以下、これを「批判後半」(243e8-244a2)と呼ぶことにすると、これは勿論、熱と冷との両方を一まとまりのものと見れば、一つのものだけがあることになる、という趣旨の批判と解される。

(以下、『ソフィステス』の二元論批判における「ある」(2)へ続く)
by matsuura2005 | 2007-12-02 03:45
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