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管理人 : 松浦明宏
ジャクソン「教えられるのではない教え」(untaught lessons)の序文
先日(07/10/02)、書名に言及した、Philip W. Jackson, untaught lessons の、まだ、実は、序文(Preface)しか読んでないのですが、この序文が印象的だったので、要約と抄訳の中間のような形で書いてみました。これまで追求してきたソクラテス/プラトンの「徳は教えられるのか」という問題と「隠れたカリキュラム」の問題との関連を示す何らかの示唆が、この本の中に見つけられるかもしれないとの期待を抱かせる序文です。
この本は、教師が学生・生徒に与える影響に関するものである。しかし、それは「到達度テストや、教育効果をはかるその他の慣習的な尺度に示される種類の影響」ではなく、「われわれが、自分自身と他の人々について、また生一般について、教師から学ぶもの」という意味での影響である。

それは、教師たちの明示的な授業計画等の一部ではないという意味では「教えられるのではない」(untaught)ものだが、「教師たちに別れを告げてかなり経った後でわれわれがその教師たちについて覚えていること」という形をとり、その性質によって、その教師たちを生涯を通して慕ったり、嘲笑と軽蔑の対象とし続けるようになる。

この本はまた、「職業として教えることが教師にどのような仕方で影響するのかという相互問題(reciprocal question)」をも扱っている。教えることが教師に与える影響は、部分的にではあれ、教職に留まる教師と教職を離れる教師とを決定し、それが間接的に「教えられるのではない教え」に影響する。

「今日の教育研究共同体の内部では、教育研究は、現場の教師たちの観察研究や教師達へのインタヴュー」、という仕方で、方法論的に限定されている。こうした研究に価値があることは論をまたないが、その重要性にもかかわらず、「”データ”が直接的には目に見えないもの、耳に聞こえないものである教育の研究にもまた価値がある」。

このように、直接的には目に見えない”データ”という意味で「間接的な”データ”(secondhand "data")」として、この本には以下のものが含まれている。「人が自分の教師について保持している記憶」、「教室での自らの経験を熟考することを選んだ芸術家たちの洞察」、「教師の仕事について第三者の観点から描くことを追求した芸術家たちの洞察(ソクラテスについてのプラトンの描写はその典型)」。
確かに、昔先生に何を教わったかを今振返ってみても、思い出すのは教科内容とはあまり関係ないことばかりですね。

序文だけ読んで言うのも何ですが、「教えられるのではない教え」(untaught lessons)という言葉は、「隠れたカリキュラム」(hidden curriculum)という言葉と並んで、それ自体としては、よい事柄をも指すし、悪い事柄をも指すことのできる、価値中立的な言葉であるということになりそうで、一般に「隠れたカリキュラム」という言葉が、悪い意味で用いられることが多いのに対して、ジャクソンは「教えられるのではない教え」という言葉を、どちらかというとよい意味で使いたいのだろうなぁ、という雰囲気が、その文章からは感じ取られます。

ジャクソンが、直接に目に見えるデータだけでなく、目に見えないデータも重要だといっていることや、シラバスなどには書かれない教えの重要さに注目していることは、哲学や倫理学を教えている人間にとっては、単なる研究の問題ではなく、それこそ、”直接的(firsthand)かつ間接的(secondhand)な”問題であると言えそうだと思いました。哲学や倫理学ってどうして必要なの、と問われた時に、哲学倫理学の教師は、自分の書いたシラバス内容によってそれを示すことができるのでしょうか。できなければならないようでもあり、できそうもないようでもあり・・・。プラトンの対話篇に描かれたソクラテスが、そうした「間接的データ」として「目に見える」形で提示されることの意味とか、そういうことから、私自身考え直してみるためにも、この本は読む価値がありそうです(期待はずれにならないことを願っています)。

ちなみに、私自身は、欲求(欲望)の対象の向けかえ・方向付け(善きものを欲するようになるかどうか)というところで、ソクラテス/プラトンの徳論と隠れたカリキュラムの問題とはつながっていると思いますが、この本の著者はそのあたりをどう考えているのでしょうか。それが私がこの本を読む時の視点の置き所です。
by matsuura2005 | 2007-10-05 01:29
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