管理人 : 松浦明宏
論文抜粋「納富解釈の検討」 + P.S.1 + P.S.2+P.S.3
執筆中の論文の諸解釈の検討のうち、納富信留氏の解釈の検討の部分を抜粋したものです。論文中では G.E.L. Owen の解釈も扱ってはいますが、ここでは省略。以下は、その Owen 解釈の検討の続きです。引用は、納富信留 『ソフィストと哲学者の間 プラトン『ソフィスト』を読む』、名古屋大学出版会、二〇〇二年、317頁-326頁 からのものです。
P.S.1: 07/09/17 追加
P.S.2: 07/10/04 追加
P.S.3: 08/04/29 追加
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多摩哲学会『パレーシア』第二号投稿予定原稿(抜粋)
「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-
松浦明宏

納富解釈の検討

 さて、Owen による対仮定の提案以来、当該箇所における「ある」と「あらぬ」の対性に関する研究は、納富も述べているように 、対仮定という言葉に言及することはあっても、その内実を考察したものは皆無に等しく、次なる実質的な研究者といえるのは納富自身である。納富解釈の新しさがどこにあるのかといえば、当たり前のことのようだが、プラトンのテキストに即して対性の内容を検討しているところにある。Owen が be 動詞研究というバイアスをかけて当該箇所を読み、その傾向が、その後の研究者たちに引き継がれてきていたことを考えれば、納富が、Owen のかけたそのバイアスをはずし、自分自身で対話篇内容と照らし合わせて当該箇所を再検討しているということは、それだけで十分画期的なことである。

 納富は、まず、当該箇所の特徴として次の三つを挙げている 。
(a)「ない」と「ある」は、等しく(ejx i[sou)困難に与る。
(b)二つの概念の解明は対をなす。但し、それは、これら両者を必ずしも一緒に解
  明するという方針を示すものではなく、一方が明らかになる時に、他方も明らか
  になるという意味での "対性" を強調するものである。
(c)いずれも観ることが出来ない場合、両者に対して同時に言論を進めるべきであ
  る。
納富によれば、(b)は「両困難が解明される場合」、(c)は「解明されない場合」という、一見独立した対処法を示した選択肢に見えるが、そうではなく、「ある」と「あらぬ」のいずれをも観ることのできない現段階では(c)の方針で探究を始め、その探究の結末として(b)に至るという内容が示されている。私の見るところでも、(c)から(b)へ探究のプロセスが進むというこの指摘は大筋では正しく、後述する本稿解釈もこの指摘を踏まえている。
 だが、問題はそれら対性の中身である。納富によれば、(c)「両者に対して同時に言論を進める」ということの内実は、
「『ある』と『ない』について」、「極端な "全分離主義" と "全結合主義" を同時に回避することにより、その間に適正な結合と分離の関係を見出すこと」
である。すなわち、「ある」に関する困難は、「動が静止する」など、すべてのものをすべてのものと結合する「全結合主義」に由来し 、他方、「ない」に関する困難は、「ない」を「ある」に決して結び付けてはならないというパルメニデスのテーゼに起源を持ち、これと共通性を持つ「晩学の人々」の立場 、すべてのものをすべてのものから切り離す「全分離主義」と密接に関わる 。そこで、エレアの客人は、それら「ある」の困難と「ない」の困難とが同時に解消されることを期待して、これら両極端の立場を避け、たとえば、「動は『ある』とは交わるが、静とは交わらない」という仕方で、「或る類と或る類は結合するが、或る類と或る類とは結合しない」ことに着目して、全結合主義と全分離主義の中間の立場「適正結合主義」を採って言論を押し進める 。これが納富の言う(c)「両者に対して同時に言論を進める」ということの内容である 。すなわち、納富が(c)について言う「両者」とは、「(「『ある』の困難と『ない』の困難」の起源である)『全結合主義』と『全分離主義』とのいずれをも」という意味であり、これらのいずれの立場も避けて(そしてそのことによって「『ある』の困難と『ない』の困難」のいずれをも避けて)、適正結合主義の立場から言論を進めることが、「両者に対して同時に言論を進める」ことの意味である。


(c)についてのコメント

 さて、全結合主義と全分離主義から適正結合主義へという話の流れは、確かに対話篇に見られ、必ずしも間違いというわけではない。だが、対話篇中央部に見られる「母音の比喩」においては、適正結合主義に言及された直後に、全結合主義につながるような発言が行なわれている。
「とりわけ、すべての類を貫いてそれらを結びつけ、それらが混合すること(summeivgnusqai)を可能にするような何らかの類があるかどうか、また、逆に、諸々の分割において、諸々の全体を貫いて、分割の成立根拠となる別の諸類があるかどうか」(253c)
この発言において、すべての類を貫いてそれらを結合し混合する類として何が示唆されているにせよ、それがすべての類を「混合」させるということが言われていることからすれば、プラトン自身は、全結合主義の立場をも採っていると考えるのが自然であろう。実際、「ある」という類はすべてをつらぬいてそれらを結合し、他方、「異」という類もすべてに行き渡ってすべてを自分以外のすべてから分離するはたらきを持っているとすれば、プラトン自身は全結合主義者でもあり全分離主義者でもあって、これら二つの主義と適正結合主義とは両立するということになるはずである。したがって、当該の「両者を避ける(両者の間を通って)」の内容を、全結合主義と全分離主義を避けるという意味に解釈することには難がある。

(以下略)


-----P.S.1  総観と全結合主義、分割と全分離主義 (07/09/17)--------------------------

上に掲げた「母音の比喩」の一節において、全結合・全混合を可能にする類と分割の成立根拠とが示唆されていることを念頭に置けば、全結合と全分離とは、おそらくは、総観と分割の成立根拠の場面で成立している事柄であって、その場合には、全結合主義と全分離主義をプラトン自身(エレアの客人)が避けていたとは、少なくとも私には、考えにくい。

或る領域内の多くのものが一つの共通の特徴を持っていると見なして、それらを一つの名で呼ぶという一と多の認識活動(総観)の成立根拠の場面では、すべてが一であるという事態が成立していると考えられる。その意味で、この場面では全結合が成立していると考えられる。

他方、分割が或る一つの領域を二つの排除的な領域に分けることであるとすれば、分割の成立根拠の場面では、すべてが二であるという事態が成立していると考えられる。すべてが二であるとはつまり、自分自身をも含めて、すべてのものがすべてのものから異なっているということであり、その意味で、この場面では全分離が成立していると考えられる(不定の二、質料)。これは人間は人間、善は善としか言うことを許さず、人間は善である(その人は善い人である)と言うことを許さないという「晩学の人々」の全分離主義よりはるかに徹底した全分離主義であり、人間が人間から分離し、善が善から分離しているという意味での全分離主義である。

総観において或る領域が設定されるということはつまり、それ以外の領域が設定されるということである以上、総観というプロセスには、或る領域とそれ以外の領域という二つの領域が分かれるということが暗黙裡に前提されていると言える。その意味で分割と総観とは同時に成立している。とすれば、各々の成立根拠の場面も、同じ一つの事柄の二つの異なるアスペクトして成立していると考えるのが自然である。その意味で、すべてが一という状態と、すべてが二という状態とは、同じ事柄の二つのアスペクトとして成立していると考えられる。そして総観の成立根拠の場面において「一」や「ある」という類(「一である」)が、分割の成立根拠の場面で「異」「ある」という類(「異なっている」)が、各々、機能しているとすれば、分割と総観との同時成立性が、当該箇所における「ある」と「あらぬ」との対性と密接に関わっている。

これはつまり、当該箇所において、「一方が、比較的曖昧にであれ比較的明瞭にであれ、明らかになれば、それに応じて他方もそのように明らかになる」と言われていることに定位して、「あらぬ」のエイドスに「ある」の本性が結合しているという意味での「ある」と「あらぬ」との対性から、さらに、分割と総観の成立根拠としての「あらぬ」と「ある」との対性へと議論を展開しうる、ということである。そして、ここではもはや論じないが、以上の分割と総観という要素以外に、限定(ペラス)と無限定(アペイロン)という対性を加味すれば、さらに一層、「ある」と「あらぬ」とは、対をなす仕方で、その姿を現すであろう。


--------P.S.2  全結合と全分有、全分離と全非分有 (07/10/04)---------------------
異の本性によってすべてがすべてから分離されるという意味での「全分離」は、
すべてがすべてと分有し合わないという意味での「全分離」ではない。
前者の意味での全分離とは、すべてがすべてから「異なっている」という意味での全分離であり、異なっているからといって、必ずしも分有し合わないわけではない。
何かと何かとが分有し合うためには、それに先だって、その何かと何かとが異なっていなければならない。だからこそ、『ソフィステス』のテキストにおいては、
五つの最大類相互の異なりを確認した後で、それら同士の分有関係を調べているのである。

同様にまた、母音の比喩に示唆されている「すべての類を混合する類」による「全結合」は、
すべてがすべてと分有し合うという意味での「全結合」ではなく、
互いに何の差異もなくすべてが一であるという状態の「全結合」である(総観の成立根拠の場面、無限定の自体性のアスペクト)。
上述の通り、分有には差異が前提・含意されているが、すべてが一であるという状態には差異は含意されていない。その意味で、(差異が含意されている)全分有という意味での全結合と、(差異の含意されない)すべてが一であるという意味での全結合とは異なっている。

適正結合主義と対立しているのは、全分有という意味での「全結合」、全非分有という意味での「全分離」であって、
すべてが一であるという意味での「全結合」や、すべてがすべてと異なっているという意味での「全分離」ではなく、これらは適正結合主義と両立する。

------- P.S.3 (08/04/29)---------------------
結局、納富氏の説明の枠組みの中には、私の説明の枠組みの中に用意されている道具立て(ディアレクティケーの成立根拠)がないために、エレアの客人自身の全分離主義と全結合主義とを説明する方法がない、ということが上の納富批判の要点である。この「批判」は、納富氏の論の内部の不整合を指摘した内在的批判ではないが、テキスト上の事実(母音の比喩におけるエレアの客人の発言や異に関する記述)と納富氏の説明との不整合を指摘したものであるという点で批判になっていると私は考えている。
by matsuura2005 | 2007-09-13 07:40
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