管理人 : 松浦明宏
論文概要 「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-
多摩哲学会『パレーシア』第二号 投稿予定
「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-
松浦明宏

概要
『ソフィステス』の中央部においては、「ある」と「あらぬ」に関する考察が行なわれています。それはソフィストを像作りの一種と定義するためには、「あるものだけがあり、あらぬものはあらぬ」と考えたパルメニデスの考えに逆らって、「「あらぬ」と「ある」との結合」(「あらぬものがある」)を示さなければならなかったためです。そのために探求者たちは、まず、「あらぬもの」と「あるもの」について、別々に考察を行なった結果、それぞれについてさまざまなアポリアに陥ります。それを受けて言われているのが、エレアの客人の次の発言です。
「だが、『ある』と『あらぬ』とが共に等しくアポリアに与っている以上、今や期待できるのは、それらのうちの一方が、比較的曖昧にであれ比較的明瞭にであれ、姿を現すのに応じて、他方もまたそのように姿を現すということである。他方また、われわれがそのどちらをも見ることができない場合でも、われわれにできる限りの立派な仕方で、両者の間を通って同時に議論を進めることになるだろう。」(Sph.250e6-251a3)
ここでは「ある」と「あらぬ」とが何らかの意味で対をなすことが言及されています。また、その対性として、引用の前半で言われているものと、後半で言われているものと、二つの対性があるように思います。
(1)「ある」の姿が明らかになると同時に「あらぬ」の姿も明らかになり、逆もまた真。
(2)「ある」や「あらぬ」の姿を見ることができない場合でも、両者の間を通って、同時に「ある」と「あらぬ」についての議論を進めていく。
(2)の意味での対性を「形相相互の結合」の議論に見られる「あらぬものがある」と考え、(1)の意味での対性を、「異の部門」の議論に現れる「あらぬ」のエイドスとの関連で考えてみようというのが、今回の論文の骨子です。

「形相相互の結合」の議論の前半では、動という一つの形相が、「ある」の分有という観点からは、あり、異の本性のはたらきという観点からは、あらぬ、という仕方で、あらぬものがあるということが示されます。ここではまだ、「ある」のイデアが「あらぬ」のエイドスと直接混じり合うという意味で「あらぬがある」とか「あるがあらぬ」と言われているわけではありません。その意味で、議論のこの部分では、(2)「ある」や「あらぬ」の姿を見ることができない場合に、両者の間を通って、同時に「ある」と「あらぬ」についての議論を進めていく、ということが実践されているものと私には思えます。

その後、形相相互の結合の議論の後半において、今度は、「ある」のイデアが文の主語に立てられて、「ある」それ自体も、それ自身一つでありながら、他方では、数において無限の他のものではあらぬ、という仕方で、「ある」のイデアがあらぬことが示される議論へと進みます。しかし、「ある」のイデアを主語にしたこの議論は、見かけ上のものであって、おそらくは、厳密な意味では、成り立っていません。なぜなら、「「ある」それ自体は他の諸々のものと異なっている(heteron einai)」、という仕方で、「ある」のイデアに「ある」を述語づけたとたんに、その主語の方の「ある」のイデアは、述語の方の「ある」のイデアの事例であるということになってしまい、第三人間論にパラレルな不都合が生じるからです。

では、どう考えるべきなのでしょうか。次のように考えるべきであると、私には思えます。テキスト上で、「あらぬ」のエイドスは”「ある」の本性と対置された異の部門”とされています。とすれば、「あらぬ」のエイドスには「ある」のエイドス(「ある」の本性)が混ざっていると言えます。この意味で、「ある」と「あらぬ」とは結合しています。そして、その「ある」のエイドスは、美や大など、限定性を持った一般の諸形相とは違って、無限定なものであり、とすれば、その無限定なものと対置された異の部門、すなわち、「あらぬ」のエイドスは、二つの無限定な領域を形作っていると言えます(cf.不定の二)。このように、「ある」の本性の姿が明らかになるにつれて、「あらぬ」のエイドスの姿もまた明らかになると言うことができ、それが、(1)の対性において言われていることの意味内容であると考えられます。

このことをより詳しく言えば、次のようになるでしょう。
つまり、「ある」の本性が「無限定」であるということが明らかになれば、それに応じて、「「ある」が「無限定」と」という関係の型(対置(antithesis))としてテキスト上に描かれている「あらぬ」のエイドスも「無限定が無限定と」(または「「ある」が「ある」と」)という関係の型としてより明らかになり、「あらぬ」のエイドスには「ある」の本性が不即不離の仕方で組み込まれていることが明らかになる。他方、そのように「あらぬ」のエイドスが「不定の二」としてより明瞭になるということはつまり、「ある」のエイドスが「無限定」としてより明瞭になるということを意味している。その意味で、「ある」のエイドスと「あらぬ」のエイドスとは、対をなす仕方で、より明瞭になる。
実際、テキスト上では、異の部門の議論の末で、こう言われています。
「もし誰かが(エレアの客人がそれまでテキスト上で行なってきた)こうした相反する言い方に不信をいだくとすれば、その人はよく考察して、いま語られたことよりも何かよりよいことを述べなければならない。」(259b9-10)
私が上に述べたことが「何かよりよいこと」に相当するのかどうかはわかりませんが、少なくとも、テキスト上に語られた事柄について、「ある」の本性の事例として第二の「ある」の本性が現れてしまうという不備を見出した場合には、その難点を改善して、より良い説明を見出そうとする試みを、プラトンは否定しないでしょう。つまり、上掲の不定の二においても、「ある」の本性は二つ現れていますが、それは一方が他方の事例として現れているのではなく、”両方とも一つの本性でありながら二つに分かれている”という、いわば「無差別の差異」という意味における「二つの本性」なのです。むしろ、私には、プラトン自身、意図的に不備を用意しておいて、読者がそれを見出すかどうか、見出した後、その読者がどうするかということを見ているのではないかと思えます(『パルメニデス』におけるイデア論批判において、これと同種の批判が採り上げられている理由も、このあたりにありそうです)。その意味で、ここにもプラトンの「試し」があるものと私には思えます。テキストに書かれたことをそのまま整合的に説明しようとしているだけでは、プラトンの対話篇を正しく解釈することは、おそらくできないでしょう。そこに書かれていることはもともと必ずしも整合的とは限らないのですから。
by matsuura2005 | 2007-09-09 06:00
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