管理人 : 松浦明宏
Mary L. Gill による二つの「ある」の解釈-Sophistes 255c-d-
プラトンの『ソピステス』には、「ある」は「自体的に語られるもの」(auta kath hauta)と「別のものとの関連で語られるもの」(pros alla)との二つあるが、「異」は常に「他のものとの関連で語られる」から、「ある」と「異」とは別のゲノス(類)である、という仕方で、「ある」のゲノスと「異」のゲノスとを区別する場面があります。この場面についてのGillの考えを、私はまだ知らなかったのですが、インターネットに公開されているのを昨日知り、読んでみました。Mary L. Gill, Method and Metaphysics in Plato's Sophist and Statesman (First published Thu 6 Oct, 2005), Stanford Encyclopedia of Philosophy(accessed 20/05/2007))の中の、5.4 The Distinction between Difference and Beingの部分です(リンク先の目次部の項目番号(5.3)と、記事部の項目番号(5.4)とが違っていますが、参照した記事は、もちろん、5.4として書かれているものの方です)。

私のGill評の結論を先に言えば、Gillの場合も、他の諸家と同じく、「ある」の場合の関係性と異の場合の関係性との食い違いから生じる難点を見落としている、ということになります。

まず、自体的に語られる「ある」について、Gill は、それを自己述定(self-predication)の「ある」であると考えているようです。しかし、自己述定というものを想定することの是非についてはここでは立ち入りません。Gill の説明の中に、プラトンの対話篇に見られる自己述定をどのように理解したらよいのかについて、諸家の間で意見が一致していないという話が出てくることから、そもそも Gill 自身がどこまで自己述定の「ある」を当該箇所の自体的に語られる「ある」についての説明として主張するつもりがあるのか、今ひとつ不明瞭なところがありますし、また、自己述定の「ある」を問題にしなくても、別の観点からGillの説明を批判することは可能だからです。

そこで、その批判を行うために、「別のものとの関連で語られる「ある」」についてのGillの説明を見てみましょう。
F is in relation to other things, if being links F to something other than itself. For instance, motion is different from rest. Here being links motion to difference, and difference relates motion to something other than motion. Or motion is the same as itself: “When we say motion is the same as itself, we speak in this way because of its participation in the same in relation to itself [pros heautên])” (256a-b). Being links motion to sameness, and sameness relates motion to itself.(underline mine)
この説明の中では、下線部、”「ある」(being)が動を異と連結し(links)、異が動を動以外の何かと関連づける(relates)”、というあたりがポイントのようですね。つまり、「ある」が主語を連結する対象("pros alla" における "alla") は、「異」のことである以上、それは主語(動)の分有対象であるのに対して(cf.Sph.255e5-6)、異が主語を関連づける対象("pros heteron" における "heteron") は主語の分有対象ではなく、その意味で、「ある」の場合の関係性と「異」の場合の関係性とは種類の違う関係性であることになる、ということです。引用文中にも見られる「同」(the same)の場合で言えば、「ある」が主語(動)を連結する対象は主語の分有対象(同)であるのに対して、同が主語を関連づける対象("pros heautên" における "heautên") は、主語の分有対象ではありません。このように、Gill の説明とテキストに従う限り、「ある」の場合の関係性("pros alla")と「異」や「同」の場合の関係性("pros heteron" や "pros heautên")とは、関係対象の種類が異なっているという意味で、異なった種類の関係性であるということになります。上のリンク先記事の中にある Heinaman に基づく説明の一部を借りて言い換えれば、「ある」の場合の関係性は predication であるのに対して、異の場合の関係性は predication ではない、ということになるでしょうか。

しかし、当該箇所を説明する際に、「ある」の場合の関係性と「異」の場合の関係性とが異なっていて構わないものなのでしょうか。つまり、解釈するにあたってそれらの違いを無視できるのでしょうか。もし Gill がそれらの違いを無視できると考えているのであれば、そう考える理由を明確に説明する必要があるでしょう。というのも、第一に、それら二つの関係性の違いを無視するということは、分有関係と非分有関係との違い、述定関係と非述定関係との違いを無視することを意味する以上、どうしてそれらの違いを無視できるのか、何も説明がなければ、そのままでは理解できないからです。第二に、「ある」の場合の関係性と「異」の場合の関係性とが異なる仕方で解釈を行った場合には、プラトンは別の基準を用いて「ある」と「異」との区別を行うという、不適切な仕方で二つのゲノスの分類を行っているという難点が生じるからです。つまり、基準を変えて比較するのであれば、「ある」と「異」の振る舞い方が違ってくるのはむしろ当然であり、その振る舞いの違いをもって二つのゲノスを識別する根拠にするのは不適切である、ということです。実際、Fredeが当該箇所を解釈する際に依拠しているアリストテレス断片にもとづいて、異の場合の関係性が、「ある」の場合の関係性と同じく、分有関係になるよう解釈しなおした場合には、異は自体的にも語られることになり、「ある」と「異」との間に振る舞いの違いはなくなります((拙著『プラトン形而上学の探求』(p.109-p.111))。したがって、正しい仕方で二つのゲノスの振る舞いの違いを比較した上で、かつ、両ゲノスを差異化しようとするならば、その比較を行う時に用いている基準(特に「関係性」)を「ある」の場合と「異」の場合とで統一した上で、かつ、異は常に他のものとの関連で語られることをも説明できるという、この二つの条件を満たす仕方で、関係性の統一をはからなければなりません。ところが、上述の通り、Gillの説明では、そもそも二つのゲノスの場合の関係性が統一されていないわけですから、当該箇所(255c-e)についての説明としては、受け入れることはできないということになるわけです。以上の難点は、FredeやBrown等、他の従来の諸解釈者についても同様にあてはまります。その意味で、「やはり Gill も他の諸家と変わらなかったか」、というのが、今回、Gill の説明を読んで抱いた私の感想です。
by matsuura2005 | 2007-05-20 16:22
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