管理人 : 松浦明宏
哲学とは何ですか?
哲学とは何ですか、と最近よく聞かれますので、今の私ならこう答えるということをここに書いておきます。
これは既にどこかで書いたことの繰り返しのようなものですが、
「哲学とは、わかるはずのないことだとわかっていることを、わかろうとすることである。」
この答えを聞いて、よけい哲学がわからなくなったという方のために、説明を加えておきましょう。説明といっても、現在の私がそう思っていることを書くだけです。

説明のために、ここでは、科学と哲学とを対照させましょう。科学は、哲学とはちがって、かくかくしかじかのことを研究して行けばかくかくしかじかの問題が、「解けるはずだ」、あるいは、「解けるのではないか」という思考を暗黙のうちに前提しているように思えます。あるいは、その思考をはっきりと意識している科学者もいるでしょう。

哲学の場合でも、科学と同様に、「何か不思議なこと(問題)があって、それを解こうとする」、という点では、科学と同様なのかもしれません。

ただ、哲学の場合には、その問題・不思議なことの本当の姿を、人間が捉えることができると前提した上で、その問題を解こうとしているわけではないように私には思えます。

わからないと確信していながらわかろうとするという姿勢と、
わかるはずだという確信をもってわかろうとするという姿勢との違い。
この違いは、結構、大きな違いではないかと思います。

前者の姿勢のうちには、哲学とエロスとが密接なかかわりをもつとされる所以が現れています。哲学がエロスと密接にかかわるとされる場合には、知の対象にわれわれは届かないことがわかっていても、それでもそれを求めたくなる心のあり方を表わしている、と言えば、さしあたっては、十分なのではないかと思います。

その意味では、知の対象にわれわれは到達できると前提して、それを飽くことなく追求する姿勢は、かりにそこにエロスと呼ばれるものがかかわっているとしても、それは、哲学がエロスと言われる場合のエロスとは意味内容が異なっていると言えるでしょう。そうした姿勢は、すべてをわれわれの知の範囲におさめることができるという確信、おさめることができるからそれを所有しようとする姿勢、支配欲、知は力なり、という言葉を彷彿とさせる姿勢です。

人間の把握をすり抜けるもの、それを絶対者、無、神、超越者、等々、どのような言葉で呼ぶかは、ここでは問題にしません。重要なのは、「人間であるわたしたちにとって、決して把握することはできないもの。そういうものであることがわかっていても、それに近づきたくなってしまう。」という点にあるのですから。

ところで、先日、実物と映像というシリーズの三回目で、自己知の問題を採り上げ、そこで、自分自身の姿は、決してわたしたちには見ることはできないという趣旨のことを書きました。そこでは、鏡に映った自分の姿は、あくまでも、「像」であって実物ではないので、鏡を見ても自分自身の姿はとらえられない、という仕方で、身体的な場面での話として書きました。

これをさらに展開して、今度は、自分自身の心の問題として考えてみた場合にどうなるでしょうか。これもやはり、わたしたち自身には捉えられないものなのではないでしょうか。

というよりはむしろ、自分自身の心は、自分には捉えられないと前提した上で、それでも、それを捉えたくなる、というのが、哲学者の姿勢であり、逆に、自分の心は自分にはわかるはずだと前提して、自分の心を捉えようとするのが、心の科学者(心理学者、精神分析)の基本的なスタンスなのではないかと思える、と言った方がよいのかもしれません。

あるいは、科学者の例とは別の例ですが、自分には自分が本当にわかると考えて、自分の心を捉えようとした場合、その人は、自己満足に陥る可能性が高いということなのかもしれません(違っていたらすみません)。

今度は、自分ではなく、他人の心についての話として考えてみましょう。他人の気持ち・心をわかろうとする場合に、他人の気持ちは自分にわかるはずだと思いながら、その人の心をわかろうとするのであれば、その姿勢は、傲慢につながる可能性が高い。

他方、他人の気持ちは自分にはわかるはずはないけれど、それでも、わかろうとするという姿勢には、少なくとも、傲慢という言葉は当てはまらないでしょう。なぜなら、自分なりにその人の気持ちをわかったという結論に到着しても、そこには常に、その結論はおそらく間違っていて、実は、その人は、私の考えているのとは別の気持ちを持っているのだろう、という自己批判の要素があるからです。

前者の姿勢には、「他人の気持ちは自分にわかるはずだ」と前提した時点で、この自己批判の要素が相当希薄になっていて、この希薄さが傲慢に通じる可能性を高めている。

他者は私の把握をすり抜ける、無限の高みにいる、とは、レヴィナスという哲学者の考えであると言って構わないのでしょうが、すくなくとも、そのように考えた方が、傲慢な人間にだけはならなくてすむように思います。

私ならこれにこうつけ加えますけれども。
「私は私の把握をすり抜ける。私は無限の深淵の中にいる。」

高みという言葉は、他者の超越性を表現するにはふさわしいのでしょうが、私自身の超越性(私自身のとらえどころのなさ、把握不可能性)を表現するには、深淵という言葉の方が、より適切であると思います。逆もまた真。

ともかく、最初の話に戻れば、哲学者にあって科学者に欠けているのは、(表面的な言葉や思考においてではなく科学的態度の本質において)、「自分にはわからないということを前提している」ということであると思います。

ただし、自分にはわからないということを前提していないのは、科学者には限られません。他にも大勢います。その典型は、似非哲学者です。哲学を商売にしてはいるけれども、「自分は何でも知っている」という確信を持って立ち居振る舞う傲慢な人のことです。古代ギリシアではこれに似た人種がソフィストと呼ばれ、多くの人々に「尊敬」されていたらしいです。
by matsuura2005 | 2005-05-09 21:24
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