管理人 : 松浦明宏
「隠れたカリキュラム」の「隠蔽性」
近々行なわれる学習会において、隠れたカリキュラムの定義や隠蔽性・潜在性に関する発表をさせていただけることになりましたので、その内容の概要を以下に書きます(というよりはむしろ、そろそろ原稿を準備しなければならないので、その下書きのつもりでこのHPに今私が考えていることを書くと言った方が正確です)。

私の話のポイントを一言で言えば、
「これまでは、隠れたカリキュラムと言えば、教師や学生・生徒(特に学生・生徒)に気づかれない形で教えられるものと考えられてきた。しかし、たとえば、医学教育等において隠れたカリキュラムとの関連で採り上げられている童話『はだかの王様』にも見られるように、わたしたちは、それに気づいていても人前では言えないということがある。したがって、気づいていないことだけが隠れたカリキュラムなのではない。」
ということになります。つまり、大別して二種類の隠れたカリキュラムがあるにもかかわらず、従来は一方の種類の隠れたカリキュラムのみに注目があつまり、それが細分化されて議論されてきたけれども、そうしたものとは種類を異にする隠れたカリキュラムもあるので、これからはこの種の隠れたカリキュラムについても検討していく必要がある、ということです。

まず、「隠れたカリキュラム」の定義の「内容」というよりはむしろそれを見る「視点」、ないしは、「隠れたカリキュラム」と言われるものに関するそもそもの「問題意識」について、あらかじめ一言断っておきたいと思います。「隠れたカリキュラム」の定義に諸説あることは周知の通りですが、教育社会学・教育哲学系の文献、たとえば、しばしば隠れたカリキュラムの問題との関連で言及される再生産論についての研究書小内透著『再生産論を読む バーンスティン、ブルデュー、ボールズ=ギンティス、ウィリスの再生産論』(東信堂)の序章「問題意識と課題」を読むと、教育社会学の分野(特に再生産論の分野)の方の問題意識がなんとなくつかめるような気がします。
「出身階層や性といった属性によって諸個人の学歴水準が規定されてしまうことが少なくない。・・・それは、諸個人の階級・階層的位置の親子間の世代的再生産とでもいうべき現実である。その意味で、学校教育システムは特定の諸個人の階級・階層的位置の世代的再生産を随伴した形で諸個人の能力の形成や階級関係を再生産する役割を果たしているといえる。・・・それは、教育社会学や社会学の分野で以前から議論されてきた教育の不平等の問題に他ならない。」(同書p.5)
或る国の労働者階級に生まれた人たちは、その国の学校教育システムが非労働者階級向けの教育システムを採っていた場合、業績をあげるという点でもともと不利な立場に置かれることになり、出身階層によってその人の業績のあり方が決まってしまう。したがって、労働者階級に生まれた人々は、学校教育を受けても業績をあげることが困難であり、結局はまた労働者階級に帰属することになる。その意味で、業績本位の資本主義社会において、学校教育は「諸個人の階級・階層的地位の世代的再生産」を促進する役割を持っている、ということと理解しました。もしこの理解が正しいとすれば、教育社会学の分野の方々は、そうした学校教育の持つ社会的不平等の再生産機能という問題を解消することを最終的な目的としておられ、そのためにはまず、そうした再生産のメカニズムをはっきりと捉えなければならないと考え、その作業をそれぞれの論文や著書の中で行なっておられるのだと思いました。その意味で、(教育社会学の中には、もちろん再生産論以外にもさまざまな立場はあるとは思いますが)教育社会学の分野で念頭に置かれているのは、出身階層の別に帰着してしまう「教育システムの持つ不平等」という問題であるという言い方ができるように思います。これに対して、私がこの学習会で念頭においているのは、そうした不平等の問題というよりはむしろ、仮に同じ出身階層を背景として同じ学校教育(特に顕在的カリキュラム)を受けたとしても、学校教育や職場での実践を通じて、反道徳的振る舞いを身につけてしまうのはなぜか、という問題であるということができるでしょう。その意味で、今回の私の発表で主として念頭に置かれる隠れたカリキュラムと、教育社会学の分野で採り上げられる隠れたカリキュラムとは、その問題を見る視点が違っているということになります。

他方、ノディングスの『教育の哲学 ソクラテスから<ケアリング>まで』(世界思想社、宮寺監訳)を読むと、教育哲学者について、次のように書かれています。
「人間的条件に関して精力的な探求をした実存主義よりも、中立性と公平性を明言する分析哲学の方が教育学にはるかに大きな影響力をもってきたのは奇妙に思える。この見かけ上の奇妙さの理由は、一つには、私たちがテクノロジーに支配された社会に生き、科学の進歩と制御に対する積年の信仰の中で生きていることにある。ジョン・デューイの哲学でさえ、民主主義の決定過程に生徒を参加させるように説かれている一方で、科学への大いなるアメリカ的信仰が響いている。分析哲学者は教育学研究に対して明確さと一貫性で貢献できたので、彼らの研究は論文にしばしば引用されてきている。実存主義は、人間の自由を語り組織(システム)化を拒否しているため、システム改革にのめり込んでいるこの国の文化にはフィットしないのである。」(同書 p.126)
哲学が中立性を持っているなどとはとても言えないという私自身の経験からして、どうしても私は、分析哲学のものの見方に疑問を持ってしまう。実際、言語を対象とするにせよ物を対象とするにせよ、何かを「観察する」というこのこと一つ採り上げても、そこには観察者の主観や観察方法そのものが内在的に持っている「視点」やその視点を意識的にであれ無意識的にであれ「選択する」際に必ず伴う「価値付け」が含まれる以上、そうした観察に基づく分析結果が「中立的である」と言えるはずがないと考えています。分析哲学者の中にもしノディングスからの上の引用に見られるように「中立性と公平性を明言」しているような人がいるとすれば、その人は、あまり哲学というものを知らない人だと私には思えます。私としては、隠れたカリキュラムの定義等を考察する上で、何がしか言語分析のようなことをすることにもなるのかもしれませんが、それが「中立的」で「公平」だからそうするのだとは全く考えてはいません。隠れたカリキュラムと言われる事象を或る一定の視点から観察し、そこに見られる「隠蔽性(hiddenness)」の性質を見定め、他にメリット・デメリットを含むさまざまな事柄を考慮した上で、最終的に何らかの「主張」を行なうとすれば、その主張の中には私自身が採っている「価値付け」や「決断」や「取捨選択」等の非中立的要素が必ず含まれているはずであり、そうである以上、私の「主張」は分析哲学者やその影響を受けた教育哲学者がいうような中立的なものではないと考えています。

さて、以上は、隠れたカリキュラムの概念や定義の「内容」というよりはむしろそれらについての私の「見方」や「問題意識」が他の分野の方々とは異なっているように思えるという話ですが、このことをあらかじめ確認した上で、次に、私が想定している隠れたカリキュラムの「内容」、つまり、定義と隠蔽性についての話に移ります。

要点を言えば、
隠れたカリキュラム(hidden curriculum)について、Martin(1976)(esp. pp.143-144)やGordon(1981, 1982 )で採られている定義(教師や学校が意図しているか否かにかかわらず、学生がそれに気づいていなければ、それを隠れたカリキュラムと言う)に見られる「意図している」(intend)もしくは「気づいている」(be aware of, acknowledge)という視点から「顕在性」と「隠蔽性」を規定することは、もちろん、可能ではあるが、この定義は、Hafferty&Franks(1994)、Hafferty(1998)、Stern(2000)、Stern(2006)、Masson, C., Brazeau-Lamontagne, L. (2006)といった、医学教育の文献の中で指摘されている隠れたカリキュラム(もしくは、非公式のカリキュラム)の少なくとも重要な一部分をカバーしない。医学教育文献に見られる隠れたカリキュラム(非公式のカリキュラム)の中には、
「一般道徳から見て善くないと思われる事柄について、教師(教える側)も学生(教えられる側)もそれに気づいている(意図している)にもかかわらず、それが隠されているもの」
がある。こうした種類の隠れたカリキュラムについては、上記のMartinやGordonだけでなく、一般に、教育社会学や教育哲学の分野等で隠れたカリキュラムを論じる研究者たちはほとんど考慮しておらず(イリッチ(1997)、アップル(1986)、柴野(1990)、高旗(1996)、田中(1999))、彼らは皆、一様に、「意図されないカリキュラム」、「気づかれないカリキュラム」、「見えないカリキュラム」のことを「隠れたカリキュラム」・「潜在的カリキュラム」としている。たとえばGordonは、隠れたカリキュラムを「サブリミナル広告」に比している。これに対して、われわれが指摘する「隠れたカリキュラム」は、上記在来諸研究の枠組みを用いて言えば、教師にも学生にも「意図されているカリキュラム」・「気づかれているカリキュラム」・「見えているカリキュラム」である。従ってまた、われわれの主張は、在来研究における定義の誤りを指摘するというよりはむしろ、論じられているものとは種類の異なる隠れたカリキュラムを明確に規定することを試みるものである。それはつまり、この種の隠れたカリキュラムの持つ「隠蔽性(hiddenness)」(人前では公言できないという性質)とその解消について、われわれ自身が考察することを試みるということでもある
ということになるでしょうか。

ここで私が指摘している「教師(教える側)にも学生(教えられる側)にも気づかれているにもかかわらず隠されている」という点については、Snyder(1971)の冒頭付近で言及される"This semiprivate nature of the hidden curriculum is essential to its existence.", "some of the hesitation in discussing these tasks"(いずれもp.7)、Margolis et al.(2001)の冒頭(p.2)や上記のMasson, C., Brazeau-Lamontagne, L. (2006)に採り上げられているアンデルセン童話「裸の王様」(The Emperor Has No Clothes)、および、たとえばStern(2006)に見られる次の発言を念頭に置いています。
"In the context of medical student education, the hidden curriculum of rules, regulations, and routines is transmitted mostly by residents (rather than faculty) in clinic hallways and the hospital, often late at night, when residents and students are on call."(Stern, D. T., 'Medical Education: The Developing Physician - Becoming a Professional,' NEJM, Vol. 355(17), 26 Oct. 2006, pp. 1794-1799(私の手元にあるのはHTML版のため、引用文の正確なページ付けがわかりませんが、論文冒頭付近の"Providing Experiences"という項目の第二段落にあります。))
ここで言われる "rules, regulations, and routines"は、Jackson(1966)やJackson(1968)に見られる隠れたカリキュラムの特徴を示す「スリー・アールズ」(three "r's")であり、「隠れたカリキュラム」(hidden curriculum)という言葉が作られたのはこの時期であるとされています。私の見落としがなければHafferty&Franks(1994)とHafferty(1998)にはJacksonへのreferenceがないため、はっきりとはわかりませんが、Bennet, N., et al. (2004)によれば、HaffertyはJacksonの「このコンセプトを医学教育に翻訳した」とされています(p. 146)。特に言及がなくても事実上そうだということもありますから、あまり細かいことは気にしないとしても、一つだけ、Jacksonから医学教育への「翻訳」について留意すべきであると思われる点があります。それは、Jacksonの研究が小学校教育を対象とした研究であるのに対して、医学教育研究の場合は、大学生、レジデント等の「大人」の教育を対象とした研究であるという点です。小学生と大学生以上との違いがなぜ重要と思えるのかと言いますと、小学生の場合には、学校の先生の言うことを「無自覚的(無意識的)に受け入れる」ということがあってもそれほどおかしくはないのですが、大学生以上の人たちが、教師の言うこと、特に、それまでにその学生等が培ってきた一般的な道徳的振る舞いから考えて、これは悪いことなのではないかと思われるような事柄を無自覚的に受け入れるとは少し考えにくく、もし教師なり先輩なりのそのネガティブな教えを受け入れたのなら、それは自覚的に受け入れたと考えるのが自然だということです。あるいは、いったんは無自覚的な受け入れ方をしたとしても、その後でいろいろと自分で逡巡・再考するという批判的な過程を経て、最終的には自分の判断でそれを受け入れたというほうが、ありそうな「大人の振る舞い」というものではないでしょうか(そうでなければ、小学生と変わらないということになりそうです)。

言い換えれば、仮に小学生にも自己決定権があるとすれば(この点については議論の余地がありますが、さしあたりそれは置くとします)、男女差別や人種差別などについてのいわゆる「刷り込み」は、「当人が知らないうちに他人によってそういう状態にされてしまった」という意味で、それは当人の自己決定権が侵害されているという問題にも通じる部分を持っていると言えるのに対して、医学教育など、大学教育やそれ以降の教育の場合には、そうではないということです。つまり、大学生以上の場合には、既にその時点で、成人として一般的に期待される道徳性を身につけていることが前提される以上、男女差別等、一般道徳からみて不適切とされる事柄について教師や先輩から影響を受けた結果、その種の振る舞いや考え方を身につけたのだとすれば、それは、まだ一般的な道徳性を身につけていることが期待されていない小学生の場合の「刷り込み」とは違って、当人がそうした状態と一般道徳とをはかりにかけた上で、その種の状態を自分で選んだ結果、その種の考え方を持つようになったり、振る舞いをするようになったりしていると考えるのが自然であると思われるということです。この場合には、当人の自己決定権は侵害されていないわけですから、その点で、小学生の場合の「刷り込み」とは区別されると思えるのです。

あるいはまた、先のStern(2006)からの引用に目を移せば、特に、「夜遅く(late at night)」や「当直(?)(on call)」という言葉から推測するに、この引用にみられるレジデントと医学生は、夜遅く当直の時に、「ひそひそ話」や「品のよくない冗談」を言った(言い合った)ということなのでしょう。もしそうだとすれば、その時のレジデントと医学生とは、教える内容、教えられる内容を自覚的にとらえていると考えるのが自然であるということになると思います。内容を両者共自覚的にとらえているけれども、人前で公然とは言えないようなことを、夜遅く、当直の時などに、話すのでしょう。その意味で、この種の隠れたカリキュラムに見られる「隠蔽性」は、教えられる側や教える側が「意図していない」とか「気づいていない」とか「見えない」といった種類の隠蔽性ではなく、「人前でそれを言うのがはばかられる」という意味での隠蔽性と考えるのが自然であると思います。

裸の王様の話もこの観点から見ることができます。王様は洋服の仕立て屋に「この衣装が見えない者は愚か者か無能な人だけだ」と言われて騙されたたために、自分が何も身に付けていないことに気づいていながら、それが見えないとは言えずに、「美しい衣装だ」とほめ、それを「着て」町を練り歩きます。他方、それを見ている人々も、王様が裸であることに気づいているにもかかわらず、誰も王様が裸だとは言わず、王様は美しい衣装を着ていると言い、まだ社会化されていない「子供」だけが「王様は裸だ」と言うのです。

Masson, C., Brazeau-Lamontagne, L. (2006)においては、この童話は、クーンやポパーのパラダイム論とリンクし、これが或る種の誤診の例に適用されています。つまり、ポパーの考えの中に、「"目には見えないが実在している衣装"のパラダイム」、すなわち、「或るパラダイムは、それが間違っていることがわかった後にも、別の新たなパラダイムがそれに取って代わるべく現れるまでは、存続し続ける」というものがあります。これが、「或る卓越した医師(王様)が或る臨床的兆候(a clinical sign)(衣装)を見出し、その医師のattendantsはそれを認めるが、その兆候は存在しない」という或る種の誤診の例に適用され、その卓越した医師の下した診断は、別の兆候が見つかるまで、そのまま”バイナリ・モード”で流通しつづける(王様は美しい衣装を身につけているという虚偽の言説が、それと意識されつつ、変更を加えられることなく、王様自身と人々の間に流通することに相当)とされているようです。これがMasson等の言う"emperor’s clothes syndrome"であり、もちろん、Masson等は、これを隠れたカリキュラムと見ています。

Masson等が上記のように「だが、その兆候は存在しない(However, the sign does not exist)」と言う時、医師やそのattendantsがそのことに気づいているのかどうか、Masson等の記述からは必ずしも明確ではないので、何とも言えないのですが、仮にMasson等が、医師やattendantsが「その兆候は存在しない」と自覚していると考えているとすれば、その場合には、私が上で述べた見方と事実上同一歩調をとっているということになるでしょう。ただし、Masson等は、特に「隠蔽性」の種類については考えておらず、この種の隠れたカリキュラムが新種の隠れたカリキュラムであるとは自覚していないようです。むしろ、隠れたカリキュラムとは一般にこういうものだと考えているようにさえ見受けられます。その点が、私と彼らの違いということになるのでしょう。

他方、前述のMargolis等の場合には、、「高等教育のイデオロギー的内容(ideological content)は人々の目をくらますことを意図している」という仕方で、その同じ「裸の王様」の話が、結局、アップル同様、イデオロギー的意図の方向に解釈されており、王様も人々も仕立て屋も、皆、「気づいているにもかかわらず、それを隠している」という点には注目していないようです。


この後に続けて、看護教育に関する論文Cook(1991)をもとに、上述の新種の隠れたカリキュラム(体面・人目を気にする隠れたカリキュラム)の話を、医療従事者(ないし医療機関)の自己保存・自衛本能(self-preservation)の問題が、医療現場での隠れたカリキュラム解消へ向けての一つの重要な視点になりうるという話へと総合して、一応、私自身の理解についての話に一区切りつけるつもりです。

学習会の時には、(1)私がこの研究課題に取り組みはじめた経緯(動機)、(2)隠れたカリキュラムの各種定義の紹介とその理論的背景(までできるかどうか不安ですが)、(3)私自身の研究プロセスとその成果(この部分のあらましは上に書いたことですが、いくつか他の論点も入れるつもりです)、(4)医療従事者・教育者の方々への希望(Tanner(1990)を踏まえて)などを述べる予定です。
by matsuura2005 | 2006-12-30 17:51
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