管理人 : 松浦明宏
「徳とは何か ープラトン『メノン』における徳の第三定義ー」(東北哲学会発表原稿第三節)
先日(2006/10/22(日))山形大学小白川キャンパスで行なわれた東北哲学会での発表原稿のうち、中心となる部分を以下にアップします。この部分(第三節)の要点は次のことです。
『メノン』における徳の定義破綻劇においては、第三定義「徳とは美しきもの(善きもの)を欲して獲得する能力があることである」における「善きもの(美しきもの)」を、金銭や名誉等と解するのではなく、イデアやエイドスといった真実在と解するようにとの示唆と受け取ることのできる問答がある。その意味で、この定義破綻劇には、金銭や名誉などの存在欲求から離れて真実在へと目を向けるよう、ソクラテスがメノンに対して(作者プラトンが読者に対して)促すという要素が認められ、この要素は、『国家』に見られる「魂の目の向けかえ」や、『饗宴』におけるディオティマの発言と密接にかかわっている。
『メノン』の徳の定義破綻劇における示唆に見られるように、自らの存在欲求から離れて真実を欲するようになることが、自覚的な種類の隠れたカリキュラムの根本的な解消につながるというのが発表原稿全体の趣旨です(発表タイトル:「徳とは何か -隠れたカリキュラム再考-」。自覚的な種類の隠れたカリキュラムとは、自分のしていることが悪いことだと自覚していながらその悪いことをしてしまう、という種類の隠れたカリキュラムのことです)。

ちなみに、これは質疑応答終了後に質問者との議論の中で触れたことですが、『メノン』における徳の第二定義「徳とは人々を支配する能力を持つことである」における「人々」を「自分自身」とすれば、これも徳の真なる定義になります(「徳とは自分自身を支配する能力を持つことである」)。つまり、徳の「真なる定義」は一つに限られるものではなく、さまざまな定義がありうるということです。この点については、このHP中の「David Sedley氏のセミナー感想」の中でも触れたところです(こちらは、知識の真なる定義についてですが)。


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第三節 徳とは何か -プラトン『メノン』における徳の第三定義-

『メノン』の冒頭では、メノンがソクラテスに向かって、徳は教えられるものか、訓練によって身につけられるものか、生まれつき備わっているものか、何かほかの仕方によるものか、と問う。この問いに対して、ソクラテスは、「徳」という言葉がそもそも何を意味しているのかを知らなければ、「徳が教えられるものかどうか」といった「徳の性質」を知ることはできないとして、「徳とは何か」の探求が始まる。メノンはその問いに対して、まず、男の徳はかくかくであり、女の徳はかくかくであり、という仕方で、徳の諸事例を挙げる(徳の第一定義)(71e)。だが、それはソクラテスの求めていた答えではなく、そうした多くの徳の事例をすべて徳と呼ばしめる「一つのもの」は何かという意味で、「徳とは何か」と改めて問い、今度は、メノンは、「徳とは人々を支配する能力を持つことである」と答える(徳の第二定義)(73d)。しかし、もしこの定義が正しければ、奴隷が主人を支配する能力を持つことも徳であることになる、という仕方で、第二定義はソクラテスによって直ちに退けられる。そこでメノンは、或る詩人の言葉「美しきものをよろこびて力あり」に倣って、「徳とは美しいものを欲して獲得する能力があることである」という定義を提出する(77b)。この第三定義もソクラテスによって破綻に追い込まれ、結局、「徳とは何か」はわからないまま、対話篇は幕を閉じる。
 われわれがここで注目するのは、この第三定義が破綻する場面である。ソクラテスは、まず、定義項「美しいものを欲して獲得する能力があること」における「美しいもの」を、メノンの同意を得て、「善いもの」とする。そして、誰でも善いものを欲する以上、定義項(相当)のうちの「(善いものを)欲する」という部分によっては徳の有無に違いは生じず、むしろ「(善いものを獲得する)能力がある」という部分が徳の有無を決める基準であるとする。重要なのは、このように徳の判定基準を見定めた直後に、ソクラテスがメノンと次の対話を交わしていることである。
「ソクラテス:君は、たとえば、健康や富を、善いものと呼ぶのではないか?
メノン:金銀を得ることや、国家において名誉や官職を得ることもです。
ソクラテス:君は、その種のもの以外の他の何かを善いものと言わないかね?
メノン:いえ、私が善いものと言うのはその種のものですべてです(注12)。
ソクラテス:結構。父祖以来のペルシア大王の客人メノンの言うところでは、徳とは金銀を獲得することである。」(Men. 78c5-d3)
この後、ソクラテスは、不正な仕方で金銀を獲得することは悪徳である以上、定義項に「正しい仕方で」や「敬虔な仕方で」を付け加えなければならないとする。だが、そうすると、定義項には「正」や「敬虔」といった「徳の部分」が含意されていることになり、その定義は「徳とは徳の部分を伴ったすべての行為である」と言っていることになる以上、徳の第三定義は成り立たないということになる(78d-79c)。徳の部分を徳の部分たらしめているその「徳」とは一体何かという問いに対して、徳の部分が定義項に含まれる形で答えても答えにはならないからである。
 私の見るところでは、この定義破綻劇において最も重要なポイントは、上掲引用のように、「善いもの」の内容をソクラテスが確認していることである。メノンのように、「善いもの」を金銭や名誉や官職と考えている限り、その獲得には正しい仕方と不正な仕方との両方が生じるが、「善いもの」を、エイドスやイデアといった、ものの実相と考えた場合、これを不正な仕方や不敬虔な仕方で獲得することはあり得ず、その定義も成立するからである。すなわち、
「徳とは、ものの実相という善いものを欲して獲得する能力があることである」
という徳の真なる定義が、「君は、その種のもの以外の他の何かを善いものと言わないかね?」というソクラテスの上掲発言を通じて、プラトンによって示唆されているということである(注13) 。
 実際、こう解した場合、定義項中の「欲して」(Men. 77b4,6 ejpiqumou'nta)は、たとえば、『饗宴』におけるディオティマの発言
「もし恋(エロース)の目指すものが善いものを永遠に自分のものとして持つことであるとすれば、善いものと共に不死を欲することは必然である」(Symp. 206e8-207a1)
における「欲すること」(ibid.a1 ejpiqumei'n)に相当することになろう。ここには、身体的なものを対象とする欲望ではなく精神的なものを対象とする欲望、しかも、評判や名誉といった「思惑」(ドクサ)の世界で流通しているものではなく、真実を獲得しそれに触れることを欲するという意味での欲望が想定されている(cf. Phdr. 249d6-7 proqumouvmeno")。この種の欲望について、それが、たとえば、『パイドロス』に見られる御者(理性)がよい馬(気概)と悪い馬(欲望)を統御してイデア観照に向かう際の「悪い馬」や、『国家』における魂の三分説において理性と気概と欲望の調和が説かれる際の欲望と、どの程度関わりがあるのか、ここで立ち入る余裕はない。だが、すくなくとも、欲望の種類として、食欲や性欲といった身体的欲望、金銭欲や名誉欲といった思惑の世界で流通している精神的欲望、イデアやエイドスといった真実在を対象とする欲望、という三種類考えられることは確かである。そして、プラトン(ソクラテス)が、前二者から可能な限り魂の目を引き離して、第三の種類のものへと向かうことが重要であると考えていたことも確かである。「何が善いかを知っていれば必ずそれを行なう」という考えの少なくとも一部には、人間は上の三つの存在(身体的なもの、思惑、真実)のうちで最も善いと思っていることへと必ず向かうものだという考えが含まれており、だからこそ、真実へと向かうことが最も善いことであると知らせる必要があったのだろう。それが最も善いことであると知った人であれば、身体的なものや思惑といった自己保存にかかわる事柄には執着せず、その意味で自分自身から離れ、本当に善いこと、本当に重要なことを目指して、その都度の行為を行なうはずだからである。これが、プラトン(ソクラテス)の知徳一致の思想において意図されていることだったのであろう。したがってまた、彼らにとって、「徳とは、真実を欲してそれを獲得する能力」であり、この考え方の基礎となっているのは、「自己の存在欲求(conatus essendi)から離れること」であると言えよう。これが、『国家』において「魂の目の向けかえ」として表明されることになったのだと私には思える(R.533d)。

注12
SW. MhV a[ll j a[tta levgei" tajgaqaV h] taV toiau'ta; -MEN. Ou[k, ajllaV pavnta levgw taV toiau'ta (78c7-9). cf. Allen, R.E. "Soc. And you don't count other things good besides those sorts of things? - MEN. No, only things such as those." (Euthyphro, Apology, Crito, Meno, Gorgias, Menexenus The dialogues of Plato Vol. 1, trans.w.comment -by R.E.Allen, Yale U.P., 1984)

注13
近年の特に英米を中心とするプラトン研究においては、対話劇に明示的に描かれていることがプラトンの考えであるという前提のもとで、対話劇上で或る定義が破綻した場合には、プラトンもまたその定義は破綻していると考えてそれを描いたと解する研究者が大多数を占める(Kanayama, Y., ‘Perceiving, considering, and attaining being (Theaetetus 184-186)’, Oxford Studies in Ancient Philosophy V (1987), Cooper, J.M., ‘Plato on Sense-Perception and Knowledge (Theaetetus 184-186)’, Phronesis, XV (1970), Burnyeat, M.F., 'Plato on the Grammar of Perceiving', Classical Quarterly, 1976, David Sedley, The Midwife of Platonism: Text and Subtext in Plato's Theaetetus, Oxford U.P., 2005, Burnyeat, M. F., 'Master-Mind Lecture: Plato', Proceedings of the British Academy, 111 (2001), 1-22, 田中伸司、『対話とアポリア -ソクラテスの探求の論理』、知泉書館、二〇〇六年)。だが、われわれはこうした研究姿勢から離れ、対話劇上の出来事と作者プラトンの意図とを区別する(ただし、バーニエット(op.cit.(2001))は、『国家』のような形而上学的対話篇については、不文の教説との関連を認める方向で考えている(11-12))。なお、この点については、拙著『プラトン形而上学の探求』(東北大学出版会)、二〇〇六年、第一章を参照。
by matsuura2005 | 2006-11-04 00:13
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