管理人 : 松浦明宏
ディアレクティケーとその根拠(3)-分割の根拠
今回は、分割の根拠について考えます。
分割と総観の同時性に基いて、前回は総観の根拠として提示された「無限定」を、分割の根拠として示し、無限定の総観のアスペクト(自体性のアスペクト)には、「ある」、「何ものでもあらぬもの」、「一」がその成立根拠として関わっているのに対して、無限定の分割のアスペクト(関係のアスペクト)には、「ある」、「異」、「二」がその成立根拠として関わっているのを提示することを試みます。

「異」や「二」についての説明を先にし、無限定が分割の根拠であることについては、後の方で一言触れる程度にします。

関係の型
ソフィスト定義の場面における「分離術という点で、濾すは篩うと同族である」という関係把握も、形相相互の結合における「動は静と異なる」という関係把握も、どちらも、「〜は〜と」という「関係の型」を持っています。この「関係の型」は、「ある」は、自体的に語られるものと、別のものとの関連で語られるものとの二種類あるが、異は常に他のものとの関連で語られる(255d)
という発言直近における 「それら両方の種類」(toin eidoin)という表現に示唆されていると考えられます。それら「両方の種類」の一方が、自体性の型、他方が、関係の型、ということです。

こうした「関係の型」は、形相相互の結合の議論の後半部「異の部門」の議論では、「それぞれのあるものと対置された異の部門」(258e2)という仕方で、何かと何かとの「対置」(257e6,258b1 antithesis)として描かれていて、この「対置」にもとづく「異の部門」が「非有のエイドス」(258c4,d6 eidos)と言われます。この点については、エドワード・リーの解釈が参考になるので、それを見ておきます。

「異のsupervenient role」と「異のconstitutive role」
リーは、例えば、「動は静とは異なる。故に、動は静ではあらぬ。」等、最大の類相互の結合関係の議論に現われる「異」の役割と、「美の本性と対置された異の部門」等、異の部門の議論に現われる「異」の役割とを区別し、前者を「異のsupervenient role」、後者を「異のconstitutive role」と呼び、この区別に基づいて、いわゆる「否定述定」(negative predication)を支持・説明します。

・「異のsupervenient role」
最大の類相互の結合の議論において、「動は静と異なっている。故に、動は静ではあらぬ」という仕方で「あらぬもの」が考察される際には、「AはBと異なる」におけるAとBの双方が、動、静等の、何か既に限定された形相である。この場面での「あらぬもの」は、動や静といった「すでに、また、独立的にあるものに付随して生じている(supervenes)」。この意味で、この場面での「異」の役割は、supervenientである。

・「異のconstitutive role」
他方、異の部門の議論においては、最大の類相互の結合の場面のように「二つの別々に与えられた」「限定性」(determinacies)は前提されておらず 、美と対置された異の部門(美ならぬもの)という仕方で、「異それ自身は、何か一つの項との関連で、新しい性質の存在を形成している(constitute)」 。この意味で、この場面での異は、constitutive role を持っており、
「何ら固有の性質を持たない『あらぬもの』 、寧ろ、そのあることが、何か他のものでは『ない』(not)ことにあるところの『あらぬもの』を定義する」 。こうして、異のconstitutive role は「NOT-being」を定義し、これがプラトンの言う「本当の仕方であらぬもの」(254d1 ontos me on)である 。

要するに、先述の「異のsupervenient role」は、限定された二つの形相に基づいて機能するのに対して、「異のconstitutive role」は、例えば、美という一つの形相との関連で、「美ならぬもの」という、それ自身は無規定な新しい性質の存在領域を作る働きを持っているということです。

・「否定述定」(negative predication)
リーによれば、この「美ならぬもの」は、確かにそれ自身「何ら固有の性質を持たない」無規定なものですが、それが「美」という一つの形相と関連づけられることによって成立しているという意味では、それは「美」という形相から或る種の規定性を受け取っています。この意味で、異の各々の部門は或る種の「限定性」(determinacy)を持っています。寧ろ、リーによれば、異の各部門が美や大などの限定性を持っているというまさにこのことによって、「あらぬもの」が思考対象となることが可能となり、それを示すことがパルメニデスの教説を反駁するために必要だったのです。つまり、プラトンは「思考は常に何か限定的な存在をその対象として持っていなければならないというパルメニデスの確信を共有」 しており、従って、「あらぬもの」については語りえないというパルメニデスの教説を反駁して「あらぬもの」があることを示すためには、「どんな否定言明についての理解も、(中略)、限定的な内容についての理解を含んでいる、ということを示す」 ことが必要だったということです。こうしてリーは、異の部門の議論における「あらぬもの」を、所謂「否定述定」(negative predication)という、或る種の規定性の述定と解することになります。

リーの解釈の吟味と私見
・同意点
異(の或る種の機能)は、「そのあること(本性)が、何か他のものでは『ない』(not)ことにあるところの『あらぬもの』を定義」し、これがプラトンの言う「本当の仕方であらぬもの」(254d1 ontos me on)である、という部分については、おそらくその通りであろうと思われます。

・不同意点
しかし、そのことは、必ずしも、異それ自身が、美や大などの「限定性」(determinancy)を持った一つの項との関連で新しい性質の存在を形成しているということを意味しません。
したがってまた、その種の限定性を思考可能性と結びつけ、これをもって、プラトンがパルメニデスへの反駁を意図していた、という部分にも同意しません。

不同意の理由
テキストの次の発言。
「異の本性(physis)が実在することを示し、その異の本性がすべての『関係的なあるもの』の上に(epi panta ta onta pros allela)切り離されていることを示した後に、それぞれのあるもの(to on hekaston)に対置させられているところの『異の部門』、まさにそれが本当に『あらぬもの』(to me on)である、とわれわれはあえて語った」(258d7-e3)

この発言では、「どういうあるものに対置されるにせよ、なんらかのあるものに対置されている『異の部門』が、『あらぬもの』である」ということが言われているように思います。この場合の「あるもの」は、美や大といった個々の形相というよりはむしろ、「ある」以外の限定性を持っているとは想定されていない「あるもの」と考えられます。つまり、美についても、大についても、・・・言えるということは、それが「あるもの」でありさえすればよい、ということ、つまり、プラトンが言いたがっているのは、対置の対象になるものが美や大といった規定性を持っているかどうかということではなく、それがどういう規定性・限定性を持っているにせよ、「ある」という性質をもっていればそれでよい、ということになるように思える、ということです。対話篇に美や大が出てくるのは、それを言うための「雛型」にすぎない。したがってまた、「あらぬもの」の成立にも、「ある」以外の「限定性」を想定する必要はないと思われます。

リーの場合には、「美ならぬもの」等の「異の部門」が、美なら美、大なら大という一つの形相から限定性を受け取っていると考えていて、それを、「あらぬもの」という無限定な領域の「思考可能性」と結び付けていますが、もしあらぬものの思考可能性とむすびつけるのなら、それは、美や大といった個々の形相から受け取る限定性によるというよりはむしろ、「ある」を分有することによると言った方がより適切であると思います。

また、異それ自身が「新しい性質の存在を形成」する力を持つのも、特に何か美や大といった仕方での「限定性」を持った一つの項との関連である必要はないと思います。「ある」という限定性との関連で「新しい性質の存在を形成」するということが考えられないわけではありませんが、そうした新しい性質の存在を形成するのは、「ある」という限定性によるというよりはむしろ、異それ自身の持つ働きによると考えた方が自然であると思います。なぜなら、その「新しい性質」とは、「ある」という性質なのではなくて、「〜以外」という無限定な性質なのですから。
その無限定な性質が実在性を持つという点に寄与しているのが「ある」であるとはいえるのでしょうけれども。

したがってまた、冒頭で言及した「〜は〜と『異なって』『いる』」における二つの「〜」部という無限定なもの、この「二つ」の無限定なものを区分けする働きをするのが、「異なって」という部分だということになるでしょう。あるいはまた、上記前半「〜は」における「〜」は、上記後半を用いて「〜と異なっているもの」という仕方で言及することもできますから、その意味では、「〜と異なっているもの」という表現によって、件の「二つの領域」の区画が指示されているという見ることもできるでしょう。そしてどちらの無限定な領域も「いる(ある)」を分有するので(これは上記前半と後半を入れ替えた言明を考えればわかります)、いずれの「〜」の領域も「あるもの」であるということになるのでしょう。(そして、その「〜」の領域に、いわば「当てはまるもの」が美や大などの「限定性」なのでしょう。この「限定性」については、次回、選択の根拠について考察するときに扱うつもりです。)

上述の二つの無限定な領域と限定性を、何かに譬えて言うなら、「メガネ」のようなものと考えておけば、とりあえず、当たらずとも遠からず、ということにはなるかもしれません。メガネの「フレーム」に相当するのが「異」で、そのフレームによって区画された「二つの空洞」が「二つの無限定なもの」ないしは「異の部門」、そこにはめ込まれた「レンズ」が「限定性」、というわけです。もっとも、この譬えでは、メガネのフレームとその「外側」も区画されてしまうので、その点では、あまり正確な譬えではないのですが。この譬えで言いたいのは、ある無限定な領域が異によって「二つに区画される」ということ、その二つの区画は、異によって区画されるというだけでは、相変わらず「空洞」(無限定)でありつづけるということ、それが空洞でなくなるためには、限定性が必要であるということ、です。異によって区画されるというその限りにおいては、何かと何かとが、あるいは、或る領域と或る領域とが、「違う」ということが決まるだけであって、その何かが「何であるか」までは決まらないからです。

ただ、そう言うと、おそらく、次の疑問が生じるでしょう。前回は、こういわれていたはずだ。分割と総観とが同時的であり、それらは、いわば、一つの探究活動の二つの異なるアスペクトを反映したものである。そして、総観という把握活動は、限定しない傾向を持っているから、そうした把握活動の成立根拠は無限定なのだ、と。もしそうだとすれば、分割・識別において区分けされた二つの空洞の各々を埋めるものは、総観活動において捉えられる「一つの共通な特徴」であって、これを「限定性」というのはおかしいのではないか。

この疑問については、次のように答えます。一つの形相、一つの特徴は、それを見る視点によって、つまり、複数のものに「共通のもの」という視点から見るか、一つのものに「固有な特徴」という視点から見るかによって、無限定としての一(へとつながるもの)になったり、限定としての一(へとつながるもの)になったりするのではないか、と思います。上掲の「空洞」を埋めるものとしての一つの形相は、その領域の構成員に共通の特徴としてみれば限定性とは言えないのですが、他の領域から区別してその領域を明確に規定する性質というふうに見れば、それを限定性と表現することもできるのではないかと思います。いずれにせよ、何か領域なり構成員なりの「固有の特徴」という方向で見られた場合には、形相を限定性ということができ、
「共通の特徴」という方向で見られた場合には、その形相は、無限定としての一と密接に関わるものであるということになると思います。

ところで、アリストテレスが『形而上学』第一巻第六章(987b20ff)等で言及している「不定の二」(he aoristos dyas)と、上記の「二」や「無限定」とがどういう関係にあるのかについては、今後の検討課題の一つです。ただし、もしアリストテレスの言う「大と小」とが、『ピレボス』(24b ff)に出てくる「もっと多くもなれば、もっと少なくもなる」「両義的なもの」のことを指して言っているのであれば、アリストテレスの言う「不定の二」と上記の「二」とは密接なつながりがあることになる、とは言えるかもしれません。なぜなら、『ピレボス』における「両義的なもの」は、無限定と限定との対照の下で、「無限定」の類に入れられているのですから。

もっとも、アリストテレスは、「一」を限定的なもの、「二」を無限定なもの、というふうに考えているようですが、私のみるところでは、「一」は、単に限定的なものと関わっているだけでなく、前回述べたように、無限定とも関わっています。その意味では、私の解釈は、アリストテレスのいう「ピタゴラスの徒」が、無限定なものを「一」であるとした、という考えと、アリストテレスの言う「プラトン」が、無限定なものを「二」(「大と小」)としたという考えとの両方を含んでいるということになるでしょう。アリストテレス自身は、無限定なものを「一」とするか「二」とするかで、ピタゴラス派とプラトンとを区別しているわけですが、私に言わせれば、プラトンはピタゴラス派のその考えをも受け取っているのではないかと思えるのです。

尚、無限定ということについては、分割・識別との関連では、あまり詳しく言いませんでしたが、
これについては、次のように考えておきます(少々、安直に、ですが)。つまり、もし「無限定」というものが成立していなければ、「〜以外」という無限定な領域がありえないことになる。だから、無限定というものの成立は、分割・識別の成立根拠になっていると考えられる、と。ひょとするとこの無限定性は、分割(識別)の手続きが、原理的には無限に繰り返されうることとも密接に関わっているのかもしれません。(分割法において分割のプロセスが停止するのは、ソフィストならソフィストを定義するのに「十分である」と思われたときであって、事柄の上でそれ以上分けることができないということではないと思います。)

以上、分割ということが事柄の上で(実在性を持って)成立するためには、「異」、「二」、「ある」、「無限定」という四つが必要だということになるのでしょう。この四つを、私は、分割の根拠としておきたいと思います。が、実は、『ピレボス』を踏まえて、これに「動」を加えようかとも思っています。つまり、総観と分割の根拠として「無限定」を考えるなら、『ピレボス』で無限定が「動」と、限定が「静」との関連で述べられていることから、分割と総観の根拠に「動」を加えてもよいのではないか、ということです。しかし、動には、魂の動きという視点もあり、これと分割や総観の根拠とをどのように関連づけるか、という問題があります。その意味では、動と静については、もう少しよく考えた上で、結論を出すべきことかと思っています。

P.S.
忘れるところでした。
『ソフィステース』でも、真実在は、静と動との両方ともであると、哲学者は言わなければならない、と語られていました(249d)。万物が静止しているとすると、真実在には動や生や魂や知性も備わっていないことになるし、万物が流動していても、知識が成立しない。だから、真実在は、静と動との両方ともだ、というわけです。この発言と『ピレボス』で動が無限定と、静が限定と関連づけられていること、しかもそれが、ディアレクティケーについての説明に続くものとして語られていることを考えれば、総観と分割の根拠の中に動を算入することは、それほどおかしなことではない。プラトンにとって真実在は魂を持った生き物なのでしょうから。これもいわゆる「物活論」の一種かとも思えてきます。

こう言うと、ただちに次の反論が予想されます。『ソフィステース』249dの直後で、万有は静と動との両方ともではなくて、あるは静とも動とも異なる第三のものだ、と言われているではないか(250c)。これをどう説明するのだ、と。この種の疑問に対しては、次のように答えます。
あるは静とも動とも異なる第三のものである、と言われる際には、実在が分割のアスペクトに定位して見られているのに対して、真実在は静と動との両方ともであるといわれる際には、実在には無限定と限定との「両方の観点がある」、ということが言われている。『ピレボス』で言えば、16c-dにかけてのディアレクティケーについての説明と思われる箇所に現れる、「『ある』と常々言われているものは、・・・限と無限を自分自身のうちに本来的な同伴者として持っている」(16c9-10)に相当するのでしょう。

つまり、先に述べたように、一つの形相・イデアは、それを、複数のものに「共通のもの」という視点から見るか、一つのものに「固有な特徴」という視点から見るかによって、無限定へと通じるものになったり、限定へと通じるものになったりします。このことを端的に表現すれば、「有は静と動との両方ともである」という言い方になったり、「有は限と無限を自分自身のうちに本来的な同伴者として持つ」という言い方になったりする、ということです。

このように理解すれば、『ソフィステース』という対話篇の進行においては、見かけ上、アポリアに陥ってはいますけれども、それは、そこに提示されたいずれかの考え方が間違っているということではなくて、そうしたさまざまな見方が実在についてはできる、ということの示唆と受け取ることができるのではないかと思います。ここでもやはり、対話篇に現れる「アポリア」は、読者に対する「試し」の一つだということになるのでしょう。

というわけで、私は、このP.S.の考察によって、分割と総観の根拠の中に「動」」を入れる方向で考えるようになりました。今までは、魂と動との関連がネックになって、ディアレクティケーの根拠としての無限定の中に動を入れることにためらいがあったのですが、『ソフィステース』249d付近を思い出して、そこでは、実在に魂が備わっているとプラトンが考えていたのだということがわかり、そのためらいがなくなった、ということです。
by matsuura2005 | 2004-05-09 17:40
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