管理人 : 松浦明宏
業績表
業績一覧(含近刊予定)

(1)著書・論文

古代ギリシア哲学関係

著書
『プラトン形而上学の探求  - 『ソフィステス』のディアレクティケーと秘教 -』
 東北大学出版会、2006 年 4 月 20 日
概要
プラトンの著作内容に関する有名問題の一つに次のことがある。すなわち、プラトンは、著作のほとんどを対話篇という一種の戯曲形式で書き、その中でソクラテスをはじめとする登場人物たちの口を通して、イデア論という、一般にプラトンの主要学説とされるものを語らせているが、プラトン自身はイデア論が自分の主要学説であることを著作のいかなる箇所でも保証してはいないということである。それどころか、プラトンは、一般に真作と見なされている書簡や対話篇の中で、「書かれた文字」に対する不信を表明しており、他方また、プラトンのもとで長く学んだアリストテレスの講義ノートの中には、プラトンの対話篇には見られずに、プラトンが口頭でのみ教えられたと想定される学説(不文の教説)が報告されている。これらを考慮するとき、プラトンは自分の思想の核心を対話篇の中には書かなかったとみるのが妥当であると考える研究者たちが現れるのも不思議ではない。私も或る意味ではその立場に立つ者として、本書において、その「書かれなかったこと」をめぐって、『ソフィステス』におけるディアレクティケー(哲学的問答法)の秘教的要素を考察した。本書の最大の特徴は、『ソフィステス』において従来その具体的な内容が不明であった「ある」、異、同、静、動という五つの「最重要類」(メギスタ・ゲネー)を、ディアレクティケーという真理探求法の成立根拠(253c3 aitia)として明らかにしたことである。これは、P.M.シュルの言う「試し」解釈、すなわち、プラトンは、対話篇の中で謎をかけたり示唆を与えたりすることによって、読者がプラトンの真意を読みとることができるかどうかを試しているという解釈を、『ソフィステス』におけるディアレクティケーの成立根拠について具体化したことを意味する。これにより、アリストテレスの報告「不文の教説」に見られる「不定の二」やプロティノスの「質料」のより具体的な内容が、分割の成立根拠と解される「異」ならびに「あらぬもの」(to me on)として、プラトンの対話篇の中に見いだされたことになる。


学位論文
 「プラトン『ソフィステース』篇における問答法とその原因に関する一考察」
   博士(文学)、東北大学、1999 (平成 11 )年 3 月 25 日
概要
従来、プラトンのイデア論は、真理探究法である問答法(ディアレクティケー)と別々に考察される傾向が強かった。本稿では、イデアの中でも最高位に位置づけられる五つの諸類(「ある」、「異なり」、「同一」、「静止」、「動き」)が、ディアレクティケーの成立根拠(原因)であることを指摘し、イデア論とディアレクティケーとの間に具体的なつながりを見出すことを試みる。


学術論文
「「ある」と「あらぬ」との対性 -Plato Sophist 250e-251a-」
    『パレーシア』第2号、多摩哲学会、
    2008(平成 20 )年 3 月、57 頁 - 86 頁
概要
プラトンの『ソフィステス』においては、「あらぬものがある」等の仕方で「ある」と「あらぬ」との結合を前提する虚偽や像の成立が示されている。これは対話篇主人公のエレアの客人がソフィストを像づくり術者としてする際に、ソフィストの側から「ある」と「あらぬ」との結合を許さないパルメニデスの教説が引き合いに出されたことをきっかけとして、エレアの客人がその結合を立証して見せることによって、ソフィスト定義に成功するとともに、そのことを通じて、著者プラトンがパルメニデス流の絶対静止の哲学から現象世界を救うという意味も含まれていると考えられる。こうした「ある」と「あらぬ」の対について、エレアの客人は次のように述べている。
「『ある』と『あらぬ』とが共に等しくアポリアに与っている以上、今や期待できるのは、それらのうちの一方が、比較的曖昧にであれ比較的明瞭にであれ、姿を現すのに応じて、他方もまたそのように姿を現すということである。他方また、われわれがそのどちらをも見ることができない場合でも、われわれにできる限りの立派な仕方で、両者の間を通って同時に議論を進めることになるだろう。」(Sph.250e6-251a3)
本稿では、この発言に見られる「ある」と「あらぬ」との対を対話篇中核部の「形相相互の結合」と「異の部門」の議論に定位して解釈し、「異の部門」末の「あらぬ」のエイドスを像の成立基盤として見いだす。


「思考の中の感覚 −Plato Theaetetus 152-186−」
    『フィロソフィア・イワテ』第35号、岩手哲学会、
    2003(平成 15 )年 11 月 15 日、12頁-24頁
概要
プラトンの『テアイテトス』篇においては、「知識とは何か」という問題をソクラテスが吟味する。ソクラテスがこの問題を登場人物のテアイテトスに問いかけると、テアイテトスは、まず、「知識とは感覚(と同じ)である」と答える。テアイテトスのこの答えは、テアイテトス自身が「感覚」という言葉を「身体的感覚」の意味に理解していたため破綻するが、破綻する直前にはそれを「知性的感覚」(物事の本質を見極める感覚)として読み取るよう、プラトンが単純な推論の形で示唆を与えている。すなわち、ソクラテスの口を通して「或る人」(おそらくプラトン自身)の感覚知識論が語られ、その中で「比較考量の中に知識がある」とされる。そして、この見解にテアイテトスも同意する。ところが、テアイテトス自身の立てた定義は「知識は感覚と同じである」であった。したがって、先の同意事項と自身の定義とから推論すれば、当然の帰結として、「比較考量の中に感覚がある」が導かれなければならない。そして、この知性的感覚を知識と置けば、知識とは感覚であるという定義は保持されることになる。なぜなら、定義破綻が決定したのは、テアイテトスが「見る、聴く、嗅ぐ、冷たがる、熱がる」という身体的感覚のみを感覚と呼ぶとソクラテスに答えたためだからである。そのように答えずに、比較考量といった思考の中にも感覚はあると答えていれば、思考においては、「ある」をとらえ「真」に触れるというその箇所で示される知識の二条件を満たす以上、その種の感覚も知識の二条件を満たす可能性が残されたはずである。しかし、テアイテトスはそうしなかった。これが定義破綻の真の理由である。私の知る限り、従来のすべての研究者は、感覚という言葉の意味を、テアイテトス同様、身体的感覚の意味に解してきたため、不適切な解釈に終始してきた。しかし、本稿によって、知性的感覚を読み取るための推論がテキストの中に見出された。この点に本稿の独創性がある。


「大ヒッピアス篇における『視覚と聴覚を通じての快』について」 
    『倫理学年報』第五十集、日本倫理学会、
    2001(平成 13)年 3 月 30 日、3 頁〜18 頁
概要
プラトンの対話篇においては、主題となる事柄についての定義が試みられることがよくあるが、提出された定義が反駁されたまま対話篇が終わることが多い。『大ヒッピアス』においては美の定義が試みられ、やはり反駁されたまま終わっている。本稿では、「視覚と聴覚を通じての快が美である」という第七定義が破綻するアポリアについて、これを視覚と聴覚という言葉の二義性に着目して解消することを試みた。この定義が破綻した経緯は次の通りである。まず、探求されているのは、あらゆる美しいものに備わる普遍的な「美の基準」である。ところが、「視覚と聴覚の両方」という共通性は美の基準たりえない。というのも、この共通性は、例えば「視覚を通じての快」には備わっておらず、普遍的ではないからである。視覚対象(色)と聴覚対象(音)とが異なる以上、「視覚を通じての快」が「聴覚を通じての快」を含意するわけではない。それゆえ、「視覚を通じての快」に「視覚と聴覚との両方」という性質は備わっておらず、普遍的ではない。だが、私見によれば、テキストの示唆に従って視覚と聴覚を思考の働きと解した場合、「視覚を通じての快」はイデアを見ることを通じての快となり、「聴覚を通じての快」は理を聴くことを通じての快となる。そして、イデアを見ることと理を聴くこととはプラトンにとって同義であり、この場合、「視覚を通じての快」は「聴覚を通じての快」を含意する。すると、「視覚と聴覚の両方」という性質が「視覚を通じての快」に備わっていることになり、第七定義は成立する。要するに、定義が破綻した真の理由は、視覚と聴覚という言葉の意味を身体機能と解したことであり、これを思考機能と解すれば定義は破綻しないわけである。私の見るところでは、プラトンは、第七定義破綻によって、思考の働きとしての視覚や聴覚に読者が自分で気づくよう示唆しているのであり、その意味で、プラトンの対話篇に見られるアポリアはプラトン哲学へ入門するための試験の一種であると解するP.M.シュルの「試し」解釈には一理ある。。


「「美とは何か」と「何が美であるか」-『大ヒッピアス』287d-e-」 
    『東北哲学会年報』No.16、東北哲学会、 
    2000(平成 12)年 5 月 31 日、1頁〜14 頁
概要
プラトンの『大ヒッピアス』篇においては「美とは何か」が主題となる。ソクラテスのこの問いかけに対して、登場人物のヒッピアスはまず「美しい乙女が美である」と答え、これがこの対話篇における美の第一定義とされる。在来解釈はこの問答について、ソクラテスは、すべての美しいものを美しくあらしめている共通普遍の原理を答えるよう要求したのにヒッピアスは美の個別事例を答えた、と理解している。しかし、私の見るところでは、この在来解釈は論点先取の誤りを犯しており、ソクラテスとヒッピアスとの理解の違いは、真実在(アレーテイア)と思惑(ドクサ)の違いに還元されると考えられる。


「『ソフィステース』篇における二つの「ある」-Plato Sophist 255c-d-」
    『哲學』第50号、日本哲學会、 
    1999(平成 11 )年 4 月1日、185頁〜194頁
概要
本対話篇中央部で言及される「自体的に語られるある」と「他のものとの関連で語られるある」については、従来、「存在」と「コプラ」の区別等、多くの解釈が提出されてきたが、プラトン以外の典拠に依存し文脈を説明できない等の難点を抱えている。そこで本稿では、対話篇両端部に見られる「分割と総合の方法」に着目し、総合の過程に現れる「ある」を「自体的に語られるある」、分割の過程に現れる「ある」を「他のものとの関連で語られるある」と解した。総合とは、多くの事物を見渡してそれらに共通する一つの特徴を見出す過程であるが、見方を変えれば、これは分割の過程でもある。たとえば、「多くの人々」に共通する「男性」という特徴を把握するためには、既にその「多くの人々」が「それ以外の人々」から区別されていなければならず、逆に、その「多くの人々」を「それ以外の人々」から区別するためには、既に男性という特徴が把握されていなければならない。この意味で、総合と分割は事柄としては同じ一つの活動であり、むしろその一つの活動の二つのアスペクトと解されるべきである。では、総合と分割の違いはどこにあるのかと言えば、次の意味での「関係」が想定されているか否かという点にある。すなわち、分割は、例えば、A は、男性であるという点で、Bと同類であり Cと同類ではない、という仕方で行われ、ここには、或る集団の個々の構成員同士の関係が想定されている。他方、総合は、A にも B にも「男性」という特徴が「内在」している、という仕方で、個々の構成員に同じ一つの特徴が内在していることを把握する活動であり、この時には個々の構成員同士の関係は想定されていない。従って、もし分割に現れる「同類である」という意味での関係性の「ある」を件の「他のものとの関連で語られるある」と解すれば、これを当該箇所付近で言及される「(DはEと)異なっている」と関連づけることができ、他方、総合に現れる「ある」(内在)は、分割における関係性の「ある」ではないという意味で、「自体的に語られるある」と解されるため、文脈整合的に当該の二つの「ある」を解釈できることになる。


「プラトン『ソフィステース』篇における問答法について -253d-e 再考-」
    『西洋古典学研究』XLVI、日本西洋古典学会、
    1998(平成 10)年 3 月 23 日、33頁〜43頁
概要
本対話篇においては、その両端部でソフィストを定義するために「分割と総合の方法」と呼ばれるディアレクティケー(哲学的問答法)が実践されている。総合とは、例えば、多くの美しい事物を見渡すことによって、美のイデアという、それら美しい事物を美しい事物たらしめる一つの原理的存在を見出すプロセスのことである。他方、分割とは、例えば、人間を男性と女性とに分けるという仕方で、或る一つの類を自然本来の分節に従って二つ以上に区分することである。これら二つの方法を用いて、ソフィストを他の類から次々と選り分けていき、ソフィストの真の姿を見極めようというのが、この対話篇の基本テーマである。ところが、その探求活動の途中でソフィストを像づくり術に分類しようとした時、ソフィストから次の反論が現れる。すなわち、像というものは、「本当は〜ではないものが〜である」という仕方で、「ない」が「ある」と結合することを前提しているが、これは「ないものはない、あるものはある」というパルメニデスの説に反する。それゆえ、ソフィストを像づくり術に分類したければ、まず「ない」が「ある」と結合することを立証しなければならない、という反論である。こうして、対話篇中央部ではその種の結合を確認するための議論へと移っていくが、この移行を一つの理由として、研究者の間では、対話篇の両端部と中央部とを別々に解釈することが慣例となっていた。だが、私見によれば、この慣例は不適切である。というのは、ソフィスト定義という真理探求が意味を持つためには、探求対象であるソフィストの固有の本性が同一性を保って成立していなければならないはずであり、プラトンはその同一性を念頭において他の類からの識別を行っているはずである。他方、対話篇中央部において上記結合関係が論じられる際にも、各々の類の同一性と差異性による識別に立脚して議論が進められている。従って、プラトンは対話篇の中央部においても両端部においても同一性と差異性に基づく識別を行っており、この点で両端部と中央部とを関連づけることができる、というのが本稿の主旨である。


 「イデアは動くのか?」
    『思索』第二十九号、東北大学哲学研究会、
    1996(平成8)年 9 月 30 日、21頁〜42頁
概要
プラトンのイデアの存在性格の一つに恒常不変性がある。だが、プラトンの対話篇の中には、プラトン自身がイデアに動きを認めていると思われる箇所がある。その箇所を典拠にして、プラトンはイデア論を放棄したのだと考える解釈者もいる。だが、プラトンは、イデアに恒常不変性を保持しつつ、しかもなお、それに動きを認めるという、パラドキシカルな仕方で、イデア論を保持・展開していると見られる。プラトンにとって真実在は、思考の対象としては静止という側面を持っていなければならず、しかもなお、それには魂という動の原理が備わっていなければならないという意味で、「静止と動きの両方とも」でなければならなかったのである。このことを論理的に示すことを試みるのが本稿のねらいである。



応用倫理学関係

学術論文
「コンピュータ技術者の責任 ー賠償責任なしの所有権ー」
  『モラリア』第 11 号、東北大学倫理学研究会、
  2004(平成 16 )年 10 月 15 日、99 頁 - 130 頁
概要
本稿は、コンピュータ・ソフトウェアにまつわる「賠償責任なしの所有権」の問題を検討する。ソフトウェアの使用許諾契約においては、著作権や特許などの形で所有権が主張される一方で、ソフトウェアの使用・購入により生じた損害等については一切の責任を負わない旨、免責条項が付される。こうした形で所有権と免責とを同時に主張することに非難のまなざしを向けることは容易だが、単にそうした非難を向けるだけでは、何も解決することはできない。そこでまず、上記の問題の背景をさぐるために、コンピュータ・エシックスの歴史を振り返り、ソフトウェア所有権の問題を瞥見する。そして、コンピュータ・エシックスに関わりの深い責任概念、製造物責任法等の法律や在来研究者の指摘を踏まえた上で、次のように結論する。すなわち、当該問題の根には、「サービス」と「製品」という概念区分の問題やコンピュータ技術の特異性の問題があり、これらを考慮すると、ソフトウェアをサービスと見るよりはむしろ製品と見ることがより適切である。そうした見方を受け入れて、ある種のソフトウェアについては厳格責任(strict responsibility)を負うことで、社会的な責任を担うことが、これからのコンピュータ技術者に求められる積極的責任である。


「医学教育における「隠れたカリキュラム」」
 『臨床倫理学』No.3、臨床倫理検討システム開発プロジェクト、 
  2004 (平成 16 )年 3 月 31 日、90 頁ー100 頁
概要
医学教育における「隠れたカリキュラム」(hidden curriculum)の問題は、現行の医学教育制度の中で倫理教育が依然として十分な機能を果たし得ていないことの根幹に位置づけられる。この「隠れたカリキュラム」がまず医療従事者間の望ましいあり方を損ない、それが医療者−患者関係の望ましいあり方を損なうことにつながり、医療の質を低下させる主な要因の一つになっている。従って、もしわれわれが、医療の質の改善を目指すならば、この「隠れたカリキュラム」の問題を検討する必要がある。そこで、本稿では、ハフェルティー ( 1998 )とスターン ( 2000 ) 等の考えを踏まえた上で、当該問題の解決に向かうには、第三者機関の介入をも視野に入れることが有効なのではないかと論じる。


 「医療者と患者との信頼関係 −哲学者の役割とは何か」
   『モラリア』第九号、東北大学倫理学研究会、
  2002(平成14)年 10 月 15 日、74頁〜104頁
概要
医療という専門技術者の集団に哲学・倫理学者が関わることはどのような意義を持っているのか。哲学・倫理学者は、医療者たちにとっては、口であれこれ指示するだけで自分では実際には何もできない「バックシート・ドライバー(後部座席に座って実際の運転手にあれこれ指示を出す人)」なのではないか。あるいはバックシート・ドライバーの存在にも何がしかの意味はあるのか。この問題を根本モチーフとして、本稿では特に、医療者と患者の信頼関係構築に哲学者がどのような役割を果たしうるのかを考察した。そのためにまず、欧米の看護分野における研究者たちの信頼概念調査を踏まえた上で、哲学者アネット・ベイアーの信頼概念規定や道徳的信頼関係の「試金石」を概観し、そうした規定や試金石が、どの程度まで実際の医療現場に影響しうるかを、私自身が患者であったときの実体験に基づいて吟味した。


「ピーター・シンガーの医療過誤論と隠れたカリキュラム 
 -原理に基づく倫理学と性格倫理学-」
  『臨床倫理学』No.2、臨床倫理検討システム開発プロジェクト、
   2002(平成 14 年)8 月 31 日、70頁〜78頁
   (『モラリア』第八号(2001)掲載論文の増補版)
概要
下記論文の出版時期にタヴィストック原理が改訂されたため、その改訂版の概要紹介を補論として加えるなどの増補を行った論文。


「ピーター・シンガーの医療過誤論と隠れたカリキュラム
 -原理に基づく倫理学と性格倫理学-」
   『モラリア』第八号、東北大学倫理学研究会、
   2001(平成13)年 10 月 15 日、59頁〜74頁
概要
ピーター・シンガーは、医療過誤の問題を解決するにあたって、近年提案されたタヴィストック原理 - 英国医師会会報編集者等が中心となって各国要人をロンドンのタヴィストック地区に集めて提案した間職業な倫理原則- を適用すればよいというやや単純な仕方で考えているように見受けられる。しかし、医学教育においては、教師の教え方やその教育機関の習慣・雰囲気など、医学教育の文化によって、学生の性格形成に不適切な影響を与えることが指摘されている(医学教育における隠れたカリキュラム)。したがって、医療過誤問題に適切に対応するには、原則適用型の教育だけでなく、学生の人格形成に注目した教育をも行っていく必要があると思われる。



地質学関係

学術論文
  A new method for quantitative representation of zircon morphology,
  Neues Jahrbuch für Mineralogie, Monatshefte, 1989, H.7,
  Schweizerbart, Stuttgart, Juli 1989, 309-319
       AOKI Yoshikazu (青木義和)との共著
       九州大学地質学科卒論に基づく縮約版英語論文



(2)翻訳

  Jos V. ウェリー著 『苦しみを目の前にして』 (近刊予定)
   (Jos V. Welie, In the Face of Suffering, Creighton U.P., 1998) 


(3)書評・文献紹介

  「臨床倫理をさらに学ぶために」〔文献紹介〕
    『緩和ケア』 Vol.15 No.2、青海社、2005 年 3 月 15 日、122頁 - 124頁
概要
『緩和ケア』誌当該号の特集「緩和ケアにおける臨床倫理 –身近なルールを考える」の一部として企画された文献紹介。本特集等により臨床倫理をさらに学びたいと考える人たちの手引きとして好適な近年の邦語文献を紹介した。


  Noburu Notomi, The Unity of Plato's 'Sophist'
  BETWEEN THE SOPHIST AND THE PHILOSOPHER,
  Cambridge U.P.,1999)
    第36回ギリシア哲学研究会、2000(平成 12 )年 7 月 22 日、
    於都立大学
概要
納富信留慶応義塾大学助教授(合評会当時は九州大学助教授)の英書書評会における発表原稿。納富氏はケンブリッジ大学古典学部でPh.D.を取得し、そのPh.D.論文をもとに書かれたのが表記の英書である。書籍タイトルやその副題に示唆されているように、納富氏は、本書において、ソフィスト定義と哲学者定義が同時に成立すると主張している。この主張の論拠として、氏は、プラトンがこの対話篇の中で提示している二つの箇所を提出する。(1)「ある」と「あらぬ」は同時に明らかになる。(2)哲学者は「ある」に関わり、ソフィストは「あらぬ」に関わる。つまり、氏は、哲学者は「ある」に関わり、ソフィストは「あらぬ」に関わり、かつ、「ある」と「あらぬ」は同時に明らかになるので、哲学者とソフィストとは同時に明らかになる(同時に定義される)、と主張しているわけである。だが、プラトンのテキスト(1)の趣旨は、「あらぬ」は或る意味で「ある」ということであり、したがってまた、納富氏は、「ソフィストは或る意味で哲学者であり」、哲学者の類とソフィストの類とは混じり合うということを示していることになる。この点で、納富氏の議論は不適切である。このことを主要な論点として指摘したのが本発表である。なお、この発表への応答が、氏の英書の和訳書『ソフィストと哲学者の間 プラトン『ソフィスト』を読む』(名古屋大学出版会、2002年)の補論二において行われている。

by matsuura2005 | 2005-04-30 16:30 | 業績表
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