管理人 : 松浦明宏
拙著書評会等でのコメントと応答(2)-『テアイテトス』解釈の成否について-
Q2
第一章第二節に書かれている『テアイテトス』第一部の解釈は、その箇所のプラトン解釈として成り立つのかどうか疑問である。まず、著者の指摘によれば、「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」という二つの前提から「比較考量の中に感覚がある」ということが導かれる。このことから著者は、プラトンはこの箇所で知性的感覚を読み取るよう読者を試していたと解釈している。しかし、著者の指摘する先の推論からは、必ずしも、そのような試し解釈は帰結しない。なぜなら、
「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」からは「比較考量の中に感覚がある」という結論が導かれる。しかし、このような不合理な結論が導かれたのは、それら二つの前提のうちのどちらかが間違っていたからだ。
という仕方で、たとえば、「知識とは感覚である」というテアイテトス自身のテーゼを破棄して、第二定義へと移っていく、という解釈も成り立つはずだからである。したがって、仮に件の推論がテキストに含意されているとしても、そのことから、必ずしも、プラトンがそこで知性的感覚を読み取るよう読者を試していたという結論は出てこない。


A2
確かにこの反論者の解釈は一つの可能な解釈であるとは言えます。しかし、この反論の難点は、プラトン自身がテキスト上でそのような仕方で定義破綻劇を構成してはいないという点、言い換えれば、「比較考量の中に感覚がある」という結論が不合理であることをこの反論が最初から前提している点にあると思います。

対話劇上で「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」という二つの前提が出そろい、それをテアイテトス自身が認めた段階(後者の前提はもともとテアイテトス自身の立てた前提)で、プラトン自身が登場人物ソクラテスに何をさせているかと言えば、テアイテトスが「パテーマタ」をどのような名前で呼ぶかを尋ねさせており、テアイテトスがこれ(のみ)を感覚と呼んだことによって定義が破綻する、という仕方で定義破綻劇を描いています。

このように、テアイテトス自身が事実上「比較考量の中に感覚がある」という結論を不合理なものと見なすかどうか(=知性的感覚を想定しないかどうか)を試し、テアイテトスが知性的感覚を想定すれば定義を保持でき、想定しなければ定義は破綻する、という仕方で、定義破綻の成否をテアイテトスにゆだねるということのうちには、ソクラテス自身は「比較考量の中に感覚がある」という結論が不合理か否かにはタッチしていないということが含意されているように思えます。つまり、反論者の言う「このような不合理な結論」は、それが不合理かどうかは、テアイテトス(または読者)がそのように判断する以前にはまだ決まってはいないということであり、むしろ、対話劇上で行われているのは、その結論が不合理か否かをテアイテトス(読者)に決めさせる問答であるという言い方もできるでしょう。

「比較考量の中に感覚がある」という結論が不合理かどうか(=知性的感覚を想定するかどうか)をテアイテトス(=読者)にゆだねる仕方で定義破綻劇が描かれている以上、反論者の解釈は、確かに定義破綻の解釈としては一つの可能な解釈ではありますが、はじめからその結論が不合理であることを前提して話を進めているという点で、おそらくプラトン自身の意図を適切には反映していない、というのが、私の現在の考えです。


P.S.(2006/08/07: AM 1:30)
自己レスです。
実は私は、Q2の趣旨(テアイテトスの思考を述べたものか、ソクラテスの思考を述べたものか)をまだよく理解しておらず、さしあたり上のように紹介させていただきました。Q2がテアイテトスの思考を述べたものなら、
「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」からは「比較考量の中に感覚がある」という結論が導かれる。しかし、このような結論は不合理である。なぜなら、感覚というのはパテーマタについてのみ当てはまる言葉だからである。このような不合理な結論が導かれた以上、私(テアイテトス)はそれら二つの前提のうちのどちらかを破棄しなければならない。
という仕方で書くのが適切でしょうし、他方、ソクラテスの思考を述べたものなら、
「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」からは「比較考量の中に感覚がある」という結論が導かれる。しかし、この結論は不合理ではないかね? テアイテトスよ。 (テアイテトス:)はい不合理です。実際、感覚という言葉はパテーマタにのみ当てはまると思います。(ソクラテス:)では、そのような不合理が導かれた以上、先の二つの前提のうちのどちらかが間違っていたと考えなければならない。
という方向で書くのが適切でしょう。

しかし、いずれにせよ、テキスト上で行われている問答とはやや趣きの異なる問答であることは確かであると思います。なぜなら、上のように考えた場合には、テキスト上に見られるソクラテスの発言”君は、見ること、聞くこと等を何と呼ぶかね?”が問答の中に入ってくる余地がなくなるように思えるからです。

むしろ、テキスト上で行われているのは、
(ソクラテス:)「比較考量の中に知識がある」と「知識とは感覚である」からは「比較考量の中に感覚がある」という結論が導かれるはずだ。となると、テアイテトスは自分の定義を保持するためには、感覚という言葉を知性的感覚の意味に理解していなければならないはずだ。すると、テアイテトスはパテーマタのことを何と呼ぶのだろうか。こちらもやはり感覚と呼ぶのだろうか。それはそれで構わない。身体的感覚というものもあるわけだから。しかし、たとえパテーマタを感覚と呼ぶとしても、それのみを感覚と呼ぶのだろうか。テアイテトスに確認してみなければならない。”テアイテトスよ、君は、見ること、聞くこと等を何と呼ぶかね?”・・・
ということであるように思えます。この場合であれば、ソクラテスがテアイテトスに問いかけている言葉をごく自然な発言と理解することができるように思えます。ソクラテスのこの問いかけの意味を念頭に置く時、やはり、ソクラテスはテアイテトスが知性的感覚をも想定しているのかいないのかを確認するためにこの問いかけを行っていると考えるのが、対話劇の進行上、自然なのではないかと思えるのです。
by matsuura2005 | 2006-08-06 07:09
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