管理人 : 松浦明宏
サッカーとポストモダン?
普段あまりこういうことはしないのですが、少々奇妙なブログ記事を見つけましたので紹介します。ある意味で面白いと言えば面白いのですが・・・。

STOP THE KOIZUMI
世に倦む日日
本と映画と政治の批評
by thessalonike4

に掲載されている

「トルシエのジーコ批判 - 個人主義・ポストモダン・リバタリアニズム」
(http://critic3.exblog.jp/5011920) 2006-06-14 23:30


という記事です。この記事を読んで、次の発言が少し気にかかりました。
「ジーコの南米型の個性尊重と自由放任主義のチーム方針は、選手にはよいのだけれど、勝負となったときに結果を出せない。」
「個性尊重と言いながら、肝心なところでシュートが打てない。」

「個性尊重」と「肝心なところでシュートを打てないこと」と、どういう関係があるのか読んでいてよくわかりませんでした。サッカー選手の勝負強さの問題と、リバタリアニズムやポストモダンの問題とは、分けて考えた方がよいのではないかと思います。リバタリアニズムやポストモダンといった思想的背景がサッカー選手の勝負強さに影響しているのなら、ブラジルの選手やフランスの選手もまた「肝心なところでシュートが打てない」ということになるはずですが、ポストモダンの御本家フランスは前々回(1998年)のW杯で優勝したはずですし、「南米型の個性尊重と自由放任主義のチーム方針」(thessalonike4氏はこれをリバタリアニズムとの関連でとらえています)のブラジルは前回(2002年)のW杯優勝国で、確か現在FIFAランキング1位だったような記憶があります。

ポストモダン以前には日本のサッカー選手は勝負強くてW杯で決勝トーナメントに進んでいたけれども、ポストモダンになると日本のサッカー選手は勝負強くなくなってしまってW杯の決勝トーナメントに進めなくなってしまった、という類いの現象が見られるのなら、日本のサッカー選手の勝負強さにポストモダンが影響していると言えないことはないと思いますが、傾向としてはむしろ逆という方が真実に近いのではないかと思います。リバタリアニズムや個人主義についても同様です。

また、1968年というポストモダンの時期に、釜本選手というストライカーが現れ、日本はメキシコオリンピックで銅メダルを取ったのでしたね。ストライカーが現れるかどうかということと、ポストモダン云々とは、やはりあまり関係なさそうです。

このthessalonike4という人、ただひたすら「独裁」や「全体主義」が好きでたまらないのでしょうね。上の者は下の者を独裁的に支配するのが当然だ、という考えがもはや無自覚的にこの人の頭の中で固まってしまっていて、それ以外のことを考えようとしても考えることができなくなってしまっているようです。何を見るにせよ、何を考えるにせよ、まずは独裁・全体主義ありきで、問答無用という仕方で、リバタリアニズム、ポストモダン、個人主義を退ける。こうした偏見に基づいてサッカーの監督と選手という上下関係を見る時、監督はトルシエのように独裁者でなければならず、選手に自由など与えてよいはずがない、という思考が無自覚的に作られることになる。そこへジーコの自由放任主義が現れて、たまたま「選手が肝心なときにシュートを打てない」という悪い結果を目にすると、そら見たことかとばかりに、そういう悪い結果が生じたのは「選手に自由を与える」という(thessalonike4氏から見れば)悪い事をしたからだ、という、実際にはほとんど関係のない二つの事象を結びつける結果になる、ということなのでしょう。結局、「肝心な時にシュートが打てない」という事象を全体主義賛美のための道具として使っているだけのようにも思えます。

私などが言うのはおこがましいのですが、組織的行動・戦略の訓練が効果を発揮するのは、ひょっとすると、シュートチャンスを作るところまでなのかもしれず、お膳立てされたチャンスにシュートを打つかどうか、どこへ打つか、の咄嗟の判断・反応は、組織的行動の訓練とは別次元の問題なのかもしれませんね。しかし、ど素人の私が偉そうなことは言えません。自分ではできもしないことについて、あれこれ評論家面して言うのはみっともないだけのような気がしてきました。実際にプレーしている選手たちや監督、関係者の方々には、部外者である私は、ただひたすら、一生懸命がんばっている姿を見せていただいてありがとうございます、と感謝することしかする資格はないような気がします。
by matsuura2005 | 2006-06-15 03:04
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