管理人 : 松浦明宏
『ソフィステス』の「虚偽論」と「エイドス相互の結合」(1)
プラトン『ソフィステス』の虚偽論において、「言表はエイドス相互の結合によって成立する」と言われる時の「エイドス相互の結合」とは、何と何とが結合されたものか。この問題を少し考えてみます。
(1)「動は自分自身と同じである」
   (「動は、自分自身との関連で、同を分有することによって、同じである」)
(2)「人間が走る(走っている)」
(3)「テアイテトスは飛ぶ(飛んでいる)」

(2)において「エイドス相互の結合」がどのようなかたちで成立しているのかについて、一つの考え方として、「エイドス相互の結合」を文の「オノマ(名詞)」と「レーマ(動詞)」との結合とパラレルな関係にあるとみる考え方があります。「動」というエイドスが「同」というエイドスを分有するのと同様に、「人間」というエイドスは「走る」というエイドスを分有する。この分有関係によって(2)の言表が成立するという考え方です。しかし、このように考えた場合、(3)をどのように説明すればよいのか難しくなります。(3)は「テアイテトス」という個物と「飛ぶ」というエイドスとの結合を表しているように見え、どのような意味で、この言表においてエイドス相互の結合が成立しているのか、判然としなくなるということです。

そこで、「テアイテトス」という個物を、「座る」、「ある」等の諸々のエイドスの結合体としてみる方向で考えてみます。もっとも、個物を諸エイドスの結合体として見ると言っても、「テアイテトスというオノマの指示対象そのものを諸エイドスの結合体と見る」という考えと、「テアイテトスというオノマの指示対象が分有する諸エイドスの集合体を想定する」という考えとが、可能性として考えられます。しかし、前者の場合、テキスト上で、レーマは行為を表しオノマは行為主体を表す旨言われていることについて、どのように説明するのかわからなくなります。オノマの指示対象そのものを「座る」等のエイドスの結合体と考えた場合、行為主体と行為との区別がなくなって、レーマだけを並べて言表を構成しているに等しくなるように思え、もちろんこれはオノマとレーマとの結合によって言表が成立するということに反します。他方、後者の意味で考えた場合でも、実質的にはレーマとレーマとの結合を考えていることになり、状況はあまり変わらないのではないかとも思います。しかし、それでもそこには一応「オノマの指示対象」と「オノマの指示対象が分有する諸エイドス」という区別が想定されていますので、「オノマとレーマの結合」(言表、行為主体と行為との結合)ということと両立できる可能性がないとは言い切れません。そこで、以下では、「個物を諸エイドスの統合体と見る」と言う場合の「統合体」を、「オノマの指示対象が分有する諸エイドスの統合体」のことであると解し、「オノマとレーマの結合」(言表)を、「オノマの指示対象が分有する諸エイドスの統合体と、レーマの指示対象である諸エイドスとの結合」に基づいて成立するものという意味に(あえて)解した上で、次の発言を考えてみます。
(1)に見られる形相相互の結合の議論の末において、「エイドスの各々について、多くの「あるもの」があり、多くの[無数の]「あらぬもの」があると語っていた。したがって、「君(テアイテトス)について、実際にあるのとは異なる「あるもの」を語る」ということ、つまり、「テアイテトスについて語られてはいるが、「異なるもの」が「同じもの」として、「あらぬもの」が「あるもの」として語られる」ことは可能であり、「そのようなレーマ(動詞)とオノマ(名詞)との結合が虚偽の言表である」(cf.263b, ibid.d)。
たとえば、実際のテアイテトスは座っており、飛んではいない場合、「飛ぶ」のエイドスは、「テアイテトス」が実際に分有しているすべてのエイドスと「異なっている」ことになりますから、「テアイテトス」が分有しているいずれのエイドスでも「あらぬ」、ということになりますが、しかし、「飛ぶ」のエイドスは、「テアイテトス」が実際に分有しているすべてのエイドスと「異なって『いる』」以上、『いる』を分有することによって、「ある」、ということになります。したがって、テアイテトスについて、「飛ぶ」のエイドスという「あらぬもの」を「ある」と語ることはありうることになり、言表の中に「あらぬもの」が混じり合うことが可能であるということになります。

このように考えた場合、第一に、「テアイテトスは『飛ん』『でいる』」という言表の中では、「飛ぶ」という「あらぬもの」と「ある(『でいる』)」とが結合しており、これは、レーマの指示対象である「飛ぶ」のエイドスが同じくレーマの指示対象である「ある」のエイドスと結合しているという事態を反映したものと考えることができ、ひとまずその意味で、この言表は「エイドス相互の結合」に基づく言表であると言うことができます。しかし、この考え方をとった場合、テキスト上で(1)の近辺の議論(最重要類相互の結合の議論)を前提するだけで、「あらぬものがある」ことは言える以上、虚偽の言表の成立の議論にとって、これら二つの議論の間にはさまる「異の部門」の議論が不必要になるという難点が生じます(この点については、次回以降に再び採り上げるつもりです)。

第二に、先述のように考えた場合には、「エイドス相互の結合」によって「テアイテトスは飛んでいる」という言表が成立することを、「飛ぶ」と「ある」との結合というよりはむしろ、次のように考えることもできます。「テアイテトスは飛んでいる」という言表は、テアイテトスという個物が分有するいずれのエイドス「でもあらぬエイドス」(「飛ぶ」のエイドス)が、テアイテトスが分有するいずれかのエイドス「である」かのごとくに語られている言表、つまり、テアイテトスが分有するいずれのエイドスとも「異なるエイドス」(「飛ぶ」のエイドス)が、テアイテトスが分有するいずれかのエイドスと「同じエイドス」であるかのごとくに語られている言表であり、そのような仕方で「レーマ」が「オノマ」に結びつけられたものが、「『テアイテトス』は『飛ん』『でいる』」(「『テアイテトス』が分有するいずれかのエイドスは『飛ぶ』と『同一である』」)という、虚偽の言表である。

しかし、この解釈は、次の点で問題含みであると言えます。テアイテトスが分有するどのエイドスとも異なるエイドス(「飛ぶ」のエイドス)が、テアイテトスが分有するいずれかのエイドスと同じエイドスであるかのごとくに語られるという場合の「エイドス相互の結合」は、「テアイテトスが分有するいずれかのエイドス」と「『同』のエイドス・『ある』のエイドス」との分有関係であり、「飛ぶ」のエイドスとの分有関係ではありません。「AがBと同じである」という場合、分有関係にあるのは、「A」と「同・ある」であって、「A」と「B」ではなく、つまりは、「テアイテトスが分有する諸エイドス」と「飛ぶのエイドス」との間に想定されているのは分有関係ではないということです。となると、それらのエイドス相互の間に「結合関係」が想定されていると単純には言いにくくなります。なぜなら、もしその種の関係を「結合関係」と言うのであれば、「AはBと異なっている」における「A」と「B」も結合関係にあるということになりますが、これはむしろ「結合」というよりは「分離」という言葉で表現するのが適切な「関係」であるようにも思えるからです。実際、最重要類相互の関係が論じられる際には、「動は、同とは異なっている。したがって、動は同であらぬ。」という仕方で、動と同との「分離」が示され、他方で、「動は、自分自身との関連で、同を分有することによって、同じである」という仕方で、動と同との「結合」(分有)が示されると考えるのが普通です。

要するに、「テアイテトス」という「個物」を「座る」等の諸エイドスの統合体と見た場合、「テアイテトスが分有する諸エイドス」と「飛ぶ」のエイドスとは分有関係にあるものと想定されずに「テアイテトスは飛んでいる」と語られていることになり、となると、「テアイテトスが分有する諸エイドス」と「飛ぶ」のエイドスとの「関係」は一体何か、という問題が生じるわけです。あるいは、最重要類相互の関係の議論に基づく限り、「AはBと同じである」における「A」と「B」とを分有関係としての結合関係と考えることはできない以上、仮に「A」と「B」との関係を「結合関係」であると言ったとしても、分有関係ではないその結合関係とは一体どのような関係なのかを説明しなければならないということになりますが、それは、最重要類相互の結合の議論や虚偽論の中だけでは説明できない、という言い方もできるでしょう。

では、それは一体どのような「(結合)関係」なのか。それは「最重要類相互の関係」と「虚偽論」との間にはさまる「異の部門」や、ソフィスト定義の場面を見ることによって明らかになると思えます。それを次回以降見ていくことにします。
by matsuura2005 | 2006-06-05 17:39
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