管理人 : 松浦明宏
実物と映像(2) イデアと動き  運動否定論
わたしたちが「動き」と言っているものは、一体何なのか。このことを、プラトンのイデア論との関連で考えてみます。そうすることによって、エレア派のゼノンが出した運動否定論について、何か言えるかもしれません。要点をあらかじめ述べておけば、「動き」というものを、音楽の場合のメロディーやハルモニア同様、「一つの形」と考えれば、ベルグソンのように時間の分割不可能性に訴えなくとも、ゼノンのパラドクスは避けられる、ということになります。以下、これを詳述します。

動きとは何かという問題を考えるのに、さしあたり参考になると思えるのは、話は飛ぶようですが、映画の仕組みです。映画のスクリーン上の映像は、一こま一こま少しずつ異なった静止画をフィルムに焼き付けたものを、「間歇輪動(かんけつりんどう)」(後述)と呼ばれる仕方で動かしながら映写することによって、動く絵として見られるようになるそうです。間歇輪動とはつまり、或るフィルムの一コマ(A)を静止させた状態でスクリーン上に投影し、次に、その一コマ(A)の前にシャッターを下ろして一旦スクリーン上に画像が映らない状態にし、その間にフィルムを次のコマ(B)まで動かして静止させ、その状態でシャッターを開ける。すると、前の静止画(A)とは少しだけ異なった静止画(B)がスクリーンに映る、という仕方でフィルムを移動させていく操作です。この操作を通常は一秒間に24コマのスピードで繰り返したものを、わたしたちはスクリーン上でみているわけで、間歇輪動させずに、ただ単に連続的にフィルムを動かしただけでは、スクリーン上に何も見ることはできないそうです。また、これは私の想像ですが、全く何の関係もない静止画を一秒間に24コマのスピードで間歇輪動させても、少なくとも「何か或る一つのものが動いている」というふうには見ることはできないでしょう。スクリーン上で何か或るものが動いているというふうに見えるためには、少しずつ異なった静止画を間歇輪動させることが必要なのでしょう。

これは、小学生の頃、遊びで、ノートや教科書の端に少しずつ異なった絵を描いておいて、それをパラパラとめくると、描かれた絵が動いて見えるというのと、原理的には同じであり、残像を利用したものだそうです。つまり、或る瞬間に目に焼きついた像がまだ頭の中にイメージとして残っているうちに、少しだけ異なる像が目に入ってくる、ということを次々に繰り替えすことで、多くの残像が合成されて、描かれた絵が「動いているように見える」、ということです。

この話は、もちろん、映画や絵など、人工品に関することですが、これは、或る意味では、私たちの手や足、動物など、自然物の動きについても当てはまることかもしれません。つまり、或る瞬間に目に入ってきた像がまだ頭の中に残っているうちに、別の少しだけ異なった像が入ってくるということを繰り返すことで、わたしたちや動物が動いているように見える、ということです。

もっとも、人工品の動きと、自然物、特に、動物や人間の動きとの間には、重要な違いがあって、動物や人間は「自ら動くもの」、「魂が備わったもの」であるのに対して、人工品には、普通は、魂が備わっているとは考えません。自分で自分を動かすことによる動きと、他によって動かされた結果としての動きとの間には、その動きの原因・根拠という点で、大きな違いがあるのです。この違いを無視して話を進めることに躊躇がないわけではないのですが、ここでは、この違いを脇において話を進めることにします。

さて、もし、生物の動きと映像の場合の動きとパラレルに考えた場合、わたしたちが「動き」と言っているものは、記憶された少しずつ異なる多くのイメージから、わたしたちが合成し、作り出した、新たな「一つの像」ということになりそうです。この「一つの像」ということを画像の場合で言うと、言いたいことがあまりはっきり伝わらないかもしれませんので、これを音楽の場合に置き換えて言ってみることにします。

音楽といっても、和音というよりはメロディーに近いものを念頭においています。メロディーというのは、いくつかの音が連なって、そのいわば「個々の音が連なること」によって生まれる、音の一つの形である、とここでは考えておきます。これは、プラトンの音楽論にあらわれる「ハルモニア」(harmonia)にあたるのかもしれません。加藤信朗氏は、プラトンの音楽論におけるハルモニアについて、次のように語っています。

「「ハルモニア」とは先立つ一つの音とそれに続く一つの音との間の調和・秩序をいう。したがって「ひと続きの音のつながりがもつ形」のことであり、「節」にあたる。今日の意味での復音構成における高音と低音の間の調和のことではない。」(p.2)(加藤信朗、「プラトンの音楽教育論——それが教えるものーー」、都立大学哲学会研究発表大会報告(2003.5.24.)より引用。ページ付けは、頂いたワードファイルのもの。)

一続きの音のつながりには「形」があって、プラトンによれば、それを捉える感覚を人間以外の動物は持たないのです。

ハルモニアの場合と映像の場合とを、あまり単純に比較しないほうがいいのかもしれませんが、ともかく、或る一定のつながりを持った個々の音や静止画を一つの形として捉えるということがあって、音の場合にハルモニアと言われているものになんらかの意味で相当するものが、映像の場合の「動き」にも含まれているのではないか、というのが、私がここで言いたいことなのです。
ハルモニアは美しいけれども、動きが美しいとは限らない、という仕方で、両者の違いを考える方向もありそうですが、メロディーの中には美しくはないものもあるように思います。むしろ、メロディーの中で美しいものがハルモニアだと考えれば、動きの中で美しいものがそれに相当すると見ることができ、音の連なりが形成する形と、映像の連なりが形成する形という点では、それほど違いがないということにもなりそうなのです。

さて、もしこの比較が多少なりとも当たっているところがあるとすれば、ハルモニアを把握するということと、動きを把握することには、さらに、次の共通点があるように思えます。

・映像の場合に、互いに何の関係もない静止画を次々と映写しても、何か一つのものが動いているようには見えないのと同様に、音の場合にも、互いに何の関係もない音を次々と出しても、メロディーは現れない。メロディーや動きが現れるのは、個々の音同士、個々のイメージ同士に、なんらかの「関係」があるからであって、その関係によって、メロディーや動きが現れる。

・メロディーや動きの場合には、いずれも、或る一定の「時間的継起」というか「持続」というか、何かそのようなものが含まれている。言い換えれば、メロディーも動きも、時間の中で生じるものであるということです。

これらの特徴のうち、今、仮に、時間的継起という要素を無視したらどうなるでしょうか。もちろん、メロディーも動きも時間の中で生じるものである以上、時間的要素を無視することはできないはずです。しかし、今は、一つの思考実験として、本来は取り去ることができないであろう時間的要素を取り去って考えてみるということなのです。

なぜ、そのようなことをするのかというと、メロディーや動きは、あくまでも、「一つの」形だからです。つまり、「一つの」という以上、そうした形を一つの形として捉えるその働きにおいては、時間的継起は本質的ではなく、むしろ、次に見るように、ディアレクティケーの総合の方法によって、多くのものから「一つの形」を「総合」するというプロセス(後述)の方が、より本質的であるように思えるからです。

ディアレクティケーにおける総合のプロセスは、
「一つずつ別々に横たわっている多くのものを貫いて、
一つのイデアが伸び広がっているのを把握する。」
と定式化されると考えられます。たとえば、多くの人間を見渡してその中に技術という特徴を持った集団を見出すということであり、それは、多くの人々が技術という点で似ていると判断して、それら多くの人々を関連付けることであり、その関連付けと同時的に、技術という「一つの形」、「一つのあり方」を見出すことです。

もちろん、メロディーや動きの場合には、個々の音や静止画の間に順序が必要であり、したがってまた、それを捉えるのに時間的継起が必要になります。これに対して、上掲の技術者の場合には、個々の技術者の間に順序があるわけではありません。その点で、技術者という特徴を把握する場合とメロディー等の場合とは異なっています。

また、メロディー等の場合には、個々の音同士、個々のイメージ同士が、互いに似ていると判断して、それらに共通の特徴として一つの形を見出すというわけでもないでしょう。その意味でも、技術者という特徴を把握する場合と、メロディー等の場合とでは異なっていると考えられます。

しかし、音にせよ静止画にせよ、「多くのものから一つの形を導き出す」ということ、しかも、その「一つの形」は、個々の音や個々の静止画のいずれとも異なる、新たな一つの形であるということ、この点で、ディアレクティケーの総合のプロセスによって把握される一つの特徴と、メロディーや動きは共通点を持っているように思います。実際、総合の方法が定式化される時には、単に、「一つずつ別々に横たわっている多くのものを貫いて、一つのイデアが伸び広がっているのを把握する」と言われているだけであって、「一つずつ別々に横たわっている、互いに似た、多くのものを貫いて、・・・」と書かれているわけではありませんから、その「多くのもの」が、「一つの形」という点で、技術者同士の場合のように、互いに「類似」している必要は必ずしもないわけです。ソフィスト定義などの、ディアレクティケーの実践の場面では、総合の「例」が出されているにすぎないと考えることもできるわけです。

さて、ここまで話したところで、話をエレア派のゼノンの運動否定論に向けましょう。 ゼノンの運動否定論は、絶対静止の哲学を立てたパルメニデスという自分の師匠の説を支持するために行われたものなのですが、それはともかくとして、ゼノンは、たとえば、次の仕方で、運動を否定しました。

今、運動というものが存在すると仮定する。この仮定の下で、アキレスという足の速い者と、亀という足の遅いものとの間で、亀に若干のハンディを持たせて競争したとする。つまり、亀のスタート地点より後方からアキレスがスタートしたとする。この場合、論理的には、アキレスは亀に追いつくことができない。なぜなら、アキレスが亀のスタートした地点Aにくるまでの間に、亀は少し前の地点Bに出ている。アキレスがBに来るまでの間に、亀はその前方のCまで来ている。アキレスがCに来るまでの間に、亀はその前方のDまで来ている。・・・。このように考えていくと、いつまでたっても、亀はアキレスの前方にいることになる。したがって、アキレスは亀に追いつくことができない。このような不合理が生じるのは、運動というものの存在を仮定したためである。したがって、運動というものはありえない。

こうしたゼノンの運動否定論に対しては、いろいろな哲学者から反論が出されています。たとえば、二十世紀前半のフランスの哲学者アンリ・ベルグソンの反論(『時間と自由』)を、荻野(『哲学の原風景』、p.131)から引用してみます。

「今世紀前半のフランスを代表する哲学者であったアンリ・ベルグソン(一八五九ー一九四一)は、運動そのものは絶対に分割できないと考えた。運動が分割されるのではなくて、分割されるのは、運動体が通過したあとの軌跡である線分なのだ。だから、ゼノンの議論は、運動そのものと、運動の結果生まれた軌跡であるところの空間とを混同している。時間とは、決して空間的に分割されるようなものではない。分割可能性は時間の本質ではない。時間の本質は、絶対に分割を許さない、純粋な持続そのものにあると主張した。」

運動そのものは分割できない、という点については、私もそう思います。しかし、それは、ベルグソンの考えるように、時間が分割できない純粋な持続であるためというよりはむしろ、運動というものが上述の意味における「一つの形」だからです。私の見るところでは、ものの動きとは、多くの異なる静止画イメージから総合された一つの姿形であり、それは、音の場合に把握されるハルモニアやメロディーと同様なのです。それが時間と密接に結びついていて、時間とは切り離せない仕方で現れることは確かですが、動きそのものの分割不可能性を、時間の分割不可能性と関連づけて考えることは、少なくとも、ゼノンのパラドクスを解くためには、必要ないのではないかと思えるのです。つまり、動きというものが「一つの形」であるとすれば、時間が分割可能であるか否かにかかわらず、ゼノンのパラドクスは回避できるのでは? ということです。

さて、私の説は、一体、どこまで正しいのでしょうか。自分で言っておきながら、こういうのも何ですが、ひとつ考えてみてください。動きというのは、「一つの形」なのでしょうか。
一つの形だったとして、それをプラトン流の「イデア」と呼ぶことがどこまで許されるのか、この点についても、私としては、まだ、あまり十分に考察できているとは思っていません。
また、もし、動きが一つの形だったとすると、或る意味で、動きとは静止しているものだと言っていることになり、すると、私は、ゼノンに反論しつつパルメニデスを支持しているという、妙なことにもなるのです。動きというものはありうる。しかしそれは静止している。したがって、動きというものがあったとしても、パルメニデスの説は正しい、ということです。

こうした問題については、さらに今後考えていきたいと思います。
by matsuura2005 | 2004-04-26 22:41
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