管理人 : 松浦明宏
『プラトン形而上学の探求』補遺2 -『ソフィステス』におけるエイドス・ゲノス-
『ソフィステス』における「エイドス」「ゲノス」(以下これらを区別しません)に関する問題の一つとして、ソフィスト定義に現れる「エイドス」や「ゲノス」と対話篇中央部に現れる「エイドス」や「ゲノス」とが、どういう意味で異なるのかという問題があります。「ソフィストの種族(エイドス・ゲノス)は獲得術の種族(エイドス・ゲノス)と同族である」という文においても、「動のゲノスは自分自身と同一である」(「動のゲノスは自分自身との関連で同のゲノスを分有する」)という文においても、或る意味で、共に、「エイドス(ゲノス)相互の結合」が扱われているには違いありませんが、両者はやはり何らかの意味で、異なった種類の「ゲノス」を扱っているように思われるということです。先日アップした補遺1においては、この違いを、ディアレクティケーの成立根拠に由来する違いとして、さしあたり説明しておきましたが、それはソフィスト定義に現れる「限定的なエイドス」(「肉体の浄化という点で」、「類似性の点で」(kata tên homoiotêta)という仕方で言及される「類似性」や「肉体の浄化」に相当するもの)と「最重要の五類」との違いについての説明としては有効であっても、そうした類似性を共有する「無限定なエイドス」(ソフィストの種族等)と、「限定的なエイドス」(ソフィスト定義における「類似性」に相当するものや、最重要の五類からディアレクティケーの成立根拠という要素を取り去って考えた場合の「ある」「異」「同」「静」「動」)との違いの説明にならないことは明らかです。そこでまず、次のことを考えてみます。

たとえば、『パルメニデス』第一部においては、『ソフィステス』中央部に現れる種類の「エイドス相互の結合」が「驚き」をもって言及されていると考えるのが自然です。
「もし誰かが、(中略)例えば類似と不類似、多と一、静と動など、この種のものすべての形相(種目)を、まず第一にはそれ自体が独立に(自体だけで)あるものとして区別しておいて、次にそれらがそれら自体のあいだで混じり合ったり、切り離されたりすることのできるものであることを明らかにしてくれるなら、わたしの感心と驚嘆は非常なものとなるでしょう」(Prm. 129d-e (田中美知太郎訳))
ここで言及される「まず第一にはそれ自体が独立にあるものとして区別しておいて」という部分が、『ソフィステス』では、「ある」、異、同、静、動の五つがそれら自体で類を成すことが示される場面に相当し、「次にそれらがそれら自体のあいだで混じり合ったり、切り離されたりする」ことを示すのが、『ソフィステス』中心部における「形相相互の結合」の議論のことを示唆していると考えるのは、ごく自然な解釈です。

その場合、最重要の五類相互の結合と分離の関係についてのみ驚きが表明されていることになる以上、この種の結合・分離関係と、ソフィストという種族が他の種族と「獲得術」という類似性を共有するという仕方でのエイドス相互の結合関係とは、『パルメニデス』においても差異化されていると考えるのが自然でしょう。ソフィスト定義におけるエイドス相互の結合関係に相当するものについては、『パルメニデス』においても、上記引用の直前の部分で、「おどろくようなことではない」旨が表明されていると見ることができるからです。

そこでまず、確認しておきたいのは次の二点です。一つは、「動のイデアが自分自身との関連で同のイデアを分有する」(「動は自分自身と同じである」)という場合の「関係」には、「動と自分自身との関係」と、「動のイデアと同のイデアとの分有関係」との二種類想定されること。もう一つは、「ソフィストの種族が他の種族と獲得術を共有する」(「ソフィストの種族は獲得術の種族に属する」)という場合にも、「ソフィストの種族と他の種族との関係」と、「ソフィストの種族と獲得術との共有(分有)関係」との二種類の「関係」が想定されるということです。

となると、『パルメニデス』における上記の驚嘆の原因は、動のイデアが同のイデアとの結合を示されるに先立って「動のイデア」は「それ自体が独立にあるものとして区別」されているのに対して、「ソフィストの種族」はそうではない、という点にあるということになりそうです。つまり、「ソフィストの種族」は、ソフィストの真なる定義が得られるまでは、まだ「それ自体が独立的にあるものとして区別」されてはいないため、そこへ何らかの性質が結合してその何であるかを確定すると考えるのは自然であるのに対して、既にそれ自体独立的にあるものとして確定している「動のイデア」にさらに何らかの性質が付け加わるという事態は、或る意味で、不自然な事態であるということです。この違いが、先に言及した、「限定的なエイドス」と「無限定なエイドス」との違いの内容であると考えることができます。「ソフィスト」のように、「探求対象」(論題)となっているエイドスは、それが定義されるまでは、まだその何であるかが明らかでないのに対して、動のイデアは、いわば「定義」されたのと同じ状態に置かれたエイドスであり、その時点でもはや、本当にそれらが独立して類をなすのかどうかという、探求対象とはなってはいないという言い方もできるでしょう。ただ、この場面での識別の仕方と、ソフィスト定義における分割と総合の方法による識別の仕方とは異なります。この「方法の違い」がその「対象の違い」(「ゲノス」や「エイドス」の意味内容の違い)に反映されていると考えられ、たとえば、概念同士を識別する場合には分割と総合の方法が用いられるが、概念というよりはむしろ実在についての識別を扱う場合には、帰謬法などの、或る種の仮定の方法が用いられるということなのかもしれません。しかし、これについては、分割と総合の方法と仮定の方法との違いについて考察を行なった上で検討されるべき課題として、ここではこれ以上立ち入らないことにします。

いずれにせよ、対話篇中央部の形相相互の結合の場面に見られるいくつかの議論、つまり、「動は静と異なっている。したがって、動は静であらぬ。しかし、動は「ある」を分有することによって、ある」といったいくつかの議論では、「動とは何か」という仕方で、動の本質が探求されているわけではありません。もし動の本質が探求されているのなら、その議論の末で、「動についても、他のすべての類についても、あらぬものがあるということがありうる」などという仕方で、主語が一般化されるはずがありません。その意味で、この議論は、ソフィスト定義において、「ソフィストとは何か」という仕方でソフィストの種族の本質が探求されているのと対照的です。形相相互の結合の議論においては、「動」のあり方は既に明らかであるということが前提された上で、「あらぬものがある」ことが立証できるかどうかということが問題になっているわけです。その意味で、この議論に現れる文の主語に相当する「動」等の「各々のエイドス」は限定的エイドスであり、それが前置詞periの対格支配によって示唆されていると見られるのです(無限定のエイドスは、前置詞periの属格支配)。

もちろん、「ソフィストというエイドス」にしても、それがたとえばゴルギアスやプロタゴラスやヒッピアス等、ソフィストの個別事例によって共有されている特徴であるという意味では、限定的なエイドスであると言うことはできます。しかし、それは、「ゴルギアスとは何者か?」という問いに対して、「ゴルギアスはソフィストである」という答えを出した時の「ソフィスト」のことであって、「ソフィストとは何か?」という問いにおける「ソフィスト」のことではありません。この対話篇で問題になっているのは「ソフィスト」の特徴を探求することであり、そのように探求の主題として設定されたものという意味で、それは無限定なエイドスであることになると思います。

私の見るところでは、この事情は、『ソフィステス』における虚偽論に現れる「テアイテトスは飛んでいる」、「テアイテトスは座っている」という言表の場面にもあてはまるようです。というよりはむしろ、あてはまると考えれば、「言表はエイドス相互の結合にもとづいて成立する」というテキストを説明するのに寄与する、と言った方がよいかもしれません。「テアイテトス」といういわゆる「固有名(の指示対象)」は、「ゴルギアス」や「プロタゴラス」などと同様、いわゆる「感覚的事物」に相当するものと考えることができますが、この虚偽論においては、「肉眼に見えるもの」と「思惟の対象」という中期以来の区別のもとで「感覚的事物」と「イデア」という対が想定されていると考えるよりはむしろ、「探求対象となるもの」と「それを規定してそのあり方を明らかにするもの」という意味で「無限定なもの」と「限定的なもの」という対が想定されていると考えた方がよいと私には思えます。「テアイテトス」を探求対象とした場合に、それが「飛んでいる」と答えた場合には、虚偽の言表となり、「座っている」と答えた場合には、真なる言表となる、ということです。

もちろん、このように言うと、「ここにいる、このテアイテトス」という発言がテキストに見られるということによって、そのテアイテトスのあり方は既に明らかではないかと言われることが予想されます。しかし、その明らかさは、ソフィスト定義において、「魚釣り」という誰でも知っているような例を雛型にして定義の方法を練習するのに似て、「ここにいる、このテアイテトス」という、その場にいる誰にでも明らかなもの(その場にいる誰にとってもリアリティーのあるもの)を雛型にして、虚偽の言表と真なる言表の成立を説明する際の明らかさであって、それらの言表に用いられている主語が探求対象となっているか否かという点での明らかさとは異なるように思えます。

たとえば、壁の向こう側にテアイテトスがいて、われわれはこちらからそのテアイテトスの姿を見ることはできないとします。他方、エレアの客人は、壁の向こう側を覗き込むことのできる位置にいるとします。その状況下で、エレアの客人が「ここにいるこのテアイテトスは、どんなあり方をしているか?」と問うた場合、われわれはそのテアイテトスが「座っている」か「立っている」か「飛んでいる」かわかりませんから、「テアイテトスは立っている」と答えるかもしれません。そのわれわれの答えに対して、エレアの客人は、(テアイテトスが座っている場合には)「それは虚偽の言表である」と言うでしょう。そのようにそれを虚偽の言表であると断定できるのは、エレアの客人の目にはテアイテトスのあり方が明らかだからですが、それにもかかわらず、そのテアイテトスを探求対象として設定することは可能です。

この状況を「壁」のない状況に置き換えた場合が、おそらく、テキスト上で行なわれている対話なのでしょう。その場合、そこにいる人たちすべてにテアイテトスの姿は明らかですが、しかし、そのようにそのあり方が明らかなテアイテトスを探求対象と仮定してテアイテトスについての言表を作ることは可能です。そのようにして作られた言表が「テアイテトスは飛んでいる」、「テアイテトスは座っている」なのだと私には思えます。

もしこの想定が正しいとすれば、それらの言表の主語となっている「テアイテトス」は、ソフィスト定義における「ソフィスト」と同様、探求対象として見ることができ、そのあり方が明らかでないと(仮定)された「テアイテトス」は、ソフィスト定義における「無限定のエイドス」に相当する扱いを受けていると考えることができます。あるいは、より正確には、「無規定のもの(探求対象)として『見られたもの(エイドス)』」という意味での「無限定のエイドス」には、「感覚的事物」(個物(e.g.テアイテトス))と「種族(エイドス)」(e.g.ソフィスト)との両方が含まれうるという言い方をした方がよいのかもしれません。その場合には、「無限定のエイドス」という表現における「エイドス」と、「ソフィストの種族(エイドス)」という表現における「種族(エイドス)」とは同じ事柄を意味しているわけではないということにはなりますが、そのギャップは、われわれが「無限定のエイドス」というものを想定する際の障害にはならないと思えます。個物にせよ種族にせよ、何か限定的なものによって限定されるべく差し出されているものとして見ることは可能だからです。また、ソフィストの種族がそこに帰属するものとして選択される種族の構成要素である「多くのものども」(ta pollla)についても、ソフィストの場合と同様に考えることができるように思えます。その「多くのものども」のいずれもが、何か限定的なエイドスによって限定されるべく差し出されているもの、という仕方で考えるということです。

ただし、以上の意味での「無限定」「限定」と、総観等にかかわる無限定や限定とがどのような関係にあるのか、これからさらに考えてみるつもりです。
by matsuura2005 | 2006-05-19 23:30
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