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管理人 : 松浦明宏
『プラトン形而上学の探求』補遺1 -『ソフィステス』における「雛型」論法 -
以下の文章は、『プラトン形而上学の探求』の中で、『ソフィステス』における「雛型」論法について、第二章(ディアレクティケーの実践的側面)の冒頭で下記引用のように述べたことについての補遺です。この補遺によって、本書中核部全体の議論の構成を示すことにもなりますので、本書の要点を比較的短時間で把握するのに役立つのではないかと思います。

「本章と次章においては、前章で定められた解釈方針にしたがって、プラトンの後期対話篇の一つ『ソフィステス』に見られるディアレクティケーを「試し」(peira)という観点から考察する。これは或る意味で、『ソフィステス』冒頭において「雛型」(218d9 paradeigma)」と呼ばれている考察を『ソフィステス』の全体にわたって想定するという側面をも合わせもつ。その「試し」考察、「(拡張された)雛型」考察を行なう中で、ディアレクティケーの「成立根拠となるもの」(253c3 aitia)の把握を試み、その試みにおいて、この対話篇に現れる「最重要の五類」(cf. 254 megista tôn genôn)、ならびに『ピレボス』(Phlb. 16c10ff.)においてディアレクティケーの要約的記述と共に明記される「限定」(peras)と「無限定」(apeiria, apeiron)等を、その「成立根拠となるもの」として見出すことになる。」(69頁)

ここに言及されている「試し」解釈については、第一章(プラトン解釈の方法)の中で、ある程度頁数を割いて説明しましたが、「雛型」解釈という点については、上記のように一言触れるだけで終わってしまっており、どういう意味で、本書の議論が「(拡張された)雛型論法」なのかについて説明していなかったので、以下、それを説明します。

「雛型」論法というのは、プラトンの思考の特徴の一つであり、何らかの考察を行なう時、いきなり難しい事柄(本題)を考察するのではなく、より身近でわかりやすい題材を選んでまず考察の方法(メトドス)を練習し、その上で、本題(大いなるもの)の考察に入っていくという議論の仕方です。『ソフィステス』冒頭では、「ソフィスト」というとらえにくいものの定義に入る前に、「魚釣り」という、誰でも知っているようなわかりやすい例を選んで定義することにより、ソフィスト定義の方法を練習をするわけです。

本書では、この雛型論法を拡張し、この対話篇の中の、(1)「ソフィスト定義」、(2)「形相相互の結合」、(3)「異の部門」の前半、(4)「異の部門」の後半という四つの部分について、(1)→(2)→(3)へと、雛型のレベルがいわば上昇していき、最後の(4)において「無限定の二」(不定の二、プロティノスの「質料」)というかたちで、分割の成立根拠を捉えるよう示唆されていると考えています。つまり、「ソフィスト定義」は「形相相互の結合」の雛型であり、「形相相互の結合」は「異の部門」の前半の雛型であり、「異の部門」の前半はその後半の雛型であり、この最後の部分で分割の成立根拠が捉えられる、ということです。

まず、(1)「ソフィスト定義」の過程で、たとえば、「浄化術」を「肉体の浄化術」と「魂の浄化術」とに分割する時、「肉体の浄化という点で、医術は、体育術と同族であり、懲戒術と非同族である」という仕方で、医術と体育術との関係、医術と懲戒術との関係が把握されることによって、「肉体の浄化術」と「魂の浄化術」という二つの領域が区分されます。この時には、(a)「肉体の浄化」という類似性、(b)「医術」、(c)「体育術」もしくは「懲戒術」、という三つの項が現れ、そのうちの(b)と(c)との「関係」を把握することにより、分割(識別)が成立しています(cf. 123頁、83頁)

これに対して(2)「形相相互の結合」においては、「動は、自分自身と同じであり、静とは異なる」という仕方で分割(識別)が行なわれますが、この種の分割(識別)においては、「関係把握」という観点から見れば、(1)における(b)と(c)に相当する二種類の項、すなわち、(b')「動」と(c')「自分自身」もしくは「静」、という二種類の項しか現れず、(b')と(c')との「関係」を把握することにより、分割(識別)が成立しています。ただし、これら二種類の項は、いずれも「限定的なエイドス」であり、関係把握が「どのようなものについて行なわれるのか」という観点から見れば、これら二種類の項は、いずれも(1)における(a)「肉体の浄化」という類似性に相当すると考えられます。「動」、「静」、「ある」、「異」、「同」という五つの「最重要類」が持つ「最重要性」は、「分割の成立根拠となる類」(253c3 tês diaireseôs aitia)というテキスト上の示唆に基づく限り、ディアレクティケーの成立根拠であることによる超越性と考えられますので(cf.133頁-136頁、168頁-169頁、188頁(ただし「超越性」という言葉は使っていません))、逆に言えば、この「超越性」を度外視して、単に「限定性」のみに目を向けた場合、「動」や「静」など、「形相相互の結合」の議論に用いられている諸形相は、ソフィスト定義に現れる「類似性」に相当するエイドスと考えることができるということになります。いずれにせよ、この(2)においては、(1)における(a)に相当する二つの限定的エイドスについて、それらの相互関係((b')と(c')との関係)が把握されており、リーの解釈における「異のsupervenient role」(cf. 157頁以下)は、こうした二つの限定的エイドス同士の関係把握において果たされる「異」の役割を述べたものと考えられます。

ところが、(3)「異の部門」の前半においては、「美の本性」、「大の本性」、「小の本性」という、各々「一つの限定的エイドス」と、「異の部門」との対置によって、新たに「無限定な領域」が作られる段階へとステップアップすると考えられます。この対話篇においては、たとえば、「大の本性ではない」は、「大の本性と反対である」ということではなく、「大の本性と異なっている」ということであるとされ、その場合、「大の本性ではない」からといって「小の本性である」とは限らず、「等の本性である」こともあり得るということになりますから、「大の本性でない」は「大の本性以外のすべて」を表すということになります。こうした「一つの限定的エイドス以外のすべて」には、(2)「形相相互の結合」の場合とは違って、「一つの限定的エイドス」と「一つの無限定な領域」とが現れている点が特徴的であると言えます。これはリーの解釈における「異のconstitutive role」(cf. 157頁以下)に相当するものと考えて構わないと私は考えています。尚、「異の部門」とは、大の本性、小の本性、美の本性など、個々の限定的エイドスと対置される場合の「異(なる)」のことであり、「異の本性」を「全体」とすれば、いわば「個別的な異」とでも言うべきものと考えられます。「美の本性と『異なる』」、「大の本性と『異なる』」、「小の本性と『異なる』」という場合に、三つの「異なる」が現れますが、この多性を持った異、分散した異とでも言えるのかもしれません。それがテキストでは、異の本性から「切り離される」という仕方で言われているものと思われます。

さて、このように、(3)において「一つの限定的エイドス」と「異の部門」との対置によって、いわば「一つの無限定」が作られるわけですが、(4)「異の部門」の後半(というよりはむしろ「最後」)においては、美、大、小といった「限定的なエイドス」ではなく、「ある」の本性という一つの「無限定なエイドス」と「異の部門」とが対置されることによって、新たに「無限定なもの」が作られることが示唆されていると私には思われます。「ある」の本性が「無限定なエイドス」であるというのは、テキストでは、「ある」は「すべてを貫く類(ゲノス)」であると言われていることからそのように言えるのではないかと私は考えています。「すべてに共通する性質」というのは、「何か或るもの(または或る集団)だけにあてはまる特徴」を明らかにすることはできませんから、その意味で、「ある」の本性は、美の本性や大の本性などとは違って、他のものからそのものを区別するための「限定的な性質」を持っていないと考えるのが自然であるということです。もしこの解釈が正しいとすれば、この(4)においては、「ある」の本性という「一つの無限定」と「異の部門」との対置により「もう一つの無限定」が作られるわけですから、この「ありさま」を「無限定の二」と呼ぶことができ、この「ありさま」が、テキストでは、「あらぬもの」の「エイドス」と言われているのだと思います(cf. 159頁以下)。この「あらぬもの」の「エイドス」は、『ソフィステス』に見られる「甲は乙と」(heteron heterô)という仕方で語られる日常語法をより厳密に考察することによって、その「実在性」(ウーシア)を確保したことの表現と見られ、(1)のソフィスト定義における「医術は懲戒術と」という関係把握にもとづく分割(識別)においても、(2)の「動は静と」という関係把握に基づく分割(識別)においても、「甲は乙と」という仕方で、二つの項が無限定ないわば「関係の型」が前提されていることから見て(cf. 148頁-150頁)、(4)に現れる「あらぬもののエイドス」が「分割の成立根拠となる類」であると考えられます。この「分割の成立根拠」においては、(2)における二つの限定的な項がいずれも剥奪された状態にあるため、もしそこに何か性質があるとすれば、「異なる」ということだけがあり(cf. heteron heterô)、「関係」だけがあるということになるように思います(cf. to heteron pros heteron, pros ti)。そしてこの「分割の成立根拠」が、『ピレボス』において「より多くまたより少なく」という仕方で言及される無限定に相当し、アリストテレスの報告に見られる「不定の二」やプロティノスの「質料」概念と密接なかかわりを持っているのではないかと私は考えます(cf. 161頁-164頁)。

「質料は、ただ単に異なるもの(allo)と呼ばれるのがふさわしいだろう。いや寧ろ、おそらくは、異なるものども(alla)と呼ばれるのがふさわしいだろう。それは、(中略)、無規定性(to aoriston)を示すためである」(Plotinus, Enn. II. 4.13)

以上のように、『ソフィステス』においては、(1)→(2)→(3)→(4)の順に、雛型論法によって議論が進行していると私には思えます。そして、この雛型論法によって分割の成立根拠を捉えることが、プラトンから「試し」として読者に与えられているものと私は考えます。
by matsuura2005 | 2006-05-07 00:05
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