管理人 : 松浦明宏
哲学の論文を書くということ(5) - 技術的観点2 -
 今回は技術的観点の後半を書きます。前回は、論文の全体構成・要素の「問
題の提示」まで書きましたので、今回は、その続きで、「在来研究の紹介と批判」
以下を書きます(項目については、前回アップしたもの(のC.)をご覧くださ い)。

在来研究の紹介についての留意点
・ 本文中ではあまり細部に立ち入って紹介せず、骨格のみを書く(細部を書き
たければ注に書く)。
・ 自説との対照に必要な論点を中心に書く(その他の論点を書きたければ、な
るべく注に書く)。
・ 紹介文は引用のつぎはぎではなく、なるべく自分の言葉に直して書く。
・ 決定的に重要な文言、キーワード、キーセンテンスとなるものについては引
用し、原語を付す。
・ 典拠、ページ数を注に書く。
・ 紹介するに値する研究を選んで批判する(広く認められている在来研究を選
んで批判した方が、より自説が強調される)。

サーベイ論文ではなくてオリジナル論文において在来研究を紹介するのは、そ
れを批判して、自説の優位性を強調するのが目的です。となれば、たとえば下
記の例に見られる仕方で、在来解釈を取り上げて、それと自説とを対照すると
いうのが、オリジナリティーを他人に向かって主張しようとする場合の基本的
な書き方となるでしょう。この「在来解釈」に相当するものが、当該哲学者と
は別の哲学者の見解である場合もあります。

「・・・このようなペルソナの実体性と関係性という問題は、現代のトマス解
釈者たちのあいだで、改めて注目を集めている。そして、トマスに好意的な多
数の解釈者たちが、トマスは人間を単に実体的な存在としてではなく関係的な
存在として捉えているのだということを強調している(注6)。これはそれ自体
としては首肯しうる見解である。
 だが、私見によると、これらの解釈者たちの解釈には、見逃すことのできな
い共通の難点がある。それは、問題を、「ペルソナ・人格(person)」という言
葉の定義から汲み取ってきているにもかかわらず、その解決に際しては、トマ
スがpersonaという語を使っている存在論的な文脈からではなく、「人間
(homo)」というより一般的な語を使っている文脈に基づいて論を展開してい
るということである(注7)。・・・だが、・・・最終的にはpersonaという語の
内実に即した解決—すなわち「理性的実体」という存在論的な人間理解に基づ
いた解決—を与える必要がある。
・・・
 それゆえ、本稿においては、主に、知性認識の場面に論点を絞りつつ、理性
的実体としてのペルソナにおける関係性の在り方を、明らかにしていきたい。」
「(注6)関係性の閑却という点からトマスを批判しているのは、以下の研究で
ある。Hans Urs von Balthasar, ....
それに対して、トマスのうちに関係性の強調が見出されるという立場は、
以下の論者の研究のうちに見出される。
・・・例えば、シンドラーは以下のような見解を提示している。すなわち、・・・・。
(注7)そのような問題を孕んだ最も代表的な研究は、以下のものである。・・・」
(山本芳久、「トマス・アクィナスにおけるペルソナの存在論 —知性認識にお
ける実体性と関係性という観点から」、『哲学』第52号、日本哲学会、2001
年4月、179頁−180頁、187頁(ただし、注番号の表記については、
表示の都合上、変更してあります。また、頁付けもここではまとめて書いてあります。
これは以下の齋藤論文についても同様です。))


「これまで、レーヴィットを嚆矢として、とりわけ後期ハイデガーにおけるピ
ュシス(physis)概念の規定不可能性が批判されてきた(注1)。これに対して
近年、チョウが異議を唱え、ピュシスの存在論的意義の回復を主張するととも
に、その位置価と解釈方法とについての再検討を促した(注2)。この指摘を受
けてリーデルは、ハイデガーの存在論を、「自然の根源的実在」を問う「自然解
釈学(Naturhermeneutik)」の営みとして捉えることを主張した(注3)。・・・
しかし、この興味深いリーデルの主張も、前期に限定されたものであり、後期
をも射程に含めた自然解釈学の様相、及びピュシスそれ自体の存在論的位置価
については、なお十分に論じ尽くされているとは言いがたい。
 そこで本稿は、この残された課題に答えるために、従来の解釈では看過され
てきたキネーシス(kinesis)の概念に着目する。・・・」
「(注1)K. Löwith, Heidegger. Denker in dürftiger Zeit, 2.,
erweiterte Aufl., Göttingen 1960, S. 61-67. 存在概念及びコスモス概念に
対する同様の批判に関しては、以下を参照。H. Plessner, Die Stufen des Organischen
und der Mensch, Berlin W 10 und Leibzig 1928, V; W. Kranz, Kosmos, in:
Archiv für Begriffsgeschichte, Bd. 2, Bonn 1958, S. 243 f., 260.
(注2)K. K. Cho, Ökologische Suggestabilität in der Spät-
philosophie Heideggers, in : Bewußtsein und Natursein, Freiburg/
München 1987, S. 50 ff.
(注3)M. Riedel, Naturhermeneutik und Ethik im Denken Heideggers, in
Hören auf die Sprache, Frankfurt a. M. 1990, S. 232.」
(齋藤元紀、「ハイデガーにおけるピュシス概念の意義 —キネーシスの観点か
ら」、『哲学』第52号、日本哲学会、2001年4月、248頁、256頁)


 これらはいずれも研究論文の序文(と注)の記述です。概括的にではあれ、
その論文の中で自分が何を行うつもりなのかを述べるときには、これらの例の
ように、(1)何らかの「問題」(「箇所」、「概念」)、(2)それについ
ての「在来研究」の骨子、(3)それについての「難点」・「疑問」を提示した上で、
(4)自説(の概観)を提出する、という手続きを踏みます。また、在来解釈の紹介
は、(ここでは概観を与えているからそうなるという側面もありますが)、基本
的には、引用文ではなくて自分の言葉で表現しています。しかし、その一方で、
キーワードとなるものについては、原語が引用されています。また、在来研究
の選択と紹介は、自説との対照に必要な限りで行われているように思え、注の
中では典拠とページ数があげられています。
 おおよそ、このような仕方で、在来研究の紹介、批判、自説の提示を行うと
いうのが、オリジナル論文を書く場合の基本であり、本論中でさらに詳しく説
明する場合でも、この骨格はかわらないと考えておいて差し支えないでしょう。
 ただし、具体的にどのような形で本論を構成するかは、論者によってさまざ
まであり、それで構わないと思います。たとえば、序文で概観した在来研究を
本論中でさらに詳しく紹介・批判し、その後で改めて自説をテキスト等の典拠
に基づいてより厳密な形で主張する、という方法もあるでしょうし、本論中で
はさしあたり自説の提示に主力をそそぎ、それが終わった後で、ふたたび、冒
頭にあげた論者の説と対照を行う、というやり方もあるでしょう。


自説と在来研究との差異の確認
自説の利点の提示

 これらは、序文で概観を行ったときに言及した場合でも、本論中で自説の提
示が一通り終わった後で再度確認したり、場合によっては、本論の途中で適宜
挿入しながら、自説とのコントラストをつけるということもあり得ます。
 いずれにせよ、なぜこれらを書く必要があるのかと言えば、自説と在来研究
との違いがどこにあるのかを十分に明らかにすることによって、その論文のオ
リジナリティーが明らかになるからです。十分に明らかにすると言ったのは、
しばしば、一見したところ違っているように見えるが、実質的には同じ事柄を
別の言い方で述べているだけの論文もあるからです。
 また、たとえオリジナリティーが確認できたとしても、そのオリジナリティ
ーにほとんど利点がなければ、その論者の意見を採り入れなければならない理
由はない、ということになってしまいますので、なるべく、自説のように考え
た場合にどのような利点が得られるのかを「明記」しておいた方が、より説得
的に読者にアピールすることができるでしょう。


批判と異論の区別

これについては、野矢茂樹著『論理トレーニング』、産業図書、を参考にしてい
ます。(ただし、もちろん文責は松浦にあります。)

 まず、批判と異論の区別について説明する前に、「立論」というものについて
確認しておかなければなりません。

 何らかの理由・根拠を伴った主張が「立論」(あるいは「論証」)と呼ばれます。
立論(論証)=主張(結論)+理由
ということであり、形式的には、たとえば、
「Aである(結論)。なぜなら、Bだからだ(理由)。」
「Bである(理由)。したがって、Aである(結論)。」
という、これらの「 」全体が一つの「立論(論証)」ということになります。
もちろん、このAやBの部分が、一つの文から成るとは限りませんし、また、
いくつもの理由をあげた結果、それらから一つの結論を導いたり、その一つの
結論がまたいくつかの仕方で言い換えられる、という場合の方が多いでしょう。
そういう場合でも、そうした理由と結論との全体を、一つの論証なり立論なり
であるとここでは単純化して考えておきます。

 さて、そのように立論というものを捉えた上で、批判について説明しますと、
批判(critic)というのは、相手の「立論」が成り立たないことを示すタイプの
反論であり、この種の反論においては、相手の言っていることの範囲内で反論
するという意味で、「内在的反論」と言うことができます。
 具体的には、批判には、上述の「立論」を構成する二つの要素(理由と結論)
のうちの、
(1)「理由」が成り立たない(事実でない)ことを示す場合
(2)「理由」を事実と仮定しておいて、「理由」と「結論」とのつながりを
否定する場合
という二つの場合があります。
 (2)はつまり、「Bが仮に事実だったとしても、そのことから必ずしもAは
言えない。なぜなら、Cだから。」という仕方で、相手の出してきている理由(B)
と結論(A)とのつながりを断ち切り、そのことによって、相手の立論(論証)
を否定するということであり、「それは理由になっていない」という仕方で、つ
まり「BはAを主張するための理由としては不適切だ」という仕方で反論する
場合がこれにあたります。
 これに対して(1)は、そもそも理由が事実でないことを示すわけですから、
いわば「それは事実無根だ」という仕方で、相手の主張に「根拠がない」こと
を指摘するものだと考えておけばよいかと思います(ちなみに、「根拠のない主
張」のことを「ドグマ」と言います)。
 従って、(1)(2)のいずれの場合でも、そのように批判する人自身が、B
とは別の理由(D)を探し出してきて、「Dである。だから、Aである。」という
仕方で、相手と同じ結論Aを主張する、ということもあり得ます。この場合に
は、「Aを主張するには、君の言うようなBという理由ではなくて、Dという理
由にもとづかなければならない。」という仕方で、理由の是非を争っていること
になります。(もちろん、Bという理由に対して(1)もしくは(2)の疑義を
提出した上で、相手とは別の結論を論証するという場合もありうることは言う
までもありません。)

 では異論(objection)とは何かと言えば、批判の場合とは違って、相手の立
論に内在的に反論するのではなく、相手の主張とは異なる主張(対立する主張)
を理由とともに示すタイプの反論です。その意味で、異論は「外在的反論」で
あるといえるでしょう。このタイプの反論によっては、少なくとも形式上は、
相手の立論そのものが間違っていることを示したことにはなりません。ですか
ら、こちら側が立てる立論もしくは主張(結論)の持つ「説得力」が、相手の
立論もしくは主張の持つ「説得力」を上回るかどうかを争点として、自説の方
を採用するよう読者にアピールするということになります。その意味で、異論
より批判の方が、反論としては強い反論であることになるでしょう。なぜなら、
批判した上で自説を立てた場合、そのように立てた自説が明らかに間違いであ
ると読者の目に映らなければ、少なくとも形の上では相手の説は「間違って」
いて自分の説は「正しい」ということを示しているのに対して、異論を立てた
だけの場合には、相手も自分もどちらも正しいという可能性を少なくとも形の
上では含意しているからです。

 具体的にどういうものが異論でどういうものが批判なのかについては、ここ
では立ち入りません。野矢上掲書(134頁以下)をご覧ください。

 以上、これでさしあたり私の言いたいことは述べてしまいましたので、これ
で論文書きについての話は終わりとします(ただし、今回触れなかった「指示
語」の使用については、その重要性に鑑みて、いずれまた書くかもしれません。
注その他の書き方については、私などがここで説明するよりは、個々の論文(全
国誌に掲載されたもの)で実際に調べるなどして、各自の研究領域でどのよう
な書き方をするのかを見ておくのがよいと思います)。
by matsuura2005 | 2004-06-27 19:10
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