管理人 : 松浦明宏
哲学の論文を書くということ(3) - 動機付け -
哲学の論文を書くということについて、今回は、もう少し具体的に述べることにします。具体的にといっても、二つの観点があります。一つは、論文を書く「モチベーション」(動機づけ)という観点であり、もう一つは、テクニカルな観点、いわゆる「作文の技法」のようなものです。今回は、動機づけについて書きます。


1.論文を書く動機づけ
論文を書くときに、書き手の側から見て一番重要なのが、動機づけの問題でしょう。
書きたいと思っていないことについて、あるいは、何を書きたいのかはっきりわからないことについて、
論文を書くことなどできませんから。
自分が何を書きたいのかわからない状態から、どのようにして論文を書こうと思うようになるのか、
それぞれの置かれた状況によって、いろいろな場合があるのでしょう。


そもそも、自分がどの哲学者を研究したいのかわからない場合、次のことをいろいろ試してみるのがよいのではないでしょうか。
・大学で行われている複数のゼミや講義に出席して、興味が持てそうな話題・情報の収集にあたる。
・研究室の先輩・同僚などが雑談しているところに混じる
 (特に勉強のことを聞くつもりでなくても、ちょっとしたきっかけで興味を持てそうな哲学者の話が出るかもしれない)。
・以前から何となくでも興味を持っていた哲学者の著作の翻訳を読んでみたり、その原書や解説書を読んでみる。
 (どういう文献があるのかは、指導教官や先輩に聞いてみたり、図書館・書店のHPなどで検索するのがいいと思います。)
 
その他にもあるでしょうが、ともかく、いろいろな仕方・場面で、哲学に触れる機会を増やしていくうちに、
何かのきっかけで、研究してみたいと思える哲学者を見つけることができるのではないかと思います。
ただし、一回や二回ゼミなどに出たからといって、興味の持てる話題に出会えるというものではなく、
一年、二年と継続しているうちに、どこかでそうした話題に出くわすというのが、より真実に近い。
こうしたことについては、効率性を求めないほうがいいと思います。ダメもとという気持ちが大切。
また、予習をせずにゼミに出てもあまり面白くないでしょうから、予習をするというのは重要です。
わかるわからないは二の次で、ゼミで行われる議論に積極的に耳を傾けることができるために、
予習が大切だということです。予習をしていてわからなければ、ゼミで質問すればいいだけのことです。

ちなみに、私が卒業論文のテーマ(プラトン『テアイテトス』、プロタゴラスの自己論駁(だったか?))を決めた一つの理由は、
単にそのときゼミで取り上げられていたテキスト以外からテーマを選ぶのが現実的ではなかった、ということです。
ゼミの予習をしつつ、それとは別のテキストをギリシア語で読んでそれについて卒論を書くというのは、
少なくとも私には難しかった。
だから、そのゼミ中に話題になり、二次文献も取り上げられてゼミで報告を求められ、
自分でもそれを面白いと思っていた、ちょうどその箇所について
もうすこし詳しく調べて卒論を書いたわけです。
これが修士論文となると別で、ゼミとは独立的に、自分で選んだ著作(実際には、指導教官に示唆された著作)を読み、調べて、
その中から面白そうな箇所を選んでテーマとし、それが、陰に陽に、現在の研究にも反映されているわけです。

ただ、卒論にせよ修論にせよ、どうしてその箇所を選んだのか、ということになると、
やはりそれは、他の研究者の解釈を読み、その解釈に疑問を持ったから、
また、その箇所の解釈は難しく、非常に多くの研究者が苦しんでいて、考える価値がありそうだったから、
ということになるでしょう。そうした研究状況に触れる機会を与えてもらえたのが、卒論の場合には、ゼミだったということです。

ただ漫然とテキストを読んでいただけでは、論文の具体的なテーマはまずみつからないと思います。
他の研究者の解釈でなくても、授業中に指導教官が述べた見解でもいいし、
授業中であれ他の場所であれ、同僚や先輩と議論したときに出た話題や考え方でもいいし、
あるいは、医療などの現場で生じている問題に対して、何らかの方策が行われているのを見聞きしたときでもいいのですが、
とにかく、「このことを、そんなふうに理解するなんて、おかしい」、あるいは、
「この問題に、そんなふうに対処するなんて、おかしい」
という疑問というか反論というか、とにかくそうした気持ちが生じたとき、
その気持ちが、論文を書くための最も根本的で最も具体的な「動機」になるのだと思います。
その気持ちをもとに、「ではどう考えたらいいのか」という方向へ考えが展開し、
自分自身の意見を、他者の意見と対比しながら考えることができるようになる。
そして、「そのことについては、こう考えるべきだ」、という仕方で、
たとえば、或る哲学者の発言についての解釈として自分の意見が持てるようになるためには、
おそらく、自分自身がその哲学者にかなりの程度傾倒している必要があるでしょう。
そうでなければ、その「自分の意見」は、その哲学者の考えとして示されているものではなくなってしまいますから。

したがって、まず、何かある事柄について疑問を抱くこと、そして、それについて自分の答えを見つけようとすること、
このプロセスがテーマ発見の基礎であり、或る哲学者の解釈としてそれを行う場合には、
その「自分の答え」をその「哲学者の答え」として提出すること、
言い換えれば、自分自身がその哲学者に傾倒していること、
このことが前提となる、ということになるでしょう。

こうしたプロセスなしに、ただ何となく面白そうだからという漠然とした気持ちで論文のテーマを選んだ場合、
そもそも何らかの「はっきりとした問題」に対して「答えよう」という姿勢がないわけですから、
問題設定そのものが漠然としたものになり(たとえば、「カントの『純粋理性批判』について検討する」の類)、
その結果、単にテキストを要約したり、概説したり、研究状況のレポートに終始したり、
何をしているのか本人にもわからないような妄想に近いことを延々と書いたりするしか、することがなくなってしまう。
論文の中で何をしようとしているのか、書いている当人がよくわかっていないわけですから、そういうことになってしまうのです。
(卒論の場合はそれでも仕方がないという考え方はありますし、
サーベイをするのだというはっきりとした目的を持って書いている場合は別です。
ただし、その場合には、その文章はサーベイを目的としているのだと論文冒頭で明記すべきだとは思いますが。)

また、自分自身、その哲学者に傾倒していないのに、たまたまその哲学者の著作を読んでいるなどの理由で
論文のテーマとして選んだ場合には、仮に、問題を抽出して在来研究者と自説との対比を行ったとしても、
肝心の「自分の考え」が、その哲学者の考えから掛け離れたものになる可能性が高く、
そうなってしまえば、もはやそれは、その哲学者についての解釈としては認められなくなってしまう可能性が高い。
卒論や修論の場合には、この点についてはあまり考慮されないかもしれませんが、
研究者になろうとする場合には、その哲学者への傾倒という要素は、非常に重要な要素になってくるでしょう。
好きこそものの上手なれ、というと話が少しずれるかもしれませんが、
自分が好きでもない哲学者の研究など、そもそも動機づけのレベルで無理があり、長続きしないでしょう。


以下は、研究の動機づけということについての余談です。

私が理学部にいたとき、カント、ショーペンハウエル、ニーチェの本を翻訳で読み、面白いと思い、
その影響で哲学科に入りました。
ですから、哲学科に入った当初は、これらの哲学者の中から研究対象を選ぶつもりだったわけです。
しかし、東北大の哲学科では、履修要望科目として、ギリシア語かラテン語が指定されており、
どちらかを履修することが要望されていましたので、人数の少ないギリシア語の方を選びました。
大勢の中で勉強するのは、あまり好きではなかったので。

ところが、ギリシア語を勉強しはじめてみて、これほどわからないものが世の中にあるのか、と驚き、
その驚きだけによって、一年間、脱落せずに、ギリシア語を続けました。
一年間終わってみても、まったくわかっておらず、一通り入門が終わった段階で、自分で入門書を復習してみました。
それでも動詞の変化などほとんど頭に入っておらず、どうしたものかなぁ、と思っていたところ、
たまたま一緒にギリシア語の授業を受けていた友人が、学部・大学院で開講されているギリシア哲学のゼミに出ると言い出し、
私も、せっかく一年間こんなに苦労して勉強したものをそのままにしてしまうのも、もったいないと思い、
或る程度読めるようになるまで、友人につき合ってそのゼミに出てみよう、と軽い気持ちでそのゼミに出始めました。

そのゼミで読んでいたのが、『パイドン』の霊魂不滅の証明の箇所で、
翻訳で読んでも何が何だかサッパリわからない。
解説書(ギャロップ)を読むと、もっとわからなくなる。
おまけに、そのゼミの先生は、「ギリシア語というのは、二年目が山なんだよ」、と、
せっかく一年間乗り切ってきた学生を絶望の淵に突き落とすようなことを平気で言う。
そういう状況で、よくまあ続いたものだと思いますが、とにかく、その友人が出ているというそれだけの理由で、
どうにか二年目も乗り切ったというところなのです。

そのように、まったくわからないながら続けていると、不思議なもので、わからないということに抵抗力がつく。
逆に、わからないことをわかりたいと思うようになる。
そう考えて、ギリシア哲学を専攻することに決めた、という部分もあるのです。
もちろん、それだけではなく、『パイドン』自体が興味深い本だったということもあるのですが。

いずれにせよ、研究というのは、ちょっと考えればすぐわかってしまうようなことについてではなく、
現状ではとても自分にはわかりそうにないことについて、それを何とかわかろうとする、わかりたいと思う、
そういう気持ちがないと、たぶん続けていくことはできない、と私には思えるのです。
その気持ちを支えるのは、最初のうちは、私の場合には、友人の存在だったわけですが、
それが知らないうちに、プラトンという人になり、それが今でも続いているのです。


P.S.
蛇足ですが、研究の動機ということについて、一言つけたしたくなりました。
哲学の論文を書くためには、哲学についての関心がなければならないことは言うまでもありません。
生や死、幸福とは何か、必然とは何か、時間とは何か、空間とは何か、といった、哲学的な事柄への関心がなければ、
「自分にはわかりそうもないことをわかろうとする」という場合の、その「わかりそうもないこと」の領域が違っている
ということになりますから。
たとえば、自然科学的な個々の事象について、現状ではわかりそうもないことを探求しても、
それは哲学の論文を書くための動機にはならないということです。

その意味で、自分が根本的には何に関心があるのか、このことをも考えてみる必要があるでしょう。
by matsuura2005 | 2004-06-23 18:57
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