管理人 : 松浦明宏
哲学の論文を書くということ(2) -人に読んでもらうために書く-
今回は、前回言及した二つの点のうち、(2)論文は、自分が読むために書くのではなくて、他人に読んでもらうために書くものということについて書きます。前回の話の続きから(2)の話に入っていきます。


前回は、論文は感想文とは違うものだと述べました。
この考えを私は現在採っており、また、今後、この点について考えが変わるということはまずないでしょう。

ただ、私の前回の「哲学論文の書き方」を読んだ人の中には、こう思う人が出てくると思います。

1.「私の指導教官は、二次文献(他人の意見・在来研究)に振り回されるより、テキストと格闘して自分の考えを述べることを重視する。」
2.「私の研究領域では、まだほとんど研究が進んでいないので、二次文献があまりない。だから、二次文献を考慮することが難しい。」
3.「私の指導教官は、従来の研究状況を把握し、これまでにどのように考えられてきたかを正確に総覧することを重視する。」

前回の枠組みでいえば、1.と2.は「感想文」や「エッセイ」に近くなり、3.は「サーベイ論文」に近くなります。
実際、二次文献への言及がほとんどない論文や、
逆に、ほとんど二次文献への言及だけからなっている論文が、学術誌に掲載されています。
また、テキスト内容の要約の域を出ない論文が学術誌に掲載されていることもあります。


こうした現状を見ると、私のように「問題設定」、「在来研究の検討」、「自説の提示」を三つとも揃えなくても、
論文として認められるのではないか、と言われるかもしれません。

医学系、理科系の学術誌では、サーベイ論文、オリジナル論文(原著論文)、短報など、各々の文章の種類がきちんと区別され、
それぞれの枠で募集が行われていますが、哲学・倫理学関係の学会誌には、いまのところそうした明確な区別はなく、
大学院生等、これから学者になろうという立場の人間が投稿できる枠としては、
「論文」と「書評」くらいしか用意されていないというのが大勢を占めると理解してよいと思いますので、
サーベイ論文もオリジナル論文もテキストのサマリーも、一括して「研究論文」ということになってしまう、
というのが正確なところではないかと思います。
(最近、一部の全国誌でサーベイ枠を作ろうという動きがあり、これは歓迎されるべき動きだと私は思います。
また、京都大学の『古代哲学研究』(Methodos)には、短報の枠があります。)

サーベイ論文が論文として認めてもらえる学術誌(又は分野)の場合には、自説の提示をほとんどせずに投稿しても、
在来研究の検討がきちんと書かれていれば、採用されるでしょう。
しかし、サーベイだけでは認められずオリジナリティーを必要とする学術誌(又は分野)に投稿しようとする場合には、
自説をきちんと書かなければ採用は難しいでしょう。
どの学術誌にどういう性格の論文が採用されるのかは、その学術誌のバックナンバーを見ればおおよそわかります。
それは、その学術誌の編集委員の考え方により決まることで、その編集方針を知るには、
過去にその雑誌に採用された論文を見ればよいということです。
もちろん、同じ学術誌でも、研究分野が異なると、異なる審査員(たち)が審査に当たるのが普通でしょうから、
自分が投稿しようと考えている研究分野についてのその学術誌の傾向を調べる必要があるでしょう。

ただ、(自分の研究分野について、)オリジナリティーを重視する学術誌に投稿する場合でも、
単に自説を提示するだけにはせず、なるべく在来研究の検討をも行っておいた方がよいと思います。
自説に関する記述量と在来研究に関する記述量の配分をどうするか、
自説の提示と在来研究の提示の順序をどうするかということについては、
投稿者の考えに委ねることにして、
ともかく、どのような配分・順序をとるにせよ、
自説と在来研究との「対照」を行っておいたほうが、自説のオリジナリティーがより明確に伝わるからです。
在来研究に言及することは、もしそれをしないと「感想文」になってしまうという、単に形式的な理由だけではなく、
在来研究との比較対照によって、自説の特徴が読者により明確に伝わるようになるという、実質的な意味を持っているということです。

或る研究領域の「専門家」が自分の指導している学生の考えだけを述べた文章を読めば、
その文章にオリジナリティーがあるのかどうか、
どこにオリジナリティーがあるのか、
どの程度意味のあるオリジナリティーか、
ということはわかるでしょう。
専門家は、いろいろな在来解釈を既に知っているからです。
しかし、その研究領域の専門家ではない人がその学生の文章を読んだ時には、
オリジナリティーの有無や価値についてわからないという場合も出てくるでしょう。
そして、学会誌などに投稿したときには、専門家が審査員になるとは限らず、
専門家ではない審査員によって判断される場合もあります。
そのことを考えた場合、
専門家(又は自分の指導教官)ではなくて、
その研究分野の非専門家が読んでもその論文のどこにオリジナリティーがあるのかがわかるような書き方をしておくのが、
最も確実です。
「読めばわかるだろう。」という姿勢で書いたり、
「私の指導教官はこれでよいと言った」という理由でそのまま投稿したのでは、
まず、理解してもらえないと考えておいた方がよいでしょう。
自分が他の研究領域の論文を読んだときのことを考えれば、
非専門家がどのような目で自分の論文を読むのか、おおよそ見当がつくのではないでしょうか。

「専門家でない人間が半分眠りながら読んでもわかるように書け。」
「中学生に向かって説明するつもりで書くとちょうどいい。」
「話題はワンポイントに絞り、後はすべてそのワンポイントについての説明に使え。ワンポイントレッスンだ。」
「制限枚数が注込み30枚なら、一旦15枚ー20枚で話をまとめろ。その後、説明を加えろ。」

これらは、私が全国誌へ投稿論文を書いていたとき言われたことです。
実際、一つの投稿論文の中で私が本当に言いたいことを述べた部分というのは、一文ないしは数行にすぎず、
残りの部分はすべてその一文や数行の意義を理解してもらうための説明にすぎません。

指導教官にコメントを求めるときにはオリジナリティーの質を中心にコメントを聞き、
論文そのものの質を上げることを考える。
学会誌に投稿するときには、指導教官のコメントを踏まえた上で、
非専門家にもそのオリジナリティーが伝わるような書き方に改める。
もちろん、指導教官のコメントの中に、非専門家への配慮に関するものがあった場合には、
それも反映させた方がいいことは言うまでもありません。
学会誌に落とされた後で「審査員はわかっていない」と文句をいったところで、
損をするのは落とされた方です。
わかっていない審査員にでもわかるような書き方をしなかった方がわるい。

日記やメモの類は、自分が読んで自分が理解できればそれでいい。
しかし、論文は、自分が読むために書くのではなく、他人に読んでもらうために書く、
自分の考えを他人にわかってもらうために書くわけですから、
他人が読んで理解できなければ意味がない。
論文というのは、学者間の「コミュニケーション」の一つなのですから。

あるいは、こういう言い方もできるでしょう。
つまり、同僚や指導教官に読んでもらって批判されると、その批判に反論したくなります。
特にその批判が誤解に基づくものであった場合には、そうです。
しかし、それを単に相手の誤解だといって放置するのではなく、
それが誤解だということを反論や補足説明として文章に書いてみるのです。
たとえば、
「これまでの記述からすれば、〜と思われるかもしれないが、そうではない。なぜなら、〜だからだ。」
「以上の説明からは、〜という反論が予想される。
しかし、この種の反論は正当ではない。
なぜなら、私が言っているのは、〜ということだからだ。」
等々の仕方で。
こうした仕方で反論や補足説明を考えて文章にする過程で、本当に重要なポイントが浮かび上がってきて、
自分が本当は何を言いたかったのかが、そのとき初めてわかる。
そうなれば、それをそのまま論文に書けば、より明確に自分の言いたいことを表現することができる。
こういうことをしばしば私は経験しました。

したがって、自分の書いた文章を学会誌に投稿する前に、指導教官であれ同僚であれ、
誰か他の人に読んでもらったときのコメントには最大限の注意を払うべきでしょう。
他人が読んだときにどこがわかりにくいのかは、その他人が一番よく知っています。
自分だけで考えていても、他人にとってどこがわかりにくいのかは、なかなかわかるものではありません。
あるいは、他人に読んでもらって、その人がどこをどのように誤解したのかを把握するということも非常に重要です。
論文審査においてもそれと同種の誤解が生じる可能性があり、
事前にその誤解を取り除く機会が与えられたと考えれば、
たとえコメントを寄せてくれた人が誤解していたとしても、その誤解は貴重なものだといえるでしょう。
また、上述のように、往々にして、他人が誤解するところや他人に理解できないところは、
実際には書いている当人にもよくわかってはおらず、
そうした誤解や批判を受けることを通じて、自分が本当は何を言いたかったのかがわかることが多い。
誤解や批判は自分の考えの明晰化につながるのです。雨降って地固まる、というところでしょう。
他者のコメントを反映させようとする努力が、論文づくりには非常に重要なのです。

論文書きを料理作りにたとえて、次のように言った人がいます。
これは至言であり、私はこの言葉を論文書きの座右の銘としています。

「論文は料理のようなものだ。いくらコックが精魂こめて作っても、お客が『まずい』と言えばそれまでだ。
作り直さなければならない。お客の意見を聞かなければ、客足が遠のき、最後には店じまいしなければならなくなる。」

ここで言う「お客」とは、もちろん、読者、審査員のことです。
自分のオリジナリティーに自信があるのなら、それが非専門家の審査員にでもわかるよう書くことです。
理解されなかったことの責任を審査員や読者に押しつけるのは、みっともないのでやめましょう。
そうならないために、いろいろな人に読んでもらってコメントをもらい、そのコメントをもとにさらに自分の論点を明晰にすること、
そうすることで、徐々に、多くの人に理解される論文を書くことができるようになるのではないかと思います。

次回は、より具体的にどのように書いたらよいのかについて、私見を述べることにします。
by matsuura2005 | 2004-06-21 18:56
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